週刊琴線(3月4日号)

今週の琴線

Skeletons(Dir.Nick Whitfield/2010)
The Killing AKA Forbrydelsen(DR/BBC4)
“Little” Jimmy Scott,Daisy Lowe

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新聞やネットで主な受賞結果を後からチェックするくらいで、昔のように中継をかじりついて見る・・・なんてこともなくなったのだが、それでもなんとなく気になるグラミー、アカデミー他、2月の各種芸能賞。そのシーズンも終わりを告げ、やっと2011年が本格的に滑り出したって感じでしょうか。音楽シーンは、今月のSXSWを皮切りに、フェス・サーキットもみしみし開幕。さて、今年はどのフェスに行けるかな・・・。

イギリスに関して言えば、数万人規模の巨大フェスからは、ぶっちゃけ年々足が遠のいています。それでもイギリスの野外イベントは、1年に1回くらいは体験したいやね・・・というわけで、規模もマイルドで快適、参加者のマナーも良く、出演者も自分の好みに近いブティック・フェスの代表格:Green Man、およびEnd Of The Roadは、毎回虎視眈々とラインナップをチェックしている。

Green Manの今年のトリは、以前からこっちの友達に予言していた通り、新作間近のフリート・フォクシーズが大トリ!(プラス、ロウ・アンセム&エクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイ)。End Of The Roadはミッドレイク、ローラ・マーリング、ベイルートあたりが目玉で、どちらも相変わらず、フォーク&ヒゲ&アコギ度が高いっすねえ。
フリート・フォクシーズはとても観たいんだけど、トリ以外のラインナップに関して言えば断然End Of The Roadの方が充実しているので(カート・ヴァイル!ジョシュ・T・ピアソン!etc)、もうちょっと考えよう。それに、今年はロンドンのヴィクトリア・パークで開催されるミニ・フェス:Field Dayが良さそうで、そっちにも食指が動いている。

Field Dayは、ロンドンの中級~インディ中心のコンサート・プロモーター:Eat Your Own Earsが仕切る、日帰り可能なカジュアルなイベント。しかし、出演者の顔ぶれがファッショナブルでアーティ&バブリー=東ロンドンに多く生息するヒップスター向けのノリ(アメアパとVICEマガジンなノリっすね)で、今まで参加したことはなかった。去年グリフ・リースのスペシャル・セッション目当てで行った友達も、「来てる客がみんなムカつくタイプばっか!」「音響悪い!」とブーたれていたっけ。
しかし、今年は現時点までの発表でマーク・コズレクとトータス、ワンオトリックス・ポイント・ネヴァーそしてジョン・ケイル(!)・・・等々、少なくとも8組は観たいアクトが含まれていて、チケット代のもとは充分取れる見込み。これまた、要検討である。そういや、Meltdown Festivalももうじきラインナップ発表される。今年のキュレーターは、レイ・デイヴィスです!

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先日、日本から来た友人と会食していて最近観た映画の話になったのだが、彼女によれば「近頃は邦画ばっかで、あんまり英米の映画が日本公開されないよ~」とのこと。へー、そんなノリなのですか、日本は。別の知人からも、都内の老舗の単館系映画館がいくつかクローズしたって話を聞かされたし、寂しい限りです。それもあって、このブログでは、気になったイギリス映画をなるべく紹介していこう、との思いが更に強まった次第。
UK映画ならなんでも来い!というほどマニアなファンではないし、中にはもちろんクズな作品だってある。そもそも、基本的にアメリカ映画の方が好きな人間である。ただ、たとえば80年代に較べ、①メジャーな文芸大作②コスチューム・ドラマ=歴史モノ③リチャード・カーティス系ロムコムでもない限り、日本ではますます劇場公開されにくくなっている(であろう。昔から非アメリカ映画はなんだかんだいってマイナーだし)現代イギリス映画の中にだって、面白いジェムはインディ周辺に隠れている。
「いや、紹介するのはいいけど、公開されないのにどうやって見るんだよ」って声もあがるかもしれませんが、今はDVDって手がありますし(字幕は、よくても英語だろうけど、観れなくはない)。映画専門家じゃないので意見は当てにならない&偏ってるとは思うけど、こうしてせっかくイギリスにいる地の利を活かして、そういうニッチな作品に、折に触れてスポットを当てていければ、と思う。

で、今回取り上げるのは、元俳優という、ニック・ウィットフィールド監督の処女オリジナル長編作「Skeletons」。公開は昨年で、エジンバラ映画祭でのパウエル=プレスバーガー賞(:イギリス映画の長編デビュー作が対象。「Control」も過去に同賞を授与されてます)受賞他、映画祭サーキットでちょっとした話題を集めていたこのファンタジー作品、限定公開だったんで、DVDリリースを待ってやっと観ました。

