Henri-George Clouzot’s INFERNO

昨今の音楽/映画雑誌において、「●△#リスト」というのは定番特集メニューだが、「ベスト・アルバム」「ベスト・ソング」といった王道企画もいい加減ネタが尽きたのか、最近はジャンルや期間(70年代のベスト・アルバムとか過去25年のベスト50とか)、あるいはアーティストやレーベルに的を絞るなど、ひねりの効いた企画も増えてきた。デジタル化で旧作に手軽に、かつ幅広くアクセスできるようになった現在、膨大な選択肢を前にした受け手の中に「バイヤーズ・ガイド」的記事のニーズは大きいのかもしれない。
また、基本的にこうしたリスト向けな媒体であるウェブ・メディアやブログ――たとえば写真のクオリティやレイアウトにも重きが置かれるインタヴュー/ロングな書き物記事に較べ、レヴューの集合体であるリスト記事はシンプルな構成で充分&気軽に読める――の人気が、紙メディアの方針に影響を与えた、という側面もあるだろう。「High Fidelty」ではリスト好きなレコード店店員の性癖がオタクの象徴として揶揄されていたが、今はもう、誰もがオタクということだろうか。

そんな中で、なかなか面白かったのが英雑誌UNCUT7月号掲載の「50 GREATEST LOST FILMS」。幻の映画傑作選:50というところでしょうか。おなじみの作品がどう評価されているか~何位にランク・インするかよりも、自分にとって未体験の作品を教えられる方が好きなので、こういうニッチな企画は大歓迎である。編集後記によれば、この特集は少し前の同誌巻頭特集「50 GREATEST LOST ALBUMS」の好評を受け、その映画版として企画されたのだとか。ちなみに、その「~LOST ALBUMS」については読者から(当然のごとく)「こんな作品もある」「これを忘れちゃいないか」と反響が舞い込み、そのリアクションを元に、「読者によるLOST ALBUMS」特集も後に組まれたほど。そんなイギリス人もオタッキーだが、「名盤探検隊」「洋楽秘宝館」といった好企画がレコード・レーベル主導で実現してきた日本の方が、一枚上手じゃないかと思う。
「幻」の基準は、現在新品公式DVDとして通常ルートで入手できない、レコードやCDで言うところの廃盤。未DVD化の作品はもちろん、VHSや中古DVD、あるいはeBay他のオークション・サイトでしかゲットできない・・・というものも含まれる。「2010年夏の時点で、イギリスにおいては廃盤/入手困難な作品」という基準であって、半年ほど待ったら再発された!というケースもある。独自の配給・流通網、そしてトレンド(たとえばフランスやアジアのいわゆる「外国語」映画は、日本でとっくに公開されてるのにイギリスでは後回し・・・というケースもある)を持つ日本とイギリスとでは、事情も異なるだろう。が、1位がデニス・ホッパーの監督作「The Last Movie」(1971)というのは、音楽と映画のクロス雑誌であるUNCUTらしいのはもちろん、奇しくも出版時にデニス追悼のタイミングに重なったこともあり、感慨深いものがあった。

そんなわけで、UNCUTリスト内の作品(存在すら知らなかったものも多数!)から色々勉強させてもらったのだが、入手困難という以上に、制作されたのに様々な事情で当時は世に出なかった、幻のお蔵入り作品――ビーチ・ボーイズ「Smile」、ビッグ・スター「Third/Sister Lovers」、ニール・ヤングのプロジェクト等――というのもある。そんな「いわく付き作品」のひとつとして興味を惹かれていたのが、Henri-George Clouzotの未完作「Inferno(仏題:L’Enfer=地獄)」(1964年)に関するドキュメンタリー/復興プロジェクトであるこの作品、「Henri-George Clouzot’ s INFERNO」(第35回セザール賞で、最優秀ドキュメンタリー部門受賞)。鳴り物入りでクランク・インしたものの、難航&トラブル続きで撮影は余儀なく中止→アメリカ資本の大予算映画だったために保険会社が介入し、フィルムの差し止めを要求、その映像は40年近く陽の目を浴びずにきたという(後に、故クロード・シャブロルが同じ脚本を原案に、エマニュエル・ベアール主演で「L’Enfer」を94年に撮っている)。
この手の話題に弱いミーハー/野次馬根性に火がつき、昨年の英劇場限定公開は逃したものの、ボーナス映像も充実したDVDリリースを待って観ることにした。当時のビッグ・スター:ロミー・シュナイダーが主演なのにお蔵入りになった映画なんて、それだけでも好奇心を刺激されてしまう。作品の内容は、残されたアーカイヴ映像――実際に撮影されたリールはもちろん、無数のスクリーン・テスト、実験、衣装テストも多数含まれる――を中心に、プロジェクトの始まりからその無念な断念までを、関係者&現場にいた製作スタッフへのインタヴュー、再現セクション(映像は残ったもののサウンドトラックは現存しないため、台詞やナレーション部、未撮影パートは今の俳優によって演じられている)と共に構成したもの。クルーゾーが思い描いたアイデアや生み出したヴィジョン、撮影時のエピソードといった断片を繋ぎ合わせながら、この「完成の暁には世界的に話題を集めたであろう大作」が姿を現していく仕掛けだ。
作家本人の手によってモンタージュされない素材を寄せ集め、その作品の全体像を推し量ろうとするのには無理があるかもしれない。作品の意図やストーリーを可能な限りトレースしてはいるものの、ここで観れるのは、結局はドキュメンタリー作家によるひとつの解釈であり、「呪われた企画」とすら言える「Inferno」に何が起きたのか、それを探る推理でもあるのだから。しかし、「たら~れば」の仮定に想像を膨らませたくなるのも頷けるくらい、これら残された断片に刻まれた映像は、マジカルな磁力と可能性とに満ちている。

アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに対して抱いてきたイメージは、代表作であるサスペンス映画の傑作「恐怖の報酬(Le Salaire de La Peur/1953)」、「悪魔のような女(Les Diaboliques/1955)」の監督、というもの。戦前/戦後を主軸にする、いわゆる映画黄金時代の王道な名匠のひとりであり、カウンター・カルチャーとかアヴァンギャルド、ニュー・シネマのニヒリズム、キッチュだのSF大作に味をしめた60年代以降生まれの若造にとっては、逆に観るのが後回しになりがちな作家のひとりかもしれない。諸説あるだろうが、クルーゾーの作家的なピークが50年代だった、というのは多くの人間が共有する意見ではないかと思う。実際、クルーゾーもカイエの連中から当時は槍玉に上がった監督のひとりで、ヌーヴェル・ヴァーグ勢の批判・糾弾は相当にこたえたらしい。
バルドーを主演にしたヒット作「真実(La Verite/1960)」に続き企画された「Inferno」は、クルーゾーにとっての、モダンな新境地開拓をもくろんだ意欲作でもあった。野外・街頭ロケや即興のリズムに重きを置き、スタジオ・システムから離れた私的映画/作家映画の可能性を探ったヌーヴェル・ヴァーグへのリアクションか、撮影の多くは野外に設定されている。ロケ地に選ばれたリゾート・タウンを活かし、ダイナミックな景観が何度も登場する。しかし、もともと脚本家からスタートしている人だけに、セット・デザインや絵コンテといった技術面での下準備は実に周到。絵コンテと実際に撮影されたシーンとの比較をする箇所が出てくるが、その正確な具現ぶりには驚かされるし、撮影に集ったカメラマンも名人ぞろい。そんな風にフランス映画の伝統――職人技と言ってもいい――を活用する一方で、先にも書いたように、本作の目玉は音と視覚面におけるモダニズムの追求と実験の記録だろう。

オプ・アートやニュー・ルックの未来性、電子音楽といった当時のトレンド要素を取り入れるべく、他アーティストの協力を仰ぎ、様々なテスト撮影を敢行。図形やパターンのコンポジション、プリズムのリフレイン、幻覚的な色彩、逆回し、グロテスクな接写映像、テープ操作で歪められた人声やノイズ、鏡やカメラを工夫してのエフェクト/トリック(アシスタントが走らされる幻想的で美しいシーンがあるが、このモノクロ映像のセンスは数十年後のプロモ・ビデオを思わせるもので、びっくり)・・・と、意欲的なチャレンジが次々に登場する。今となっては技術的にはアナログ~他愛ないトリックなのかもしれないが、逆にSFXや3Dには出せない質感は新鮮だし、イメージからはぶっ飛んだ結果が生まれている。
中でもインパクト大なのは、出演俳優を使ってのカメラ・テスト映像の数々。男優勢のテストも面白いが、クルーゾーの眼がもっともオブセッシヴに追い回すのは、やはり主演のロミー・シュナイダーである。当時26歳、健康的な肢体と気品、官能性の入り混じる美で内側から輝くような彼女を、フレームに切り取り特殊効果で刻み、銀粉やオイルで塗りたくって照明を試し(DVDパッケージの妖艶かつキャンプなポートレートでも、カラー撮影トリックのために青いメイクが施されている)、思わせぶりなポーズをとらせ、果ては水中に沈めたりしている。台詞を伴わないテスト映像だけに逆にフェティシズムが強く漂ってきて、時にケネス・アンガー作品を観ているような気分にすらなった。
お嬢様女優のイメージからなかなか抜け出せずにいたというロミー・シュナイダーも、巨匠との野心作で殻を破りたいという思いから、積極的にこれらのテストに参加している様子が窺える。また、美しく魅惑に満ちた若妻と、その不貞を疑い、嫉妬とパラノイアの病いに狂っていく夫という「Inferno」の筋書きが、ニューロティックでサディスティックですらある窃視者の目線――ヒッチコックのPOVはもちろん、「血を吸うカメラ」の主人公のそれともだぶる――の心理を視覚化する必然を生んだのだとは思う。だが、撮影スタッフはもちろん俳優に対する欲求も熾烈で「仕事しにくい監督」と評されたクルーゾーの完璧主義と、斬新な表現を求める試行錯誤との相克もまた、これらの映像(テスト映像のみならず実際の撮影でもリテイクは執拗で、脚本の書き直しや新たなアイデアに戸惑う現場の様子が窺える)にオブセッションの影を落としている。

