This Is England ’86

今月はSNOOZER誌でもレヴュー原稿を書かせていただき、普段に輪をかけて仕事絡みのヘヴィなリスニングが多い月になった(ありがたいことに、好きな作品ばかりだったので文句はないのですが)。んなわけで純粋に「何も考えずに、ただダラダラ聴いていたい音楽」には待ったをかけ、合間の息抜きは、もっぱらカジュアル&無責任に楽しめる本や映画、TVコメディだのにシフト。そんなタイミングで、Shane Meadowsの新作「This Is England ‘86」がチャンネル4でオンエアされた!っつってもテレビは持ってないので、DVD化を待って一気にまとめて観たのだが、いやはや~、息抜きになるどころか、ずっしり重い内容だった。

フォーマットは4話からなるテレビ・シリーズながら、「TIE86」は、本ブログの前に書いていたAudiobunnyでも取り上げたことのある、シェーン・メドウズ長編映画「This Is England」(2007)の後日談になる。1話の尺は48分弱なので、単純に合計すれば3時間以上。ジャック・リヴェットでもあるまいし、その意味では商業映画からテレビにメディアを移したのは現実的かつ大正解であり、シェーン・メドウズならではのナチュラルな会話&キャラクターの絡みを存分に楽しむことができたのだが、と同時にその尺がシリーズの弱点にもなっているのは、ちょっと皮肉かもしれない。
ストーリー/舞台は、現実のタイム・ラインに歩を合わせ、オリジナル「This Is~」から3年後=86年に設定されている。作品の中でも何度も記録映像が挿入されるように、この年はマラドーナの「神の手」でおなじみ、ワールド・カップ@メキシコ開催年。数少ない、全国民的に盛り上がるイベント・イヤー=多くの人間の記憶に集団意識として刻まれている年という点はもちろん、2010年というW杯年にぶつけることで、サッチャー政権下の1986年と、保守党が再び政権を取った2010年イギリスとを対比させたい、との思いもあったのだろう。
この企画のそもそもの発端は、アマチュアや若手俳優を中心とする、「TIE」の瑞々しく素晴らしいアンサンブル・キャスト(=スキン・ヘッズのストリート集団/擬似家族)への、ファンからのラヴ・コールだったという。映画そのもののみならず、劇中のフィクショナルなキャラクター達が一人歩きし始めたということだし、監督シェーン・メドウズ自身にとってもパーソナルな思い入れの強い自伝的作品だっただけに、そのリアクションに対する喜びは大きかったのだろう。それに応じる形で、シェーン・メドウズは「TIE」でのショッキングな経験を経て、「彼らがその後、どんな道を辿ったか」を描いていく。

第一話は、順当にキャストとの再会~これまでの彼らのストーリーをさりげなくトレースする、イントロダクションを主軸に展開。「TIE」で主役を張ったショーン(トーマス・タルグース。シェーン・メドウズの分身と言ってもいい)が、2007年当時の「子供」から、立派にガタイもでかい16歳=「思春期の少年」に成長しているのを見守るのは、それだけでも感慨深い~~・・・などと考えているその時点で、自分がいかに「TIE」キャストに感情移入しているかが割れて笑ってしまったのだが、この子のナチュラルな存在感(ぶっちゃけ、同世代の女の子からアイドルとしてキャーキャー言われるような「カワイイ」「甘い」ルックスではない)と演技が象徴するのはトム・コートネイであり、トリュフォーにおけるジャン=ピエール・レオー。シンパシーを抱くな、という方が無理である。
トーマス・タルグースは、デビュー作となった「TIE」(あの時点では14歳の完全な素人)と本作の間に、極めてリリカルで繊細な素晴らしい中篇「Somers Town」(リアリズムで知られるシェーン・メドウズが、ヌーヴェル・ヴァーグ風の映像詩を展開している。すごく好きな作品)でも主役を演じているのだが、その映像と較べても、本作における彼の、子供から青年へのジャンプぶりにはびっくり。女の子は10歳くらいから大人への離脱が始まる~故にその曲線はゆるやかなのだが、男の子の成長は始まりが遅く、それだけに2、3年で一気に変化するものらしい。

