The House That Jac Built—Elektra60

トークの模様。バーニー・ホスキンス、ミック・ホートン、ジャック・ホルツマン(L-R)

英MOJO誌204号(2010年11月号)で表紙巻頭特集、またBBCでも特番「The Man Who Recorded America」が組まれたりと、この10月でエレクトラ・レコーズ誕生から60周年。それを祝って最新のヒストリー本「Becoming Elektra:The True Story Of Jac Holzman’s Visionary Record Label」(Mick Houghton/Jaw Bone Press)が編まれ、出版記念フリー・イベントがRough Trade Eastで行われることになった。そのイベント告知のニュース・レターをフンフン~と読んでいたら、ジャック・ホルツマン本人も参加することが分かり、もうその場で鼻血ブー!軽く10年、下手したら(潜在的には)もっと長いこと夢見ていた、「いつか会ってみたい人」のひとりである。

音楽を自主的に聴き始めたガキの頃から、「プロダクションのクレジット」とか「レーベル」という代物に対しては、割りと意識的だった。ランダムに気に入っていたアーティストやバンドが、同じレーベル所属だったのに気づくのって、何かが繋がったようで嬉しいですよね?そんな単純なノリで、レーベル名やロゴ、プロデューサーやスタジオの名は、肝心のアーティスト名そして作品タイトルと共に、どんどん頭の中に刷り込まれていったのだった。そのメモリー・スペースに、もっと他の有用な知識を蓄えていた方がよっぽど良かったとは思うが・・・。
もちろん作品はそれ単品として評価し聴くべきだけど、レーベルの実績・歴史というのはバカにできない。たとえば、スカウトが群がる新人バンドがアルバム契約を決める際――印税率だの制作の条件云々、実務的なもろもろの待遇・条件が重要な決め手とはいえ――「ボブ・ディランと同じレーベルに所属したい」「ビートルズのレーベルだから」「ニルヴァーナのレーベル・メイトになりたい」な~んてシンプルなファクターも、案外作用している気がする。マニアックな音楽愛/知識/忠誠心がシビアに試されるインディ・レーベル界では、その傾向は更に強まる。

もっとも、そうした憧れや帰属意識を伝統的に促してきたレーベルのアイコン~強力な神話性が、これからも生まれ続けるかどうかは、正直疑問である。というのも、実物の商品=CDなり、アナログなりの「パッケージ」を買うことなく、デジタル音源だけゲットし、それらを(エクセルのワーク・シートみたく)プレイリストにメカニカルに並べることが可能になった今、ロゴだのレーベル名といった要素は、かつてほどのインパクトを持ち得ないだろうから。人によっては、そうしたエクストラな情報はかえって邪魔、ということもあるかもしれない。
かといって、その「無印」な傾向/状況を、否定的に見ているわけではない(自分はこだわる方だけど、接し方は個人の自由ですし)。というのも、デザインや文字要素の編集、印刷、パッケージングなど、音源を「プロダクト/作品」として整えていく間に、伝統的に、多くの工程がそこに加わってきたから。更に、プロダクト(=現物)として市場に流通させていく過程、プレス工場→倉庫→小売(CDショップなり店)→ディスプレーされた作品を我々が実際手に取るまでに――要するにモノを動かし、それを消費者の手に届くところに設置する――物理的な経費が発生する。それだけではなく、どの作品も(程度の差はあれ)宣伝にお金はかかる。

そうしたプロセスを経ることで、実際にどれだけ「原価」に上乗せされるのかはちゃんと調べていないので分からない。しかし、イメージとしては、手にしたのは1枚のディスクであっても、そこには目に見えない層がパイ皮のようにいくつも被せられている、ということ(それは、CDに限らずどの商品でも同じことだが)。その意味で、中間業者を通さず、作り手と受け手との間で音源をダイレクトにやり取りできるネット流通~デジタルという場は、双方にとって、とりわけ大資本をバックに持たないインディ・ミュージックにおいては、有意義だろう。
産直の市場、あるいは卸の市場で、野菜を育てた農家の人、あるいは漁船で魚を釣ってきた漁師と、原価でやりとりするようなものだろうか?泥(はおろか虫)も付いてて洗われていなかったり、魚はおろしてなくて、ウロコも骨も内蔵もついたままではある。しかし、安くてフレッシュ。買う側が「汚い」「形が悪い」「面倒くさい」と労を厭わなければ、成り立つ世界である。ブランドは、必要ない。そのオプションを音楽において与えられただけでも、我々受け手は喜ぶべきだろう。つい最近まで、その選択肢は限られたものだったのだから。

