週刊琴線(3月25日号)

今週の琴線

Submarine(Dir.Richard Ayoade/2011)
James Blake—24March/St.Pancras Old Church
Ron Sexsmith—Love Shines(Dir.Doug Arrowsmith/2010)

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「Nathan Barley」、「The Mighty Boosh」、「Garth Marenghi’s Darkplace」、「The IT Crowd」他、英コメディやシットコムで今風ギークな脇役をやらせたらピカ一な役者、リチャード・アイオーデ(=中でも「Darkplace」のディーン・ラーナー、「IT」のロス役が抜群)。しかし、もともとクリエイター志向の強い人でもあるらしく、近年はインディ系のプロモーション・ビデオ(アークティック・モンキーズ、ヴァンパイア・ウィークエンド、グリフ・リース他)、コンサート映画(アークティック・モンキーズ「Live At The Apollo」)など監督業にも進出。レトロで一風変わったセンスが注目を集めてきた。
そんな彼にとっての長編映画初挑戦作(脚本も兼任)になるのが「Submarine」。原作は2008年に詩人ジョー・ダンソーンが発表した同名デビュー小説で、著者の生まれ故郷である南ウェールズ:スウォンジーが舞台の、自伝的な匂いの濃い少年成長のストーリーだ。原作の映画化権を買い取ったWarp Filmsが企画をリチャードにオファーし、2009年に撮影開始。英インディ映画の一角を担うワープと、ヒット・コメディ「MB」キャストの顔合わせ、オリジナル音楽をアレックス・ターナーが提供、しかも総合プロデューサーはベン・スティラー・・・ということで話題を集め、昨年のロンドン映画祭でプレミア上映された際も、チケット完売の隠れ人気作になっていた。

多感ではみ出し者な少年による、一人称で綴られる青年期への目覚めというのは、サリンジャーの古典「ライ麦畑でつかまえて」以来、これまで何度も扱われてきたテーマ/スタイル。ひねったところでは「レス・ザン・ゼロ」、イギリスでも、マーティン・エイミス作品、80年代を背景にした「The Diary of Adrian Mole」シリーズなど、難儀な若者を描く同モチーフの人気文学は少なくない。
「Submarine」におけるホールデン・コールフィールドに当たるのが、15歳の少年オリヴァー・テイト(クレイグ・ロバーツ)。ホールデンほど大人、学校、社会、権威、順応主義に対する反抗心・侮蔑・批判をあらわにしてはいないものの、自閉症気味で想像力の豊かな、クラスにひとりはいそうな「変わり者」である彼もまた、テーンエイジャーならではのピュアに閉じた世界と、自分にしか通用しないロジックを中心に生きている。その傍目にはコミカル、しかし当人にとっては大真面目なロジックが、初恋、家庭内のトラブルといった様々な出来事で揺さぶられ、空回りし、壊され、やがて他者を受け入れる術を学んでいく・・・というのが、主筋になる。

たとえば、何度か登場するオリヴァーの部屋&勉強机ひとつとっても、映画ポスター(メルヴィル&ドロンの「Le Samourai」!)や壁に貼られたおびただしい切抜き、タイプライター、レコード・プレイヤー、模型他の一見雑多なジャンク(小道具)が、それぞれに意味を持ち、緻密に結びついている彼の頭の中が一発で見て取れる。愛読書は辞書、好きな女の子の首の湿疹に魅了され、ストーカー気味に両親の動向をモニターする姿・・・と、主人公のオブセッシヴで考えすぎな性向と屈折したキャラの主観を通じて見た世界は、エピソードや台詞だけではなく、映像からもじかに感じ取れる。
アントワーヌ・ドワネルとトリュフォーのように、オリヴァーがリチャード・アイオーデの分身であるのはいうまでもない。と同時に、原作の設定を変え、舞台を80年代初頭に移すことで、小道具や風景、キャラクター達のルックス(髪型、コスチュームの選び方)を監督自身の世界に引き寄せ、彼ならではのヴィジョンを構築している点も大きい。オリヴァーの厚ぼったい髪型に堅苦しいダッフル・コート+ブレザーの学生服、オリヴァーのGFジョルダーナ(ヤスミン・ペイジ)の赤いコートとおかっぱ髪は、小説通りに「今」が舞台とすれば、ちょっと時代がかって見えると思う。
しかし、学者肌で神経質なオリヴァーの父:ロイド(「The Life Aquatic」でもおなじみの個性派ノア・テイラーが好演)の化繊シャツと毛織のズボン、公務員で冷感症気味な母:ジル(「Made in Dagenham」で光っていたサリー・ホーキンス)のダイアナ・カットに首までボタン・アップされたサッチャー気味なブラウス姿――どちらも、それぞれのキャラのエッセンスを的確に視覚化できているように、原典を踏まえつつ「映画」の言語に翻案してあるのはおみごと。作品のトータルなイメージを細部までちゃんと保持した監督であればあるほど、食卓におかれた茶碗の柄から俳優の髪型まで、目を配るのはある意味当然の話。その意味で、「Submarine」のお手本にあるのは、ディテール、すなわちスクリーンをよぎるイメージを言葉と同じくらい重視した、作家映画の作法だろう。

