週刊琴線(12月17日号)

寒かったNightmare Before Christmas。会場近くの浜辺も、今にも雪!の風情

Dean Wareham plays Galaxie500

今週の琴線:
The Nightmare Before Christmas
curated by Godspped You!Black Emperor@Butlins,Minehead/3,4,5 Dec2010
Dean Wareham(Plays Galaxie500)@ Relentless Garage/8Dec2010

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

一週遅れになってますが、風邪でプチ・ダウンしてました。鼻と咳だからたいしたことない・・・と市販薬でごまかしていたら、そのツケがどーん!と一気に。皆さんも、甘く見ないで早めに対応くださいませ。

その風邪を拾ってきたのが、自分にとっての年末の恒例大イベント:Nightmare Before Christmasだったんだと思う。群集はやはり菌の宝庫なのか?うがい、手洗い励行!ともあれ、All Tomorrow’s Partiesが企画・主宰するこの冬の風物詩、本チャンの5月版に負けずとも劣らない濃い~い内容が多く、2004年の第1回(=キュレーターはジェイク&ディノス・チャップマン)以来、ほぼ毎回行っている。マーズ・ヴォルタ回、ポーティスヘッド回、メルヴィンズ/マイク・パットン回は、自分のこれまでのATPフェス経験の中でも10本指に入る楽しさだった。
昨年のマイ・ブラッディ・ヴァレンタインによるキュレーションは、彼らのライヴはもう1回観たかったけど、他の出演ラインナップにあまり食指が動かず、考えあぐねた挙句、結局欠席した。一応、「誰か、行くつもりがあったら一緒に宿舎をシェアしない?」と聞いて回ったのだが、友人達は誰も手を上げなかった。それにまあ、MBVだけのために、チケットetc含めて200ポンドも払う余裕はありましぇ~ん。

ともあれ、週刊琴線のネタに、早速NBCレポートだぜい!・・・と考えていたのだが、さすがゴッドスピードが仕切っただけあって、もう、みっちりと詰まった内容だった。めっちゃ、楽しかった。ありがとう。そんなわけで、ホイホイと文章にまとめられそうもないので、フル・レポートは次回のポストに回します、悪しからず。と書きつつ、一言だけ書かせてください――

2月のI’ll Be Your Mirrorは見逃すなかれ!ゴッドスピードはなんとしても、そしてダーティ・スリーも。

その代わりと言ってはなんですが、今回はディーン・ウェアハムのライヴの話を。この人はギャラクシー500、ルナ、そして現在はディーン&ブリッタ・・・と、80年代からこのかたずっと、筆者の音楽的偏愛の対象であり続けてきた。セクシーなギター・プレイと歌に乗せて、ダメ男の情趣を確信犯的に紡ぎ続ける、困った(しかし愛すべき)御仁でございます。しかも、いい男です。

このショウは、NBCの次の週末に開催されたBowlie 2 BY Belle And Sebastianに彼らが出演する前の、いわば「肩慣らし兼ロンドン・ファンへのプレゼント」とも言えるもの。NBCに続き、連打でBowlie 2にも参加するほどの余裕(スケジュール&お金はもちろん、何より同行者を集めるのが大変なんすよ)がなかった自分にとっては、なんともはや、本当にありがたい単独公演だった。
ルナはたぶん活動中に6、7回は観たと思うが、ギャラクシー500は、結局観れずに終わったバンドだった。1991年、「This Is Our Music」時の初の日本ツアー直前に、ディーンが脱退しちゃったんですよね。ロイド・コール&ザ・コモーションズに続き、心から愛するバンドを失ったのはかなりの精神的痛手だったし(おかげで、「好きなバンドの3枚目の日本盤ライナーを大鷹俊一氏が書くと、そのバンドは解散する」というヘンなジンクスまで仲間内で生まれました)、そんなのありかよ・・・と、幻に終わったチケットを眺め、呆然としたものだった。

程なくしてソロ・シングルがリリースされ、92年にはルナがデビュー。日本公演もやっと実現した。その時出待ちまでしてディーンにファン・レターを渡した(押し付けた)のだが、忘れた頃にちゃんと本人から返事(チージーなヤンキース・スタジアムの絵葉書というのが、なんとも彼らしいと思った)が届いたのには驚いた。そうやってアクティヴにファン・レターを書いたりしたのは、これまでエコー&ザ・バニーメン、ペイル・セインツ、ディーン・ウェアハム、そしてウィーザー(のファン・クラブ)だけである。eメールにMySpaceにTwitterな今の時代、なんとも懐かしい話ですな。