主演は、こっちではいわゆる「ダブル・アクト」と称される、コメディアン2人組:エド・ゴーガン&アンドリュー・バックリー。日本でも漫才師デュオって多いけど、イギリスにもアイコニックなダブル・アクトは数多く存在する。古いところでは、モアカム&ワイズ(Eric Morecambes&Ernie Wise)、トゥー・ロニーズ(Ronnie Barker&Ronnie Corbett)、ピート&ダッド(Peter Cook&Dudley Moore)。近年にしても、「Peep Show」他のミッチェル&ウェッブ(David Mitchell&Robert Webb)、「Little Britain」組=(David Walliams&Matt Lucas)、「Mighty Boosh」(Julian Barrat&Noel Fielding)、「Still Game」の名コンビ(Greg Hemphill&Ford Kiernann)、映画では「Shaun Of The Dead」でおなじみ、サイモン・ペッグ&ニック・フロストあたりが浮かぶ。
・・・とまあ、こう書いてみたところで、ダブル・アクト、あるいはチーム(=モンティ・パイソン、Goodiesなど)の方がこうして自分に馴染み深いのは、生観客付きのコメディ、すなわちコメディ・クラブや劇場でのライヴをイギリスでまだ体験してないからかな~、とも感じる。TV桟敷とは異なり、ライヴだと、イギリスはソロ・アクトの方が断然ポピュラーだったりする。でも、プロの噺=スタンダップ話芸のテンポ、高速回転なウィットやアドリブにしっかりついていってアハハ!と笑うのは、ネイティヴじゃないと無理だろうという思い(コンプレックス?)があって、まだ生コメディはちゃんと体験したことがないのです。逆に言えば、キャラやギャグを視覚化できるテレビ向けな複数チームやスケッチ形式というのは、それだけ普遍的ってことでもあるんだけどね。

ともあれ、「Skeletons」における彼ら=デイヴィス(エド・ゴーガン)&ベネット(アンドリュー・バックリー)の役どころは、噛み砕いて言えば、「過去の掃除人」、あるいは「深層心理のお祓い師」。作品タイトルにも示唆されてるけど、「A Skeleton In The Closet」(戸棚にしまった骸骨)、すなわち、表沙汰にしたくない家族の過去の秘密、良心のトラウマ、あるいは隠していた恥部etcを明るみにするのが仕事である。もちろん、無理やり個人のプライバシー、あるいは記憶に踏み込むわけではなくて、会社を通じて依頼主がお祓いを要請し、合意の技術師/お祓いチームが派遣される仕組みだ。ゴースト・バスターズにも、若干通じるところがあるかもしれない。
なんでまた、葬っておいた記憶をお祓いする=骸骨をわざわざ引っ張り出そうとするのよー?とも思うけど、作品の冒頭で描かれるように、要請主はたとえば結婚間近の若いカップル、セラピー好きな中年夫婦など。前者については、結婚前に、フィアンセ同士=新郎新婦の過去をきっちり清算し、信頼を揺るぎないものにしたい・・・との思いが働いているし、後者はなぜだかなんとな~く暗礁に乗り上げている(倦怠気味な)関係にあり、その原因~心理要因を突き止めたい、との思いが動機になる。
ちょっと笑えるのは――基本的に、「Skeletons」はブラックなコメディです――、「お祓いをした結果、依頼者側に何が起きても会社側は一切の責任を負いません」との権利放棄証書に率先してサインした男性側が、戸棚を開けてもらった結果、痛い目に遭っている点。思いっきりやぶ蛇やん。まあ、彼らは超自然的な「お祓い」なんてハナから信じていないし、だから「俺の良心に曇りはない」と豪語できるんだろうけど、突付けば何かが出てくるのが人間ってもんだろう。概して、男性の方が基本的に調子がいいというか、女性に較べ、自分に不都合な事柄/嫌な思い出はきれいさっぱり忘れる(忘れられる)傾向が強いな~とよく感心させられるので、この人間観察は鋭い。

他者の深層心理に入り込み、情報を抽出する仕事人・・・というモチーフは、考えれば大ヒット作「Inception」と同じである。しかし、バキバキのハイテク・ヴィジュアル、腕の立つその道のエキスパート、世界を股にかけるアーバンな舞台設定、コンスピラシー、手に汗握るサスペンス&アクションで豪華に見せまくった「Inception」に較べ、低予算インディ作品「Skeletons」の世界は超ローファイ、かつレトロだ。ロケは英中東部:ダービシャーの山間の村で、時が止まったごときカントリー・サイドの景観を、ブリーフケースを提げた巨漢(ベネット)とチビ(デイヴィス)のポランスキー的でこぼこコンビはえっちらおっちら家から家へ、行商人さながらに移動していく。
時が止まった・・・という形容はまんざら誇張でもなくて、過去何十年も変化していなさそうなランドスケープはもちろん、登場するローカル線の列車や駅も、懐かしい木造(1時間に1本しか列車が発着しない、過疎なエリアにある駅の雰囲気ですな)。現代と過去が同居する不思議な世界は、たとえば60年代の湖水地方、田舎のコテージで男2人組が笑劇を繰り広げる名カルト映画:「Withnail&I」(1987)を思い出しもするし、同じくダービシャーで撮影されたシェーン・メドウズの傑作「Dead Man’s Shoes」(2004)を包んでいた、静かな不気味さも呼び覚まされた。