そう考えると、音楽ファンに親しまれてきた「アイコニックなレーベル(と、それを軸とするファミリー・トゥリー)」という発想そのものがもはや古いのかもしれない。それでも、今も健在で愛され、一種の品質保証マークとして神通力を発している例はある。Blue Noteの2文字が想起させるサウンドや、SUNから浮かぶ、レトロなマイクのイメージ。Atlantic、Island、Discord、4AD、Creation、WARPといった記号が意味するもの。Staxの「指パッチン」やSub Pop、Delicious Vinyl等、ロゴがモダンTシャツの定番になっているものだってある。
そんなレーベルのひとつとして、エレクトラは自分にとって、欠かすことのできない特別な存在である。単純な話、このレーベルからリリースされた作品に好きなものがとても多いのだ。もっとも、「ジャズ」「フォーク」「プログレ」といった具合にジャンルに特化したレーベルではないし、聴き手によってエレクトラから受け取るイメージも異なると思うが、その変遷を大まかに辿ってみよう。

1950年、在学中に友人と親から集めた資金で最初の作品を録音・自主制作したジャック・ホルツマンは、大学を中退し、レコード・ビジネスに乗り出す。ニューヨーク:ウェスト・ヴィレッジでレコード店を経営する傍ら、インディペンデント・レーベルとしてクラシック、ワールド・ミュージック、フォーク、ライブラリー・ミュージックなど、メジャーが手を出さないニッチな作品をリリース。78rpm、そしてシングルから、33回転の12インチ=アルバムへ・・・と、テクノロジーの変化を受け、市場の主流を占めるメディア~リスニング形態がシフトしつつある時期でもあった。
Nonesuchと平行しながら、60年代初頭のディランを王とするフォーク・ブーム期にはジュディ・コリンズやトム・パクストン、フレッド・ニール、ティム・バックリィらをリリース。一方で、ビートルズ登場を機に時代がポップやロックにシフトしつつあるのを感じ取ったエレクトラは、(マイク・ブルームフィールドも在籍した)ポール・バターフィールドらエレクトリック・ブルース・バンドにも手を伸ばしていく。
この点に関しては、ジャック・ホルツマン自身がレコード店経営を通じ、顧客のニーズや動向をダイレクトにチェックできたのも大きかっただろう。オフィスで秘書から受け取った数字の報告書やチャート成績だけチェックして、電話であれこれ指示を下してハイ、業務終了!という当時のレコード会社重役とは、ずいぶん違う姿勢だと思う。また、「こいつは(冷やかしではなく)実際にレコードを買いそうだぞ」という雰囲気の来客を観察していると、彼らがジャケットはもちろん、その裏に記載されたクレジットも細かくチェックする傾向が強いのに気づき、パッケージの重要さも感じた、という話が件のMOJO記事に書かれていたのは興味深かった。

ご存知の方も多いと思うが、エレクトラにはビル・ハーヴィというアート部門の名物ディレクター、要するに専属のレーベル・デザイナーがいた。彼は、数々の名ジャケットはもちろん、「ギター奏者」、「蝶」を始めとするエレクトラの美しいシンボル・マーク/ロゴを創案することで、作品とバンドのヴィジュアル・アイデンティティを生み出すだけではなく、「Presented By Elektra」の刻印を記すのにも大きく貢献した(フェルトの「Song For William S Harvey」は、彼へのトリビュート)。給料払ってデザイナーを雇うなんて、50年代当時の業界では珍しい話だったというし、ADの名前がクレジットされるのも異例。ジャック・ホルツマンも「物好き」「贅沢」と陰口を叩かれたらしい。
だが、もともとマンハッタン広告畑の出身(文字通りの「Mad Men」ですな)だったビル・ハーヴィは、写真、イラスト、デザインやタイポグラフィの可能性を広げ、才能を育てつつ、Elektraのロゴを(可能な限り)ジャケ前面に配するというジャックの方針=コーポレート・ブランド化も推進。そこからアイコニックなヴィジュアルの数々が生まれたわけだし、アルバム・ジャケットの両面カラー印刷が技術的に可能になった時、エレクトラはそのテクニックを真っ先に使ったレーベルのひとつ(1966年、ラヴのファースト)だった・・・という逸話は、サウンドとヴィジョンとコンセプトの融合と、その重要性を早くから認識していたこのレーベルらしい話だと思う。