ともあれ、幻の日本ツアーから20年近く経って、晴れてディーンがギャラクシー500曲をプレイするのを観れる日が来たわけである(もっとも、初めての話ではない。ルナ初来日時、「Blue Thunder」「When Will You Come Home」は歌ったと記憶している)。念願が叶う・・・ということで、興奮と喜びが押し寄せたのはもちろんだが、そればかりではなく「本当に?」そして「なぜ今?」という軽い当惑の思いも、確かに抱いた。
まあ、昨年ギャラクシーのアナログも再発されたし、今にして思えば、あれが潜在的なプロローグだったのかもしれない。あの頃から、友人の間で「(リユニオン・ブームな昨今)ギャラクシー再結成もあるかもね」なんて話題が出るようになったし、この晩のライヴは、デーモン&ナオミのUKツアーと時期が近かったこともあり、「もしかして、もしかすると?!」と期待する者もいた。ロンドンの前のUSツアーでは、ルナの元メンバーもステージに飛び入りしたという。
が、2008年に出版されたディーンの回想録「Black Postcard」(=彼のバイオグラフィとしても読めるが、バンド・マンの幻想なきリアリティ、80~90年代アメリカのインディ/オルタナ・シーンの実録としても相当に面白い。激辛なユーモアの語り口&率直さも抜群)を読めば、あの3人が再び顔を会わせてリユニオン・ツアーに出るなんてのは、そう簡単に実現しなさそうだ、と感じると思う。
あくまで回想であって、既に両サイドの(大人な)和解/コンセンサスは成立しているのだろう。が、たとえばディーンとブリッタがデーモン&ナオミと仲良く会食する光景、というのは想像しにくい。それくらい、複雑でパーソナルなわだかまりも残る関係だったらしいんですよね~。もちろん状況は変化していくし、色んな事情から、フル・リユニオンが今後実現する可能性は充分にあるけれども。

そんなわけで、いざ会場に向かう段になったら、頭痛が寄せてきたのもあったけど、色々入り混じった微妙な思いがよぎって、純粋に祝福モード・・・とは言いがたくなってもいた。しかし、キャパ500+程度のクラブ・サイズの場内に入ると、仲間と詰め掛けたオルタナ現役世代のオヤジ・ファンを中心に若いファンも混じったクラウドは、なかなかの熱気。その空気に触れて、硬くなっていた心持も若干和らいできた。

ほぼ予定開演時刻どおりに、ブリッタ、ディーン、ドラムスとセカンド・ギタリストが登場、拍手が沸き起こる。ディーンはピンク色のワイシャツにブラック・ジーンズ姿で、相変わらず精悍である。特に挨拶もなく、まず「Pictures」からキック・オフ。VU直系のギター・ソロは陶酔ものだったものの、ディーンの声はウォームアップ不足か、掠れてちゃんと出ていないし、コーラス・ワークもムラがあって、やや肩透かし・・・に感じたのは、最初からこっちが気負いすぎていたから?ムムム。
続く「Flowers」でもまだバンドの熱は上昇段階という感じで、こちらとしても、ギャラクシーのむしろ後期を思わせるパワフルなドラム・サウンド(上手いプレイヤーでしたが)、そしてギター2本が生み出すサウンドの違いに、少々戸惑う。ディーンのギターが強調されすぎていたのと、ベースの音程が終始微妙にズレていたのが気になって仕方なかった(とても好きな曲のひとつだけに、余計そう)「Snowstorm」は、しかしやっとディーンの高い〝にゃあにゃあ声〟(=よく、友達と「ウミネコかい?」と評したものでした)がクリアに通るようになってきて、ちょっと安心。
が、低音を拾いすぎてバスドラがキックされるたびに天井の梁がビリビリ鳴って耳障りだったり、全体のミックスのバランスが悪かったりと、ショウの序盤が自分的にいまいちだったのは、サウンド・マンがこの会場のライヴPAを把握しきれてなかった点も響いていたと思う。オレにとっての大事なライヴなんだから、いい音で楽しませてくれ、頼むよもう~~っ!とマジに泣きたくなったが、「Temparture’s Rising」まで、一種チグハグとした掛け違い――演奏がまだノっていないのに、音響は最初からマックスなレベルというギャップ――は続いた。