しかし、ショーンに負けじと変化しているのが、残るメイン・キャスト。時代の変動に伴い、スキンズだった彼らはモッズ・リヴァイヴァルへ移行。ドクター・マーチン、フレッド・ペリー・・・と表層はさほど変わっていないとはいえ、3年前は坊主刈りにサスペンダー、折り返しジーンズ+ブーツだったリーダー格:ウッディがもろポール・ウェラーなマッシュルーム・ヘアに髪を伸ばし、スーツ+パーカ+スクーターで登場。髪が長い時のリアムと、カサビアンのトムを足して二で割ったような雰囲気である。
彼のGFであるロルも、ブリーチしたブロンドの短髪(モズのリーゼント+バナナラマ?)でマニッシュな80S娘のいでたちだ。もっとも、ヒップホップ流れのジャージ族、Brosめいたヤンキー(ドラムスにも通じる〝あの頃〟の髪型が抜群)、ゴスまで混じる彼らは、要はスモール・タウンのデコボコなはみ出し者の若き失業者集団であり、そのむちゃくちゃなコンビネーションが生むアクション~インプロを活かした会話の小気味良さは、シェーン・メドウズの真骨頂。台本あっての話であり、演技指導はもちろんやってるんだろうが、馬の合う連中を再び集めて自由に動かし、そこで生まれるインタラクションをフィルムに収める手さばきはさすが、である。

貧しい片親家庭のショーンは、高等教育に進むチャンスもないまま、求職活動を始める。と同時に、徒党を組まないLonerな彼はお約束の展開としていじめのターゲットにもなり、スクーター族(軽バイクを乗り回すチンピラ連中)に追い掛け回される羽目に。その泣き笑いな窮乏(ほとんど、チャップリン喜劇に近い)の一方で、メインのストーリーとして、ウッディとロルの恋人同士を核にする、「大人の問題」が浮上してくる。結婚に伴う夫としての責任という現実を前にして、仲間を集めてサッカーをプレイし、パーティに繰り出して酔っ払い、バカをやる喜び/若い無邪気さを犠牲にしたくない・・・とビビってしまうピーターパンな男(ウッディ)と、トラウマでしかない過去と家族を棄て、真っ白なキャンバスに自分の家族像を描きたいと切望するシンデレラ女(ロル)との葛藤である。
その、ウッディによる結婚のドタキャンを発端とするキャラクターの反応と動きは、新キャラの登場による力学の変化も混じりながら、様々に重なり合い、もつれながらドラマを展開していく。ショーンは最終的にウッディ&ロルのグループに再び受け入れられるのだが(「TIE」で起きた事件を苦に、ショーンは自らグループから距離を置いていた)、その邂逅――出来が悪く家出した息子を、あたたかく迎える家族みたいなもんですね――を喜ぶ中にも、シリーズ序盤から、丘の向こうに現れた黒雲のように不吉な悲劇の予感。それは大当たりで、やはりシリーズは完結編に向かい、絶望的に暗くなっていった・・・。