「Inception」では、深い眠りを通じ、コネクトされた対象の記憶や深層心理の中に、抽出する側が侵入するというメカニズム/最新テクノロジーの数々がもっともらしく描写されていたが、「Skeletons」のそれはもっと原始的でマニュアル。ガス漏れ探知機、あるいはガイガー・カウンターみたいな、計器やメーターの取り付けられた古臭~いマシンを使って「骸骨」の隠されたクロゼットを探知し、クラシックなゴーグルと皮のエプロン、消火器で防御した2人が、クロゼットの扉を通じ、隠された秘密の中に入っていく。
もうひとつ使われる手法にしても、黒いつやつやした石(ガラス?)をふたつ、念をこめて手のひらの中でシャッフルし、指の間に思い出の詰まったアイテム(写真etc)を挟み、そのアイテムの持ち主の記憶にリーチする、というもの。まじないみたいなもんである。しかし、オカルト趣味とサイキック・マジック、H.G.ウェルズ、そして村にたいてい一軒はある古物商(アンティーク店といった大層なものではなく、むしろジャンク・ショップ)の店先が一緒になったようで、イギリス的な造形なのは確実。監督は今もロケ地:ダービシャー在住だそうで、なるほど、レジャー/観光地として生き残り、重工業化や都市化をまぬがれてきたイギリスの一部の地域のノリがよく出ている。

お祓い師がいったん記憶の中に入ると、彼らはお祓いを依頼した当人を含め、その秘密に関わる様々な人間の頭の中に入り込み、体験を追体験し、実際に何が起きたかをレポートできる。この、他の人間の脳/人格を乗っ取れる、アクセスできる記憶とそのリサイクル/操作というコンセプトに、「Being John Malkovich」「Eternal Sunshine~」等、チャーリー・カウフマンの影響を感じるのは自分だけではないだろう。カウフマンものほどシュールで入り組んだプロットはないにせよ、人格の交錯とカオス、あるいは過去に縛られてなかなか脱出できない人間というのは、おかしくも悲しいものです。
その悲しさを体現するのが、ヒゲでチビで高圧的、どっちかというといけすかないキャラに当たるデイヴィス。相棒のベネットは、クロゼットを開け、知られざる秘密や過去を暴くたび、依頼主達の人生に亀裂が走り、不和が生まれる・・・という事実を気に病んでしまう「いい奴」なのだが、生まれながらの優秀なサイキックで、「大佐」こと会社の上司(「Harry Potter」にも出演している、ジェイソン・アイザックスがいい味を出してます)にも可愛がられているデイヴィスは、その天与の才にあぐらをかく形で、「俺達はプロ、依頼された仕事を遂行するだけ。問題が起きても、それを解決するのは俺達の責任外」とにべもない。
そんな彼が、しかし、こっそり職権を乱用して、幸せだった頃の自らの幼少期の記憶――時計とあたたかな琥珀色の光、暖炉、甘いジュースの味など、プルーストの「失われた時を求めて」的とも言えるだろう――を幾度となく追体験している、いわば「記憶中毒者」であるのが発端になり、話は転がり始める。

その媒介になるのが、8年前に突如失踪し、杳として行方の知れない夫の手がかりを求めて仕事を依頼してきた妻ジェーンと、その子供達。もしや夫は死んでしまった?と、近隣の森をあちこちシャベルで掘り返し続ける母親は若干ニューロティックだし、子供のひとりである21歳の娘レベッカは、大学進学直前の3年前から一言も発さなくなった、自閉症気味のゴス入った不思議ちゃん。そんなエキセントリックな状況の中でお祓いが行われ、霊媒体質なレベッカが介入することですったもんだも起きるものの、消えた夫の秘密と謎が徐々に明るみになると同時に、依頼主であるジェーン同様、過去へのこだわりに縛られ、孤独の中で機能不全に陥っていたデイヴィスの心が、目を覚ましていく。

もともとこの作品は短編から始まったそうで、「90分の長編映画の尺に伸ばすのにはちと無理がある」との批評も受けている。確かに、すべってしまうサブ・プロットも途中に登場するし、モタつく展開も見られる。60分くらいのテレビ・ドラマのフォーマットの方がいいかも、と感じる瞬間はあった(この作品は、すぐにシリーズ化できるだろう)。しかし、追憶とオブセッション、消えない喪失の痛み、そしてそれらを手放すことでやっと訪れる心の平穏という、誰しも多かれ少なかれ思い当たるテーマを、深層心理のお祓いという突飛でSF入ったアイデアでひねったのはポイントが高い。
それを、いくら非現実的な話だからといって、「Dr.Who」みたいにまじなSFに仕立てたり、未来社会だのモダンな世界に持ち込むことなく、一見普通なのに、なぜだか不思議が成り立ってしまう、ミステリアスでオールド・ファッションなイギリスの田舎の風土を活かし、ユーモアと共に描き出したのは、ユニークだと思う。イギリスのインディ映画は、(一部の幻視者をのぞき)基本的にちゃらちゃらしたところがないというか、伝統的に社会派リアリズム、そしてドキュメンタリー・タッチが根幹にあるけれど、その意味でも、ニック・ウィットフィールドのふわっと浮世離れしたセンスは、注目に値すると思う。