ここらでやっとディーンも一息ついて、MCを開始。曲にまつわる思い出話(友達とアシッドを喰ってトリップした時の体験が元になっているそうです)を軽く語って笑いを誘い、「Decomposing Trees」。やっとギターとベースのインタラクションが興に乗ってきたかな?との手ごたえを感じる熱い演奏の後、来ましたっ!「Strange」(ただただ号泣)。文句なしに、これは前半のベスト・パフォーマンスでした。
そこからの「Blue Thunder」は、イントロで一気に観客の間に広がったイェ~イ!ギャオー!!の盛り上がりをよそに、案外あっさりと終了。クレイマーのサックス・ヴァージョンが頭につい浮かんでしまうのも良くないのだろうが、もっとたっぷり聴きたいよー。でも、「Plastic Bird」では音響もばっちり噛み合い始めたし、「無限大」のどこかに向かって飛ぶ瞬間が何度か生まれたので、良しとします。気持ちよし。「When Will You Come Home」も自信に満ちたプレイ、そしてディーンの鬼ソロが猛烈に素晴らしかったが、白眉は続く「Don’t Let Our Youth Go Waste」。一気にドーンと音量がアップし、爆発的にノイジーなジャムが展開していく。シンプルな曲で、後半はほとんどインストなんだけど、そのエンドレスに広がっていくグルーヴが最高・・・と目をつぶって揺られていたら、これまた「もうちょっと」なところでカットされた感。

そこから、もしかするとギャラクシー曲で一番好きかもしれない「Tugboat」(全コーラス合唱しました)という流れにはただうっとり。リヴァーヴで濡れ濡れのギターも美しかったし、ミドルの即興ノイズ的展開もかっこよし。続いて「Listen,The Snow Is Falling」だったが、自分としてはこれは「ナオミの曲」なので、彼女のモノトナスで素朴とすら言える歌唱とは異なる、ブリッタのコケティッシュに耳に絡みつく歌いまわし(と、歌詞を微妙に変えていた点)がショックでもあり、やや肩が下がる。でも、会場で出くわした友人(来るとはお互い知らなかったが、皆来ていました・・・計8人に遭遇!)は口を揃えて「彼女がんばってたよ」と評していたので、これはたぶん筆者ひとりの感慨だろう。
本編の締めは、やはりこれ!待ってたよ!という感じで、思わず両腕を宙に上げて迎えてしまった「Fourth Of July」。ルミナスに明滅する繊細なイントロ・ギターから始まり、ワイルド全開なドラムも含め、バンドが一体となってヴァースになだれこんでいくダイナミズムは絶品。シメのインスト部に至っては、ほとんど「Sister Ray」にしか聞こえない、それくらいディーンのプレイも凄絶&饒舌に吠え、歌いまくっていた。

聴きたい曲はほぼプレイしてくれたし、気持ち的には、その「Fourth~」の満タンな盛り上がりで終了・・・でも良かったんだけど、さすがにアンコールの呼び声を無視するのは忍びないというノリで、バンドはすぐに帰還。1曲目は軽い変化球で、ディーン&ブリッタのプロジェクトである「13 Most Beautiful」(=アンディ・ウォーホルの著名な「スクリーン・テスト」向けに制作された音楽。このライヴも、ロンドン公演が行われたものの、夏は日本にいたので観れませんでした。残念)から、「I’ll Keep It With Mine」。ディランがニコのために書いた、あの曲ですね。
しか~し!この晩のアレンジは、ニコのオリジナルではなく、レイン・パレード~オパール~マジー・スターで知られるデイヴィッド・ロバックが企画した「ペイズリー・アンダーグラウンド全員集合」企画=Rainy Dayヴァージョンに酷似。で、あのアレンジに関しては、スザンナ・ホフスがいまだにベストだと固く信じているので(=単に頑固です、ハイ)、バンドの演奏はリラックスしていたものの、ちょっと拍子抜け。

続いて、この晩「23Minutes In Brussels」と同じくらいリクエストの声がしつこく飛んでいて、さすがのディーンもファンの熱意に根負けしたかのように、「Cheese&Onions」を披露。ビートルズの国だから仕方ないかとは思うけど、あの曲をプレイするんだったら、自分としてはその153倍くらい、「Isn’t It A Pity」を演ってほしかったが。
アンコールのオーラスはジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダーの「Ceremony」で、これはやはり盛り上がりました。歴史に残る名曲とはいえ、ギャラクシーのヴァージョンはやはり格別。再びバンドが炎上する演奏に、これでほんとにほんとのラスト、という思いと共に静かに燃えました。ほんと、Forever watching love grow。