友情・母子愛・初体験といった思春期ネタを通じ、ボーイズ・ライフ/ファミリー・ドラマを刻んでいくショーンのエピソードは、トーマス・タルグースの自然な演技(というか地のまま)と母親の静かな愛情が相まって、ヒューマンなあたたかみとユーモアを保っている。しかし、このスペシャル・シリーズの主眼は彼ではなく、映画「TIE」では脇を固めた面々、特にロルのバックグラウンドや秘密、変化の描写が焦点。その複雑なキャラクターと重い転落のストーリーとは、これまで女性を主役に作品を作ったことのないシェーン・メドウズにとって、ややハードルが高かったかもしれない(たとえばサム・ペキンパーのように、男や男集団の心理を描くと上手いけど、女はいまいち・・・という監督は割りと多いよね)。
ロル役=ヴィッキー・マクルーア(ジュリー・クリスティっぽくて男前に綺麗)が体当たりの演技で健闘しているものの、早くも訪れたウッディとの倦怠期、家族の裏切り&確執といった問題に対し、彼女が募らせていく苛立ちや怒りの描写が性急で、(クライマックスの、誰しも納得するアクションを除くと)その変化や行動、動機がやや唐突、かつ説得力に欠けて見える。くどくどしい説明を省いたシャープな筋運びやダイレクトな描写を通じ、その行間から感情を読ませるのがシェーン・メドウズの持ち味とはいえ、彼女の繊細な内面の変化とそのニュアンス描写に、もうちょっとエネルギーを傾けて欲しかった。
ドラマのBGMには、「TIE」同様色んな楽曲が登場するのだけど、ロルを始めとする女性キャラ達の脆さ・儚さを象徴するようにザ・ジャムの「English Rose」が挿入されるのは美しかった。しかし、シリーズのオーラスで流れるのは「The Bitterest Pill」であって、やっぱりタフなドラマなのである。

それはまあ、シェーン・メドウズと女性キャラの相性云々だけではなく、本シリーズが若干欲張りなせいもあったと思う。ショーンとロルの物語を骨子に置きつつ、サブ・キャラもそれぞれに、映画では描かれなかった側面を見せてくれる。町工場の、判で押したような仕事にへいこらと従事しながら(失業者数300万人に達する未曾有の不況に陥っていた当時のイギリスにおいて、仕事があるだけまだいいのだが)「これでいいのか、俺?」と悩むウッディ。60年代当時は粋なモッズでならした彼の両親が、今やその影もない中年夫妻になっている・・・という設定に、その息子である彼自身が親同様の道を辿りつつあるのを自覚し、袋小路を感じ取る様は切ない。
グループ内の突っ込まれ役/ピエロであるガジェットは、古典的なエロ喜劇に巻き込まれ、ショーン以上に笑いを振りまいて全体のトーンを和らげている。その相棒ハーヴィーは、普段はヘラヘラしているものの、家庭内暴力の犠牲者としての顔~その暴力を一手に引き受け、妹を守ろうとする健気な表情も示唆される。映画編で重傷を負ったミルキーは、無事に事件から立ち直った様が伺えてほっとさせられるし、一方で、シリーズ後半には映画で強烈な存在感を放ったコンボも再び登場(いや、きっと出てくるだろうとは思ったけど)と、すべての「TIE」キャラに思い入れがあり、彼らの存在にもっと肉付けして立ててやりたいという、シェーン・メドウズの愛情がずんずん伝わってくるのだ。

しかし、それだけに時に詰め込みすぎな感も残ったし、シリーズのメインになるキャラクターと物語をひとつかふたつに絞って、じっくり煮詰めても良かったか?と感じる。最初に書いたように、予算やプロダクションを考えても、映画ではなくテレビにメディアを移したのは納得のチョイス。が、映画を観ていない人間も多く含まれる、不特定多数のテレビ桟敷客=「TIE」キャラクター達に馴染みのない面々をどう物語に引き込むか?という課題もあったと思う。シェーン・メドウズが(脚本も兼任なので、スケジュール的に全エピソードは担当できなかったらしい)監督しなかった第1話&2話が、最近のヒット・ドラマ「Skins」(スキンヘッズとは関係なし。現代っ子の生態を抉った内容)っぽい派手さ&アクション重視の展開だったのは、そのせいもあったかもしれない。
ストーリーとしての山、見せ場を毎回盛り込みつつテンションを維持し、「続く」に持ち込む連続ドラマというフォーマットは、逆にエピソードと船頭多くして・・・の結果になったというか。それでも、そんじょそこらのドラマの足元にも及ばない、パワフルで引き込まれる物語、映像、リアルなキャラクターが描かれているんだけどね。