彼は、「Skeletons」をプロデュースしたEMメディア(EMは、East Midlandsの略)の協力を得て、既に次作「Trenchmen」の構想を練っているとか。EMメディアは、シェーン・メドウズの諸作をWarp Filmsと共同制作、「Control」をプロデュース・・・と、若手映画作家の発掘&育成、助成を通じ、ローカル・ベースでイギリスの自主制作映画界を守り立てようとしている地方組織のひとつ。その母体となっているのがUK Film Council(英映画評議会とでも訳せばいいのでしょうか)という団体なのだが、現英政府の予算縮小のあおりを食らい、組織廃止がアナウンスされたのは昨年のこと。
英映画の発展・成長・宣伝に寄与し、産業の振興を図ると共に、フィルム・カウンシルの主な役割として、国営宝くじの収益金を映画プロジェクトに出資・配分するというものがある。過去10年以上、多くのUKインディ作品がこの公的資金援助に助けられてきたわけで、先日のアカデミー賞で話題をさらった「King’s Speech」も、この助成を受けた作品だ。それだけにカウンシル廃止措置は大きな波紋を呼んでいるし、売れ筋のメインストリーム作品はともかく、長い目で見ると、実験映画やアート作品など、英映画界のクリエイティヴィティの温床に今後影響が出てくる気がする。才能のアメリカ流出に、更に拍車がかかることにならなければよいのだけれど。

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話変わって、テレビ・ドラマ。デンマーク産の「The Killing(原題Forbrydelsenは、Crimeの意味)」という犯罪スリラーがBBCで放映されていて、こっちで密かな話題を集めている。当方も、すっかりハマっております。制作&オリジナル放映は2007年というこのドラマ、全20話。19歳の美しく聡明な娘=ナナがコペンハーゲンの町外れの森で強姦・惨殺される事件が起き、その犯人捜査の中で、警察、遺族、数々の容疑者が、それぞれ思惑、私利私欲、欺き、秘密、誤解、疑惑で複雑に絡み合い繋がりながら、人間模様を繰り広げていく。

デンマークといえばドライヤーくらいしか浮かばない(古い!)自分にとって、かの国のモダンなテレビ・ドラマを観るのがそもそも初めて・・・というのも好奇心をそそる要因だとは思う。眺めているだけで底冷えしそうなスカンジナビアの景色(ストーリーは11月)、コペンハーゲンの町並etc視覚面が新鮮なのはもちろん、生活や人間描写も興味深い。耳慣れないデンマーク語の、固くまだるっこしい一種独特な響き、他のヨーロッパ各国の大都市と同様に階層・人種他が入り混じった社会とそれが内包する問題、感情をなかなかあらわにしないデンマーク人のコミュニケーション。
この、感情を表に出さない=ぶっきらぼう/冷たいとも勘違いされかねない立ち居振る舞いというのは、日本人にも思い当たる節がある。ちなみに、この作品の話をしたところ、知人から「ジュリアン・コープの持論に、デンマーク人と日本人との共通性がありましたよね」とリマインドされた。鋭いかも、ジュリアン。
更に細かく見ると、実は色々と血が混じった現デンマーク人の顔立ちの特徴、普段彼らがどんなものを食べてるのかとか(煮込み料理とマッシュ・ポテト、パスタ、ピザ他のテイクアウト食品等、結構普通)、車はどんな車種が一般的なのか、社会における男女の役割分担は?,スウェーデンとの潜在的なライバル意識(家具はやはりIKEAっぽいなとか、ついチェックしてしまいます)、自転車使用の普及(しかも、錠をかけずに駐輪してる!)など、日本、あるいはイギリスと比較するのも、なかなか興味深いのです。

全エピソードのうち7割近くを消化した段階だが、この作品の上手さは、過去の人気ドラマの効果的な手法やキャラ造形、モチーフをインスピレーションにしつつ、映像・役者・物語という基本をしっかり押さえた、見ごたえのあるドラマを作り出している点にあると思う。キャスティングは見事だし、みんな演技がうまい。いいとこどりのマッシュ・アップ/リミックスと捉えることも可能だが、今の時代に「完全なオリジナル」を生むのは難しいわけで、過去の遺産から積極的に学び、そこに独自のひねりを加えるのも、ひとつのアプローチだろう。