冬の寒空の下、帰路に着く前に友人達と感想を話し合う。先にも書いたように、音響が、アレンジが・・・と細かいことを文句ババアのようにチクチク言うのは自分だけで、皆異口同音に「良かった!」「感動」と評していた。その中には、常に音楽的なジャッジメントを信用している者もふたり混じっていたので、間違いはないだろう。というか、自分も彼らと同じく、この特別なショウを100%エンジョイしたかったんだけどな・・・。
「Strange」「Don’t Let~」「Fourth of July」など、心底しびれるパフォーマンスもあったし、断じて言うが、悪いギグではなかった。ただ、何かが奥歯に挟まったようにすっきりしなくて複雑。なんだかんだいって、後一歩で観れなかったことに対する、執念に近いオブセッションがあったのが良くなかったの?とも自問したが、それ以上に、今回のショウが「ギャラクシー500BYルナ」に近い内容だったのが、たぶん腑に落ちなかった理由なのだろう、と思い直す。若い友人からは、「マリコの期待値は、僕達より遥かに高かったんだよ」と、いいのか悪いのか、よう分からない慰めを受けたけどね。

サウンドのダイナミクスといいバンドのインタラクション~編成といい、ライヴ・アクトとしてのルナは、ギャラクシーよりもプロフェッショナルでうわ手だった。ディーン自身それは認めているし、彼がギャラクシーというユニットに別れを告げたのも、バンドとしての色んな意味での限界/くびきから、彼が脱したかったからだと思う。だからこそ、このショウは、なんだか不思議だった。決別してルナを始めて、そしてディーン&ブリッタになり、映画サントラ他も・・・と、メディアでの騒がれ方は昔に較べて地味かもしれないが、この人は音楽の領界を広げ続けている。
そんな彼が、今になって20年前近く前の楽曲に戻ったこと自体意外であり、また、そういった「再訪」の動機としてこちらが無意識に期待してしまう、規格外のエモーショナルな熱気や感動は、自分はこのショウから感じなかった。ギター・プレイは狂おしい勢いですごかったけど、ディーンのプレイはルナでだってこれくらいすごかったし。何より、バンドがグルーヴに乗って別境地に入り、アウトロのジャムがえんえん続く・・・みたいな場面がなく、サバサバと事務的なノリで演奏が区切られていたのが、痛かった。
こうしたショウの常で、ライヴの本数は限られている。その中で、できるだけ多くの曲をセットに含め、ノスタルジックな大多数を満足させる「ソツのない」セットを履行するのか、あるいは自己耽溺と思われても、そのバンドと音楽の本質をエゴイスティックに提示するのか。どちらがいいかは分からないが、ステージ上のプレイヤー側にカタルシスが読み取れないこのギグは、自分には前者に近かった。特にセカンド・ギタリスト氏は――ギャラクシーの曲だと仕方ないとは思うが――見せ場もなく、死ぬほど退屈そうにプレイしていた。ブリッタも、夫が大学時代の恋人とよく行ったなじみのバーに引っ張ってこられた妻みたいで、あまり居心地がよさそうには見えなかったし。

空白を埋めるぶん、こちらの想像力が肥大していた、というのもあっただろう。しかし、「ポスト・ルナ」のディーン・ウェアハムが演奏し歌うことによって、ギャラクシーの青臭い頑なさやナイーヴさ、緊張をはらんだシンプリシティの美は、この晩もっと大人でソリッドな何かに移し変えられていたように思う。多くの場合、その認識と現実のズレは許容できる。そもそもデーモンとナオミ抜きであり、再結成ではない。チケットにも「Dean Wareham Plays Galaxie 500」と明記されているんだから、〝ディーンのショウ〟として接するべきだったのだ。要は、自分が馬鹿だった、ということである。
だが、ことギャラクシーに関しては、そのズレが許容しにくかった。それは、たまたまあのバンドが、自分にとって「音楽とのパーソナルな結びつき」という喜びを体感させてくれたアクトのひとつだったからだと思う。「好き」「快感」の段階を過ぎた、(一方的な思い込みに過ぎない、とも言えるが)感性レベルでの深いコミュニケーション。その、あちこちに無数に伸びて漂っている触覚の先端が、何かのはずみで触れ合い、電気が走るような千載一遇の一瞬を結べたバンド/音楽というのは、刷り込み効果のように、いつまでも残るもの。受け手側の①タイミングと②シチュエーションが重ならないと発生しない、そうした霊感の交流みたいなものは、案外成立しにくく、稀な経験だからだ。