一種いじめに近い演技指導/演出の過酷さに音を上げたかのごとく、まず主演男優セルジュ・レジアーニが急病を理由に降板(クルーゾーとの間に個人的な確執があった可能性も示唆されているが、真実は謎のまま)。ロケ期間が限定されていたにも拘らずスケジュールは既に難航しており、急遽出たジャン=ルイ・トランティニャンによる代役案も頓挫。撮影済みパートを活かしつつ、台本を修正しての続行が決定したものの、程なくしてクルーゾー自身が撮影中に発作を起こし入院、停止した「Inferno」に再起のチャンスは訪れないまま、幻の映画として長らく封印されることになる。
製作そのものが映画のようにドラマチック、かつミステリアスな終わりを迎えたこの作品に向けられる「なぜ?」へのヒントは、いくつか提示されている。中でも、脚本・製作・監督を兼任し、求めるままの予算、キャストからスタッフまで好きに選ぶ大いなる自由を許された結果、クルーゾーは尽きせぬアイデアとその探求というエンドレスでエゴイスティックなプロセスにはまりこんでしまったのではないか、との見方は面白い。天才と謳われた映画作家ですら、歯止めがない状態では自己耽溺に陥り、自らの才能に取り憑かれ、本来のゴールを見失う可能性はある――もしかしたらそれは、(たとえばオーソン・ウェルズやフランシス=フォード・コッポラの例もあるが)才能が大きいアーティストゆえの「地獄」なのかもしれない。

クルーゾーは、その後77年の死まで、結局1回しか長編映画のメガホンをとることがなかった。しかし「Inferno」の無念は強く残っていたようで、最後の長編作「囚われの女(La Prisonniere/1968)」では、人物設定やストーリーはまったく違うものの、習作で終わったオプ~キネティック・アートの利用や視覚トリックによる心理表現、愛の妄執=オブセッションというテーマをしっかりリサイクルしているのは偉い。こちらもクルーゾーの病状が悪化したために撮影は一時中断されたそうで、素晴らしいシークエンスはあるものの、彼にしてはやや「急いた」作り(=尺は100分)で、人物造形やストーリー展開~テンポの統一性に物足りない印象が残るは、そのせいもあるのかもしれない。
また、この作品の前に公開されたワイラーの「コレクター(The Collector/1965)」、あるいはブニュエルの「昼顔(Belle De Jour/1967)」といった名作群とも被る、支配と服従=サド―マゾの関係、偏執狂や不能といった心理的要素~葛藤がサブ・プロットとしてあるものの、ワイラー(あるいは原作者ジョン・ファウルズ)がバネにした階級差の醜さ、あるいはブニュエルのシュールでインモラルな視点にはリーチしていない。支配する側=リッチ&リベラルなインテリゲンチャ男性と、対する服従側=良識に囚われたプチ・ブル女性という構図の対比は現代の視点で見ればやや説得力が薄く、ストーリーも最終的にメロドラマに帰結していってしまうので、(女の筋を通しているという意味では、個人的には嬉しいのだが)やや残念ではある。
しかし、主演のエリザベート・ヴィエネールは激烈に可愛いし、場面が変わるごとに目を楽しませる彼女の60Sファッションもいちいちファッショナブル、そして当時のパリの風俗やインテリアも実にナイス。そのエリザベート、アイドルな可愛さを劇中で散々いじられて耐える姿(ファリック・シンボルにどぎまぎして熱くなっちゃうシーンとか、分かりやすすぎて笑ってしまうのだが)も、健気でナイスです。しかも、相手役=サディスティック&エゴ満開な画廊オーナー役を演じるのが、痩身ギーク&シックなローラン・タルチェフってのは――自分的には超ツボ。ローラン・タルチェフは、ブニュエルの「銀河(La Voie Lactee/1969)」がいちばん印象に残っている人だけど、①頬骨が強烈②目が残忍③でも口からこぼれるほど歯が多く(=言い換えれば、歯並びが悪い)、どこかしら下品な顔、すなわち美醜の入り混じった(若い頃のミック・ジャガー的?)美貌という意味では、ピエール・クレマンティの次くらいに好きな俳優なのだ。
そのクレマンティにしても「昼顔」を観て一目惚れしたわけで、彼は「銀河」にもカメオ的に出演している。また、エリザベート・ヴィエネールの劇中におけるサン・ローラン的な衣装(ミリタリー調ワンピースやドレスも素敵だけど、彼女が意を決してSMの世界に乗り込もうとする場面で、革ジャン+コーデュロイ+ブーツという、フェティッシュな装いに変わるのはさすが!と思った)他、「囚われの女」には、スペインのライヴァル=ブニュエルの影響も影を落としているような・・・気がするので、見比べるのも一興かもしれません。

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Mariko Sakamoto について

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