しかし、本拠地であるニューヨークのビッグな才能はあらかたメジャー・レーベルに掘り尽くされていたこともあり(ジュディ・コリンズに勧められたカナダ人シンガー・ソングライターをゲットし損ねたのは残念だった、という話には笑ってしまった。だって、レナード・コーエンのことなんだもん)、ジャック・ホルツマンは西海岸へ向かう。今でこそ米音楽産業の双翼のひとつとされる西海岸=LAだが、50~60年代初期あたりまでは、(Capitolを除き)ウェスト・コースト自前のビッグ・レーベルやレコード会社の数は、ニューヨークに較べて実は多くなかった。しかし、ロックンロール・ブーム、フィル・スペクター、ビーチ・ボーイズ、フォーク・ロックの成功・・・とポップが活気づき、ビートやヒッピーといった新たなアンダーグラウンド・ムーヴメントともシンクロしながら、サンフランシスコ~LA圏は黄金時代に向かっていく。
「Go West」の思いと共に、ラヴィン・スプーンフルらフォーク・ロックを強化しようとしたジャック・ホルツマンは、まずバッファロー・スプリングフィールドを狙うものの、アトランティックに持っていかれる。しかし、フランク・ザッパ、後にトム・ウェイツらもマネージメントしたハーブ・コーエンの勧めでラヴのライヴを観に行き、エレクトラ初のロック・アクトとして即契約。「自分が会った人間の中でも、真性の天才のひとり」とジャックが形容するアーサー・リーは、現金で支払われた前金5000ドルの9割を、その日のうちにベンツ購入に充ててしまったとか・・・ははは! 筆者のオールタイム・ベストの1枚「Forever Changes」はもちろん、ビル・ハーヴィがデザインしたLOVEのバンド・ロゴは、今やサイケ・イメージ古典中の古典だろう。

そのラヴのアーサー・リーに「ヘッドラインじゃないが、この新人バンドは観とくべき」とプッシュされ、1966年春、ジャック・ホルツマンはベース奏者のいない4人組バンドと出会う。ザ・ドアーズだ。「1回観ただけではピンとこなかったが、毎晩クラブに足を運んで、4晩目で『これは!』と感じた」と正直に認めているのは偉いし、いったん惚れ込んでからは迷いなし。コロムビアとの育成契約が終了した時点で、即座にバンドにレコード契約をオファー~エレクトラの新たな最優先アクトに迎え入れ、約1年後には、レーベルにとっての初の全米1位シングル=「Light My Fire」がもたらされることに。ジャック・ホルツマンにとって、多くの意味で格段に思い入れの深い、特別なバンドなのだろう。彼らの話になると、今でも涙目になってしまう様は、なんとも泣ける。

混乱と対立、闇を増していく社会や政治状況を映すように、ロックはフラワー・パワーの理想から、ヘヴィでタフ、アングラなアルバム・ロック~知的なロックへと発展していく。ドアーズの大成功に甘んじることなく、NY/LAの両岸のみならずエレクトラは中東部:デトロイトに腕を伸ばし、MC5と(当時はその子分格だった)ザ・ストゥージズを獲得する。この立役者になったのが、当時エレクトラのパブリシスト=宣伝担当を務めていた、ダニー・フィールズ。アンディ・ウォーホルのファクトリーのメンバーだった彼はヴェルヴェッツとも当然親交があり、ニコの「The Marble Index」がエレクトラから出たのも彼の引き。その後、ラモーンズ、パティ・スミス、テレヴィジョンらNYパンク勢の発掘に深く関わることになる人物でもあった。
その彼が、知人の勧めで1968年にデトロイトまで飛び、MC5とストゥージズの狂熱ライヴを目撃&感電。上司=ジャック・ホルツマンに速攻で電報(?)を送り、翌週には契約が成立していたというからすごい。両者の相互信頼の絆はもちろん、レコード会社重役という立場上、他者の耳に(ある程度は)頼らざるを得なくなっていたジャックが、ストリートの脈を感じ取り、ファンやバンドと繋がった「若い耳」を持つダニー・フィールズを信じ、ジャッジメントを任せられたのは、官僚並みに複雑なメジャー組織とは異なるインディの柔軟性ならではだろう。

柔軟性という意味で、エレクトラ絡みでもうひとり思い浮かぶのが、ジョー・ボイド。アメリカ生まれ、ジャック同様フォーク・ファンだった彼は英国支部を任され、インクレディブル・ストリング・バンドをエレクトラに送り込む。彼はやがて「エレクトラ・アクトを英国内で宣伝する」という役割よりA&Rへの興味を募らせ、プロデューサーとしてひとり立ちし、エレクトラから離れていく。しかし、フェアポート・コンヴェンション、ニック・ドレイクら英ロックの宝を世に送り出したこの人の素晴らしい感性も、ダニー・フィールズ同様、ジャック・ホルツマンにとっての懐刀だったと言える。