人気ドラマの手法という意味では、1日の出来事を(ほぼ)1話で描き出す、というスタイルが、まず「24」を想起させる。しかし、女性警部サラ・ルンドと警察の地道で実直な捜査、事件によって人生を変えられた関係者の人間模様が主眼になるドラマだけに、派手なドンパチやアクションは控えめで、焦点をあちこちに切り替えつつ、1日の成り行きはじっくりと描かれる。
このドラマの尺は1話1時間、全エピソードを合計すると20時間(!)。イギリスの「読みきり」テレビだと、たいてい3話(長くても5、6話)でカタが付くし、アメリカのドラマでも、平均10~13話で1シーズンが終結するのを考えれば、相当に長い。ゆえに「途中からダレる」「テンポが遅い」との声も上がっているが、見せ場作りのために起伏をはしょることなく、情報や手がかり、登場人物の内面の変化を小出しにしていく展開は、受け手を引っ張り、作品にのめりこませていく。

女性警部が主役とくれば、イギリスではやはり、ヘレン・ミレン主演の人気ドラマ「Prime Suspect(邦題:第一容疑者)」だろう。あのドラマでは、主人公が警察という(基本的に)男の社会において、「女はひっこんでろ!」型の根深く張った性差別にあい、そればかりかプライヴェートにおいても、職務遂行=仕事を優先した結果、恋人との関係までがギクシャクしていく様が描かれていた。遂には、「このままだと産めない」と妊娠中絶。しまいには、苦悩の末にアル中に。かわいそうですね、ジェーン・テニスン。

「The Killing」の主役であるサラも、さりげないながらも、女ゆえの様々な障壁に突き当たる様が描かれる。彼女の場合は、スウェーデン人の恋人と新生活を始めるべく、転勤しようとしていた矢先に事件が発生。始めのうちは、後任者に引き継いで、すぐに捜査から手を引く・・・という姿勢だったものの、謎の多い犯人追求にのめりこんでいき、捜査に欠かせない手腕として警視総監に認められ、慰留が決定する。
その措置自体が周囲の目には「えこひいき」に映るし、昼夜を問わず犯人捜査に打ち込む「一度食いついたら放れない」闘犬のようなガッツで、次々に新たな(一見無駄な)調査ファイルを割り振ってくる彼女に対し、ちらっちらっと男性スタッフもイヤミを言ってくる。そこでヒス気味に憤慨したり、「理解されない!」と泣いたり、あるいは調査の意義をくどくど説明することもなく、黙々と行動に移し、出てきた結果にモノを言わせるところは、ハードボイルド小説の主人公みたいで、かっこいい。救いは、後任者として異動してきたマイヤー警部。最初のうちは疎ましく思っているものの、サラの手腕と洞察力、頭の回転の速さ、天性のカンをいさぎよく認めた彼は、よき相棒として行動を共にすることになる。

しかし、彼女のプライヴェートは今のところボロボロである。引越し&新生活そっちのけで事件に取り組む結果、海の向こうで待ちぼうけを食わされた形の恋人とは不仲になり、母親からはあきれられ、前夫との間のひとり息子との間もうまくいかなくなっていく(放ったらかしにされた息子いわく、「母さんは死人以外に興味がない」)。緻密な捜査ぶりを共に辿る我々聴視者は、サラがいかに事件に打ち込んでいるか、時間や権限の限界に追われながらも、着実に犯人に向けてコマを進めているかが理解できる。が、家族からすれば、彼女は恋人として、母として、娘として失格なのだ。
これがたとえば、男性警部だったらどうでしょう?妻なりGFが、「私と仕事と、どっちが大事なのっ」とぼやくことはあっても、結局は女性側が仕事は大事だから・・・と理解を示して折れ(てくれ)るパターンが多いと思う。それに、こういうモーレツぶりって、男の場合「職務一本やり」「仕事の鬼」「優秀な捜査官」と、逆に褒められると思う。あなたが女で同性だから、見方にバイアスかかってるんじゃない?男だって大変よ?と言われるかもしれないけど、仕事のできる女性がいまだ「生意気」「男勝り」と評されたりもするように、存分に仕事しようとする職業婦人の前に、こんな風に色んな「見えない」ハードルが存在するのは事実だと思うのだ。がんばれ~、サラ。

推理/謎解きだけではなく、多彩な登場人物の入り組んだ相関関係、心理描写にも重点を置いているドラマという意味では、名作「The Wire」の影響は大ではないかと思う。これは、事件の鍵を握る人物のひとり:市議会議員ハートマンと、彼が出馬したコペンハーゲン市長選にまつわる政界劇や策謀が大きく絡んでくる展開に、「The Wire」の(自分にとっては全シリーズ中ベストである)シーズン4がだぶるから、というのもあるだろう。
「The Wire」は――まあ、この素晴らしい作品について書き出すと、ほんとにキリがなくなるので、ここでは深追いはしないが――米ボルティモアを舞台にした、麻薬取締り捜査官達が主人公のHBOドラマ。麻薬密売組織とその撲滅を目指す警察を軸にしつつ、各シリーズごとに様々な都市問題~社会悪~現代人の人間模様をクローズ・アップする、ジャーナリスティックでスケールのでかいストーリー・テリングと、その中でうごめく人間達の繰り広げる緻密なドラマのダブル・バインドが最高である。