シェーン・メドウズは、「今回のテレビ版の反応次第では、続編も検討」とのコメントを残している。設定としては4年後の1990年を狙っていて、レイヴ~マッドチェスターが背景になるんだとか。彼の中では、ショーン一行の「語られていない物語」はまだいくらでもあるということだし、それも、今シリーズ(=4話完結は、中途半端でもある)の未消化感の一因なのだろう。コンボ再登場と贖罪のくだりも、「TIE」ファンには嬉しいものの、やぶからぼうで取ってつけた感は否めない。米HBOみたいな会社がイギリスにもあれば、13話くらいは太っ腹でゴー・サインをもらえたかもしれないが。
ともあれ、80年代のイギリスというのは、こうして3、40年経った今も俎上にのぼるくらい、一部のクリエイターを刺激し、長編な〝物語り〟に掻き立てる何かがあるらしい。シェーン・メドウズはもちろん、(扱う素材は異なるものの)デイヴィッド・ピースのヨークシャー・リッパー連作小説および「GB84」もあるし・・・などと考えていたのだが、もうひとつ、「Our Friends In The North」という名作も紹介しておこうと思う。

1996年にBBCが発表したこの大ヒットTVシリーズは、1964~1995年まで、実に35年間のスパンを通じ、4人の友人達の成長と時代・英社会の変化を追った大河ドラマだ。クリストファー・エクルストンのクサい熱血漢演技とか、(当時はまだ無名に近かった)ダニエル・クレイグの野暮ったさとか、今観ると苦笑を禁じえない場面もあるのだけど、緻密な構成とキャラ&ストーリーの豊かな起伏には引き込まれた。完結編のラスト・シーンでオアシス「Don’t Look Back In Anger」がドーンと流れるのだが、「それは禁じ手でしょう~」と思いつつ、やはり泣いてしまった。だって、ずっぱまりなんだもん。
この作品は、「TIE」のようにトライブ(ストリートの若者の「族」)とその集団群像がキー・ポイントではないし、80年代に限定されてもいない。パーソナルなストーリーに政治・社会情勢・世相を巧みに盛り込むことで、ドラマとしてのスケール・野心は遥かに大きい。しかし、英北東部ニューキャッスルがメインの舞台(タイトルのThe Northはここから)であるこの作品は、ミッドランズ=中部が舞台の「TIE」同様、非ロンドンの地方都市とワーキング・クラスを描いた作品であり、そのきれいごとばかりでは済まない骨太なドラマとリアルな描写は、アートや文芸、コメディばかりではない、イギリス映像文化の多彩な顔のひとつだと思う。「TIE’86」に続き、もしも「TIE’90」が実現したら・・・それは、今の世代の若者にとっての「Our Friends~」になっていくのかもしれない。

長くなったが、駄目押しで余談。あーだこーだ書きつつも楽しんだ「TIE’86」、時代考証や舞台に「あれ?」と思う箇所がいくつかあった。それは映画「TIE」でも指摘された点だが(この時期にこの事件は起きなかった、この曲はヒットしていなかった・・・云々)、いちばんデカいのは、第一話で登場するバスがヨークシャーの地方バス(ロケ地はシェフィールド)なのに、家出した主人公ショーンが向かう先は海、という点。そもそも舞台になる町が「ここ」と明示されないとはいえ、夜明かしして歩いて行ける程度の距離に海のないミッドランズ~ヨークシャー圏で、これはかなり大胆な飛躍だろう。
あと、ロルの妹役のケリーがザ・キュアーのTシャツを着て出てくる場面で、「Bloodflowers」だったのは観ていてヒヤッとさせられた。せめて、「The Top」か「Head On The Door」にしておいてほしかったっす。時代考証へのこだわりがものすご~いことでも知られ、その点をファンも細かくチェックしている「Mad Men」みたいなドラマが評価されている今、近代レトロな作品を作る際、リサーチャー、小道具さんや衣装係りもますます苦労させられる、ということで。

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