もっとも、デトロイト・ロック組は「クールなインディ・レーベル」として知られたエレクトラ社内ですら反対の声が上がる、ラディカル、かつジェネレーション・ギャップを象徴する存在だった。ホワイト・パンサーのアジ・バンドとして悪名も高かったMC5は、「Kick Out The Jams」販売中止を決定した大手チェーン店に対し、文字通り中指突き立てての痛烈な批判広告で逆襲。そこにバンド側が無断でエレクトラのロゴを入れたため、MC5以外のエレクトラ作品も店の棚から消える事態に発展、バンドは1枚で契約を切られる。
当時、どのレーベルも手を出さなかったくらい常軌を逸したバンドであるストゥージズは、ADのビル・ハーヴィが「こんなバンドを出したらエレクトラが潰れる」と評したほどの、いわば黒い羊。地元デトロイトやニューヨーク等一部の地域を除き人気も盛り上がらず、また、ダニー・フィールズを嫌っていたビル・ハーヴィに「あいつが辞めないなら俺が辞める」と脅されたこともあり、ジャック・ホルツマンは「Fun House」まででストゥージズ、そしてダニー・フィールズとの縁を切る。その数年後には「先駆者」としてパンクスのアイドルになり、今も語り継がれ愛される、史上最高のロックンロール・バンドのひとつである彼らのポテンシャルを、エレクトラは見極めきれなかったことになる。ジャックいわく、「失敗もたくさんあった」。

ブレッドやカーリー・サイモンといったソフト・ロック~シンガー・ソングライターの成功で規模を広げつつ、1970年のワーナー/アトランティック/エレクトラによるワーナー・ミュージック・グループの設立により、エレクトラはワーナー・コミュニケーションズ傘下に入る。とはいえ、40歳を過ぎた頃にジャック・ホルツマンは音楽業界からの引退・転身を考え始めていた。20年間ノンストップで働いてきたのはもちろん、企業として大きくなり過ぎたエレクトラ運営のプレッシャー、またアーティスト本人と密に関わって共に作品~キャリアを築くというより、アーティストのマネージャー/事務所を通して仕事する・・・という、ロックが商売として巨大化した70年代のビジネス・スタイルが性に合わなかったらしい。
そうした背景のもと、1973年には、イーグルスやジャクソン・ブラウン、ジョニ・ミッチェルでバカ売れし当時飛ぶ鳥落とす勢いだったデイヴィッド・ゲフィンのアサイラムと会社を合併、エレクトラ取締りの座から退く。この時期に彼が契約した、いわば「最後のオリジナル・エレクトラ・アクツ」のひとつには、エレクトラに影響された英プログレ・レーベルのライセンス(ジョン・ピールのダンデライオンも含む)、アメリカにおけるクィーンのライセンスも含まれていた。

もともと自分で作品を録音するほどテクノロジーに興味のあった、いわば「オタク」の先駆けとも言えるジャック・ホルツマンは、その後日本のパイオニア他でも働きつつ、映像や撮影機器、ニュー・メディアの発展に貢献していった。とはいえ、彼の音楽畑におけるコネクションと経験、アイデアは今のような時代にこそ活きる・・・というわけで、現在も乞われて米ワーナー・ミュージックのコンサルタントを担当、エレクトラそのものも、2009年に復活を果たしている。
ものすご~く長くなってしまったが、エレクトラが(とりわけ60~70年代の)アメリカ音楽業界において放ったユニークかつアーティな存在感、今で言うところの「デザイナー・レーベル」の先駆けのひとつであった点が、少しでも伝われば幸いである。

それはさておき、イベントは楽しかった。ラフトレ店内は、ポスターはもちろん床にも「60周年記念ロゴ」が貼られ、プチ祭り状態。出版記念イベントということもあって、タダ酒が振舞われていたのも素晴らしいっ(笑)!その本:「Becoming Elektra」の著者ミック・ホートン、有名な音楽ライターであるバーニー・ホスキンスのトークに続き、ジャック・ホルツマンの登場と相成った。
もともと男前な人で、今も「白髪の素敵なお爺様」という見た目を保っているのは偉い。が、何よりも80歳とは信じがたいシャープな知性・智恵・記憶力、そこから自然に湧き出すにカリスマに脱帽。自分がこんな魅力的な年寄りになれたらいいが、まあ、まずもって無理であろう。98年に出版され、筆者にとっての長年のエレクトラ・バイブルだったオーラル・バイオ本「Follow The Music」はもちろん、彼のコメントはそれなりに見聞してきたつもりだが、今も発言にブレや食い違いがほとんどないのはすごい。どうしたって同じことを訊かれるわけで、機械的に答えがストックされているって面もあるのだろうが、その場に立ち会った者ならではの観察、各アクトに対する思い入れや愛情が滲んでくる受け答えは、ファンとして「うんうん」と頷かざるを得なかった。