もちろん、5シリーズにわたった「The Wire」ほど、「The Killing」の話の規模は大きくない。しかし、19歳女性の殺害事件という一見単純な糸口を発端に、階級差別、政治、宗教、教育問題、人種差別、移民、メディアの影響、汚職など、捜査が進むにつれて広がる網目の中に、現代社会の諸相がさざなみのように浮かんでくる展開は、単なるCop Dramaとは異なり野心的だと思うし、「The Wire」のもうひとりの主人公とも言えるボルティモア、すなわち「都市」そのものを描き出すアプローチにも通じる。
しかし、「The Wire」が捜査側と同じくらいに犯罪者の内面や人間像を深く抉ったのに対し、「The Killing」のヒューマン・ドラマの要のひとつは、被害者の家族。これは、「The Wire」が既に割れている/途中から明らかになる犯人を、いかに警察が追いつめていくか・・・という、いわば倒叙型なのに対し、「The Killing」では、犯人探しがキモだから、というストーリー構成の違いもあるだろう。突如降りかかったいたましい事件を境に、つましくも幸せだった遺族の家庭が成す術もなく崩壊し、娘の父と母が時間と共に変化していく様は、捜査の進展と同じくらい、いや時にそれ以上に、大きな悲劇として全体をリードしていく。悲しみに対する焦点の大きさ、根底に流れる暗さとペシミズムというのは、これまた、日本的かもしれない。

最後にもうひとつ、「Twin Peaks」そして「Fire Walk With Me」。リンチ・ワールドのシュールなぶっ飛びとは異なる世界観ながら、美人で優等生、誰からも好かれる娘が突如惨殺され、水路に沈められた車の中で発見されるという最初のプロットに、川に打ち上げられたローラ・パーマーを思い出す人は皆無ではないと思う(エンディングのクレジットで、毎回犠牲者:ナナのポートレート写真が映される様も、ローラのプロム写真を思わせる)。まあ、ローラのように「美しい死体」ではなかったですけどね。
第一話での、ナナの父ちゃんが娘の死を確認するくだりが、電話を通じて悲劇を知らされる母という、「Twin Peaks」に似た設定なのはもちろん、ハッピー&バブリーと思われていた出来のいい娘が、実は親に隠れてナイト・クラブでバイトしていた・・・というダークでダーティな裏話の暴露も、ローラの秘密と似ている。ログ・レディは出てこないし、逆回転でしゃべる小人の部屋も登場しない。しかし、警部サラが説明不可能な「何か」に吸い寄せられ、他の警部刑事が見落としていた手がかり、あるいは糸口を掴んでいく場面が何度か登場するのは、クーパー捜査官同様、やや超自然入っている。他の面の描写がリアルなのに較べ、ちょっとヘンではあるのだけど、霊感も才能の一端、ということで(笑)。

欠点もゼロではない。これは、作品の長尺さがアダになっているとも思うけど、Red Herring、すなわち「こいつが犯人?」と疑わせる、含みを持った新キャラが次から次へと登場する点。疑わしいキャラがいるのはいいんだけど、それまでドラマにまったく登場しなかった未知の人物が、「ちは~!」といきなり顔を出すのは、ちょっとずるいし、興ざめでもある。未知の人物なら、辻褄合わせるのも楽だし。
作品7割まで消化した時点で、「The Killing」には10人近い「怪しい人間」が登場している。警察側も、証拠不十分な早期検挙~後に無罪証明、の失敗を少なくとも3回近く犯していて、ちょっと多すぎではないかとは思う。そこに、観る側を引っ掛け、ドラマとサスペンスを引っ張ろうとする製作者の欲も透けてくる気がして、「もう分かったから、結末を!」という思いが生まれもする。残る6話を観て、早くすっきりしたい。

ともあれ、字幕もの、すなわち外国産のドラマや映画に、基本的にあまり食指を動かさないイギリス人(=英語族の尊大さ、とも言いますが)も、この作品のクオリティには反応せずにいられなかったようだ。ちなみに、欧州圏での好評を受け、既に米AMC(「Mad Men」他)がリメイクを制作。オンエアは4月で、舞台をシアトルに移したというけれど、果たしてどうなりますか。フィンチャーが「The Girl With The Dragon Tattoo」を作ったり、スカンジナビア・スリラーはちょっとしたブームなのかもしれません。最後になるけど、主役のサラはかわいい。ミュージシャンで言えば、PJハーヴェイの佇まいが近いかな。派手で分かりやすい美人ではないけれど、少女っぽい小柄な体型と意思の強さを感じさせる目の力、北欧調の編みこみセーターが素敵です。

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その他:

●最近、ジミー・スコットの「The Source」をよく聴いている。上記の「Twin Peaks」はもちろん、ここのところリンチ的なドゥームなロマンチズムがシーンのそこここに戻ってきている気がしていて(勝手な思い込みかもしれないが)、絶賛再訪中。そのジミー・スコットが歌う「Twin Peaks」の挿入歌が、美しい「Sycamore Trees」であります。他にもロイ・オービソン、ジュリー・クルーズのアルバムを久々に引っ張り出して聴いたりもしてるけど、映画はもちろんのこと、彼の音楽センスはやはりすごいな――優れている云々というより、普通じゃない/他にない個性――と改めて。

ジミー・スコットは、1925年生まれ、ライオネル・ハンプトンやレイ・チャールズに認められた名ジャズ・バラッド・シンガー。そのレイ・チャールズがプロデュース、およびピアノ演奏まで買って出た「Falling In Love Is Wonderful」(1963)は、しかし過去に結んだレコード契約がネックになり、発売後すぐに回収の憂き目に。その不遇を挽回すべく、アトランティックから「The Source」(1970)をリリースするものの、こちらも同様に契約問題の犠牲となり、市場から撤収。ショウビズ界から一時身を引いた彼は、故郷クリーヴランドに引き込んでしまう。盟友ドク・ポーマスの死をきっかけに、90年代になって再発見~カムバックを果たすまで、知る人ぞ知る存在になっていたという(現在は、「Falling~」も「The Source」も再発されております)。その後、来日公演もちゃんと行われたというから、日本ってやっぱすごいかも。
遺伝性の病のため成長に障害を来たし、声変わりしなかったという彼は、女性と聞きまごう特徴的な高音の持ち主。繊細なフレージングと豊かな情感で曲のコアを歌い上げ、悲しみをあくまでエレガントに、愛をとことんロマンチックに表現するシンガーという意味では、傑出していると思う。ほんと、聴いていると、たまに声を失ってしまう。

スタンダードの名曲群にオーケストラの演奏もゴージャスな「Falling~」は代表作とされているし好きだが、個人的には、作風/アプローチは同じながらもうちょっと洗練され、甘さが抑え目の「The Source」をおすすめ(ジャケットもかっこいい)。ここに収録されてる「Unchained Melody」のカヴァーは、オリジナルを上回る切なさとひたむきさが絶品。あの曲の、一番好きなヴァージョンかもしれない。
高い声といえば、「Eraserhead」の名曲「In Heaven」も、ピーター・アイヴァースの独特な歌唱が印象的だったっけ(ある友達は、長いこと女性が歌っているのだと信じ込んでいた)。そんなユニークなテイストの持ち主であるリンチだが、本人のデビュー・アルバムは、どうなるのかな。

●デーモン&ナオミの新曲「And You Are There」に、映像作家クリス・マルケルがイメージをつけたそうです。これはナイスな顔合わせ。以下、ニュースレターから引用。

We are delighted to announce a new “video” by visual artist Chris Marker. Consisting of a single still image set to a song from our forthcoming album, the project is being hosted by the Wire Magazine. Naomi explains:

“The song, ‘And You Are There,’ is about the way time can compress when you are lost in a memory, something I have learned a lot about from Chris Marker’s work — his films (La Jetée, Sans Soleil), his writing (Immemory), his photographs. When the song was finished, I sent it to Chris with a note — since his work had provided inspiration for the song, I wondered, might he in turn have a visual response to it? He sent back this image, with the note:

“Dunno if it fits your pretty Proustian melancholy, but I thought it could… And thanks for linking me to music, the only real art for me as you know (cinema? you kiddin’…)”

The video is live now at: http://www.thewire.co.uk/articles/5946/.
http://www.DamonandNaomi.com

●ガール・クラッシュ:Daisy Lowe
男でも女でも、目が離せない有名人、メディアで見かけるたびについチェックしてしまう対象は多い。その人物の写真や記事をコレクトするとか、ポスターだのカレンダーを買い込んだり、一挙一動をネット他でフォローする・・・という、いわゆるオブセッシブで投資をいとわない「ファン」ではないんだけど、「あの子かわいいよねえ~」「今一番かっこいいのは彼」くらいの、軽度のミーハー熱=クラッシュとでもいうか。
別に実物に会いたいとも思わなくて、彼らが投影するイメージ、あるいは人間としてのコンセプトを愛でる感じ。ダルい日常や人生に、無責任なファンタジーと、ちょっとした刺激を与えてくれるスパイスみたいなもの、とも言える。ゆえに、自分の性志向とは関係なく、男でも女でも、下手したら動物でも、マイ・クラッシュの対象になる。