そうした経験の特別さというのは、たとえ100年前に書かれた本であっても、自分の生まれる前にレコーディングされた音楽でも、そこから確実に自分の心に訴える何かを受け取った時、時間も空間も越えて、しかしどこかにいた自分の同胞(はらから)の存在という不思議に戦慄させられるからだと思う。興味深い、というか、ある意味皮肉なのは、そうしたある種コズミックな共同感覚(なんか胡散臭い響きだなあ・・・)は、もっとも近く親しく共有できる存在であるはずの肉親あるいは友人よりも、外からやって来るものだ、という点。人間が(実生活にはなんの足しにもならない)アートを生み、享受しようとするのは、そうした外的干渉を受け入れられる矛盾の構造が、もともと我々の中に備わっているからかもしれない。

と同時に、そうした決定的な経験は、いい意味でも悪い意味でも、受け手の中でフリーズしてしまうものでもあるらしい。原体験の聖域とでも言うか、青春の墓標と言うか、そこに何度でも立ち返るがために、時計が止まった不可侵エリアになっていく。エゴイスティックな話だが、そういう特別なバンド/アーティストに、果たして一生のうち何度出会えるか?と思うと・・・なかなか解凍できなくなるのも仕方ないか、と自己弁護。
で、いわば自ら創り出したその「檻」を壊してもらいたい、解放されたいという不条理な願望もどこかに抱えながら行ったライヴだったのに、鳴っていたのは似たようで異なる何か(=ギャラクシーBYルナ)だったために、逆にその檻/呪縛の頑強さを思い知らされた、ということだったのかもしれない。再結成ペイヴメントを観た時のような、「これでフィナーレ(感動!)」という大団円な思いが、どうにも浮かんでこなかったのですよ。決着つかないのかもね、一生。

かといって、ブライアン・ウィルソンやアーサー・リーのように、かつての音を完璧に再現するバンドを編成して、彼らに囲まれてクラシック曲や「Forever Changes」を歌ってくれればそれでOK、というわけでもないのだけど・・・それに、デーモン&ナオミが加わったとしても、盤に刻まれた、「自分の知っている唯一のギャラクシー」が、今の3人の中に生まれるかどうかは分からない。ないものねだりはやめて、Move onしよう・・・とも思うが、昨年観た生フィーリーズが、驚異的にピントがズレていなかったことを思うと、不可能ではないかも?という気もするのだ。グレン・マーサーの頑固一徹さから、ディーンはもうちょっと学んでもいい、のかもしれない。

そんなことを綿々と考えているうちに、世間はうひゃー、すっかりクリスマスである。この時期が誕生日にあたる親友、そして親へのプレゼントを見繕うのが毎年楽しみなのだが・・・今年はまだ、どこにも出かけられていない!セレクトできてない!ので、クリスマス後の発送になりそう。バースデー・プレゼントやクリスマスのギフトって、遅れて受け取っても、あんまりありがたみない&意味ないよね~。それだけで、今年はすっかりルーザーな気分である。
しかし、他人へのプレゼント探しが楽しいのは、探すうちに自分も欲しいと感じるものに出くわす点。中でも、このターンテーブルは、誰かにも贈りたいし、自分にも買ってあげたいアイテムである。カジュアル使いにもっぱら活用しているNumark以上に、携帯移動が楽そう、かつ電池稼動なので、色んな屋外場面で重宝しそうである。バーベキューとか、キャンプとかね。でも、かつてのサウンド・バーガーみたいに、肩から提げて持ち運びながら聴けるのかは、ちと不明だが。
テクニクスが、ターンテーブルを始めとするアナログ機器の製造終了を決定した・・・というニュースも報じられたけど、こうやって、まだ新たにターンテーブルは作られている。よく「もうレコード・プレーヤーを処分してしまったから、持ってるコレクションを聴けない」「アナログ買いたいけど、プレーヤーがないから~」という声を聞くけど、そんなの、言い訳だろう。ゴージャスなハイファイ・システムを組みたい・・・というのはもちろん理想だが、そうやって音響マニア的に最初から欲をかくと、先に進まない(=お金とヒマがモノを言うホビーでもあるので)。
が、まずは、スピーカー&アンプ内臓のチープなターンテーブルから入ってみて、アナログ盤をいちいちひっくり返したり、ジャケットをじっくり眺めたり、埃を払って丁寧に針を落としたり、スピードを調整する・・・というマニュアル作業に慣れてみてはいかがでしょうか?デジタルでは見えない/感じられない何かが、絶対にあるので。

広告

Mariko Sakamoto について

Hi.My name is Mariko.Welcome to my blog,thanks for reading.坂本麻里子と言います。ブログを読んでくれてありがとう。
カテゴリー: hall of dudes, music, uncategorized タグ: , パーマリンク