レーベル発足のきっかけ、ラヴとドアーズ発見のエピソード、ストゥージズ(さすがのジョン・ケイルも、どうプロデュースするか困ったらしい)、ハウス・プロデューサー=ポール・ロスチャイルドの逸話・・・と、司会者チームとの対話で本の中身の美味しいところをざっくりカヴァーしたところで、客との質疑応答編。こういう場面では、シャイさが災いして大抵貝になってしまうのだが、憧れの人物を前にした興奮、そしてタダ酒にカラ勇気をもらい、手を上げてみた――もっとも、ジャック本人ではなく、本の著者への質問。先にも書いた「Follow The Music」は、エレクトラの歴史を追うには素晴らしいテキストで、既に他界した関係者の貴重な発言も含まれる。そんな労作が既に存在する上で、今回の「Becoming Elektra」の売りは何なの?と思っていたのだ。
著者のミックは、本のスタイルの違い(「Follow~」がジャックはもちろん関係者、アーティストらの発言をトピックと時間軸に沿って並べて構成したものであるのに対し、「Becoming~」は書き原稿の中に発言を織り交ぜるスタイル。好き嫌いはあると思うが、後者の方が一般的には読みやすいだろう)、ややゴシップ的な裏話よりもレーベルの変遷に的を絞った編集方針といった点を説明してくれた。
バーニー・ホスキンスは「うじゃうじゃ言わずに買いなさい!(笑)」と冗談めかして答えてくれたが、ジャック・ホルツマンが「付け足させて」と話してくれたのは、まず今回は、本の装丁そのものがジャックの思い通りになった点。これは出版社Jawboneのがんばりも評価すべきだが、表紙の「エレクトラのロゴを金文字に」「蝶のイラストはエンボス加工」といったリクエスト(これが、いちいち高くつくんですよ)が、ちゃんと実現したのは満足だったそう。こういうディテールへのこだわりは、彼がレコードを作っていた時と同じである。
また、エレクトラの全作品ジャケットがカラーで印刷されているのもポイントだよ、とのこと。文字にすると単純なロジックだが、これはごもっともな話で、「Follow~」は確かに視覚~写真資料の面では弱い本。エレクトラのようにヴィジュアルにもこだわったレーベルに関する本を今出すのであれば、カラーは必然。実際、「Becoming~」は美しい本である・・・と言いつつ、「Follow~」のペーパーバック版にはレーベル・コンピCDが付いており、そこで予算を食った結果、モノクロになったのかもしれない(その代わり、今回は米iTunesでエレクトラ・カタログ・フェアが行われている)。ともあれ、ジャックいわくその「Follow~」は絶版に近いそうなので、気になる方は今のうちに探してみてはいかがでしょうか。

質疑応答の質問者の中には、なんとラフ・トレードのジェフ・トラヴィスも混じっていてびっくり。世代も場所も違うとはいえ、それぞれに自主レーベルの気風、基本スタイル、コマーシャリズムではなく「音楽の導き、そして直感に従う」理念を切り開いていった同志として、共感・理解・リスペクトがあるのだろう。常にインディの正当性と勝利を確信してきたジャック・ホルツマンも、英インディの象徴:ラフ・トレードのショップでこのイベントをやることの意義、喜びを隠さなかった。また、ある意味エレクトラ・アクトに対してアメリカ以上に理解を示したイギリスのファンと言葉を交わせるのは嬉しいようで、「もっと質疑応答を続けたいなぁ」と言い出すほどだった。
本はもちろん、このアニバーサリーにあわせて限定プレスされた7インチ(ジュディ・コリンズ「Both Sides Now」、ティム・バックリィ「Aren’t You The Girl」、ニコ「Frozen Warnings」、ラヴ「7&7 is」)も買うことにし、サインをもらいに列に並ぶ。「どのレコードにサインしようか?」と訊かれ、迷わずラヴを差し出す。自分にとってはこれはロック、そしてパンク史上に残るベスト・シングルのひとつなんです、と話しかけたら、ジャック・ホルツマンはサインしてくれながらフッと軽く息をついて、「・・・あの曲の、最後の〝爆発〟ね。あれをどうやって録音したか、いつか教えてあげるよ!」と悪戯っぽい微笑みを返してくれた。その日が来ることを、心から祈っている。

エレクトラ60公式サイト

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Mariko Sakamoto について

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