女の子に関しては、動物ならだんぜん猫派というのもあり、完全に猫系好き。奔放でしなやか、甘ったれで勝手、無防備にかわいくも色っぽいのが、いいですね。そんな中で、久々に「これは」と思わせたモデル:デイジー・ロウが、GQ最新号の表紙を飾っている。ご存知の方も多いと思うけど、彼女は元パウダー(ブリットポップの泡沫バンド。覚えてる人は、年齢バレます)のヴォーカル~その後スーパーグラスのダニーと結婚し、現在デザイナーとしても活躍中のパール・ロウと、ブッシュ(これまた懐かしいですな)のギャヴィン・ロスデールとの間に生まれた子。いわゆる2世スターです。
顔は年々母親に似てきていて、その点はちょっと心配なのだけど、爆弾級のボディと脱ぎっぷりの良さ(彼女に注目したきっかけも、テリー・リチャードソンが撮ったi-D表紙での、恋人とのエロエロ・ヌード)、ロック・チックとファム・アンファンが混じったキャラで、男女から愛されている。キャットウォークにはちと向かないボリュームたっぷりの体型ながら、広告(エージェント・プロヴォケター、アメアパ、マーク・ジェイコブス、ドクター・マーチン他)、雑誌、ミュージック・ビデオ他で活躍していて、去年復活したBIBAのイメージ・キャラも務めている。

こうした、いわゆるファッション・アイコン、「It Girl」というのは、イギリスにおいてはここ20年近くケイト・モスの独壇場だった。みんな、よく飽きないなあ・・・と感心してしまうくらい、ほんと、ミドル・クラスのイギリス人はケイトに目がない。英女性ファッション誌が売り上げを伸ばしたい時の、もっとも確実な「切り札表紙」(=ロック雑誌で言えば、ビートルズ、ニルヴァーナ、レディオヘッドがそれに当たるだろうか)はいまだ彼女だというから、その神通力は大きいのである。
ちなみに、ゴシップ誌の女王といえば、やはり「ポッシュ」ことヴィクトリア・ベッカムを筆頭とするWAGS(Wives And Girlfriends of Footballers)だろう。そのヴィクトリアも、昨今は「人気スポーツ選手のトロフィー妻」的な存在――WAGSというのも、「パートナーの稼いだ金を湯水のように使うだけの女」というニュアンスで、そもそも蔑称です――から脱皮、これまたファッション・アイコン/トレンド・セッターとして転生を果たそうとしている。が、常に気合の入りすぎなところと必死さが、彼女の自信の欠如の裏返しのようでもあり、悲壮つうか、見ていて滅入らされる。もともと自然なカリスマがない人なんでしょうね。可哀想。

とはいえ、長らく君臨してきたケイトもヴィクトリアも30代後半。そろそろネクスト・ジェネレーションが台頭してきてもいい頃合である。WAGSに関しては、ポッシュ同様、①人気女性アイドル・グループ(ガールズ・アラウド)のメンバーで、②前夫はフットボール選手(アシュリー・コール)という、シェリル・コールがダントツで後継者ナンバー・ワン。これは、彼女が人気番組「X Factor」のジャッジ役でお茶の間に浸透し、アシュリーの浮気スキャンダルで同情を集めた・・・というのも大きく作用しているのだが、カリスマのなさとうっすら漂う悲壮感は、これまたヴィクトリアと同じ。正統派の美人ではあるけど、幸せそうな人とは思えないんだよね。

モデル族の最右翼としては、目下アレクサ・チャン、そしてデイジー・ロウがポイントを伸ばしている。アレクサは、アークティック・モンキーズのアレックスの恋人としてもおなじみだろう。シックでボーイッシュ、ジュリー・クリスティ似の大胆な顔立ちは、60年代UKのイメージである。露出&セクシー度が低い上品なお嬢さんタイプ、かつ着こなしが粋なので、女性から敬われ、よくベスト・ドレッサーにも選ばれている。しかし、「人生最大の夢はシャネルのモデルになること」とか、発言が結構おバカさん。ケイト・モスを見習って、インタヴューはなるべくやらない方がいいでしょう。
デイジーは、その点無理に賢いふりをすることもなく、天然の色気とフェロモン、デカダンでゴスな存在感で、見る者を無邪気に魅了していく。本当はどうか知らんが、計算高い印象を与えない人だし、パンダ顔にムチムチ体型、いわゆる教科書どおりの美人ではなくても「自分は自分だし」と割り切っていて、不満がなさそう=充足したオーラが出てるというか。その意味で、バルドーはもちろん、イタリア女優、近いところで言えばルー・ドワイヨンといった、大陸美女のムードに通じるところもあるかも?概して芳醇な雰囲気に乏しいイギリス女性にしては、珍しいと言える。ナチュラルな色気という意味では、リリー・アレンにもちょっと似てるかな。

そのGQ最新号のグラビアは、ちょっと前のリアーナみたいなSM入った「女王様」ノリで、紳士諸君の欲望を分かりやすく具現化している・・・のかもしれないが、あんまADのセンスがいいとは感じなかった。去年のEsquire表紙号の、70年代欧州ソフト・ポルノみたいなイメージの方が、ずっとエロいと思う。ともあれ、今後も楽しみなデイジーちゃん。ガール・クラッシュのレベルを越えて、マイ・アイドルに昇格してくれれば嬉しい限りです。

●最後に、ヒップスターをおちょくるナイスなサイトをご紹介。漫画もいいんだけど、Tシャツのロゴなど、スローガンがかなり笑える。暇つぶしに、どうぞ~。

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Mariko Sakamoto について

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