そんなリチャード・アイオーデのシネアストぶりは、映画好きを刺激するスウィッチを本作の随所に仕掛けている。先述の「Le Samourai」のポスター、「La Passion de Jeanne d’Arc」はもちろん、オリヴァーの表情や演技は「The Graduate」のダスティン・ホフマン、「Harold and Maude」のバド・コートを思い起こさせる。そのオリヴァーの空想シーンから始まる作品冒頭と「Rushmore」のイントロのシンクロ、フーツラ書体への愛、そしてノア・テイラーが海洋学の教師という設定など、ウェス・アンダーソンへのオマージュを感じてニンマリする人もいるだろう。
ジョルダーナのアイコニックなおかっぱは、アンナ・カリーナ(ゴダール)からリタ・トゥーシンハム(リチャード・レスター)に至る英米ヌーヴェル・ヴァーグへの目配せに見える。フード付きの赤いコートを着た彼女が、海辺に佇んで振り向くシーンでは、ニコラス・ローグ「Don’t Look Now」とトリュフォー「Quatre Cents Coups」が一瞬交錯するようでゾクゾクしてしまった。ちなみにアイオーデ本人はロメール作品もインスピレーションにあげていたりして、いやはや渋いね~。

もちろん、「映画狂による映画」というのは、今に始まった話ではない。メルヴィルはアメリカ映画(特にフィルム・ノワール)マニアだったし、ヌーヴェル・ヴァーグの多くはヒッチコックを師と仰いでいた。スコセッシの映画歴史学者ぶりはつとに知られているし、そのヌーヴェル・ヴァーグに、アメリカからはジャームッシュ、ハル・ハートリー、タランティーノ(最強の映画オタクでしょうな)らが反応してみせた・・・という具合に、インディ系映画には、過去の引用と再解釈、オマージュの伝統がある。
しかし、イギリス映画人というのはその点どこかストイックで、自国の世界観や話法を守る傾向がある。そこから独特なイギリス映画の匂いが生まれもするし、ケン・ローチやマイク・リー、アラン・クラーク、シェーン・メドウズら、リアリズム重視の社会派ドラマ~演劇演技の伝統から優れた作家も生まれてきた。しかし、そのぶん、「映画」固有のテクニックやマジック、視覚の飛躍を存分に活かした、いわゆるアート系の監督は、マイケル・パウエル、ニコラス・ローグ、デレク・ジャーマン、ピーター・グリーナウェイらを除くと、決して多くない(興味深いのは、「イギリス的」とされる映画が、案外と外人監督によって制作されている点。「Blow Up」=アントニオーニ、ビートルズ映画=アメリカ人のリチャード・レスター、そしてジョゼフ・ロージー)。

それは、もしかしたら、世界的に猛威をふるうアメリカ映画のエンタメ性と、アジア/ヨーロッパ映画の高度な芸術性の狭間で、アイデンティティを模索せざるを得ないイギリスの切なさなのかもしれない。同じ「英語映画」なのに、アメリカの普遍性には達し得ないものね・・・そのぶん、純文学作品(マーチャント&アイヴォリー、ジェーン・オースティンもの他)、おっとりロムコム(「Four Weddings」、「Bridget Jones Diary」他)、王族貴族(「The Queen」、「King’s Speech」)といった、トワイニング紅茶とスコーンみたいな、安全牌が幅を利かせることにもなる。
一方で、メインストリームな、とてもハリウッド的な才覚の持ち主=リドリー・スコット、ダニー・ボイル、ガイ・リッチー、クリストファー・ノーランも出てきているわけだが、インディ/アート系作家の名誉のバッジ、すなわちマニアックな映画愛を露呈するクリエイターは、コメディを除くと、あまり多くない気がする。その例としてエドガー・ライト(「Shaun Of The Dead」、「Scott Pilgrim」等)がいるが、作家主義というよりSFやホラー=コミコン系の子供っぽいオタクというのが近いし、その意味で、ヌーヴェル・ヴァーグや60~70年代古典に傾倒したリチャード・アイオーデと「Submarine」――これもマイルドなコメディですが――の登場は、新鮮だったりするのだ。

もうひとつ指摘しておきたいのが、「Submarine」の00年代USアート~インディ勢とのナチュラルな共振。先述のウェス・アンダーソンが、何食わぬ演技からにじむユーモア、編集のテンポ、ブッキッシュでオールドスクールなプロダクション・デザインなど、多くの面でインスピレーションになっているのはもちろん、ミシェル・ゴンドリーのオフビートで無邪気な笑い、ソフィア・コッポラのディテールへの目線も。
また、多くの評で「(500)Days Of Summer」(この作品も、音楽ビデオあがりの監督の作品ですね)が比較対象に上がっているし、アイオーデ本人はマイケル・セラ好きで、「JUNO」愛をがっつり表明している(主役ふたりに、「君達が使い物にならなかったら、マイケルとエレン・ペイジに換えるから」と冗談半分の脅しもかけたらしい)。90年代のUSアートハウス・シネマとフラットパック、そして00年代のジャド・アパトー~ジェイソン・ライトマン~ノア・バームバックらによるコメディ・ドラマ新派を愛する人間には、抵抗なく入っていける世界だと思う。
中でも、マイク・ミルズの「Thumbsucker」は近親性を感じる。ストーリーやトーンはもっとシリアスながら、アメリカ郊外の、レトロ・モダンでありつつ自然も豊かな情景描写は「Submarine」の美しいロケ・シーン(特に海辺)とだぶるし、主人公は共に妄想癖が強く、親に心配されている。彼らより遥かにませていて、やや「悪い子」な女の子に惚れ、彼女らに振り回される・・・というのは、この手のストーリーの典型ではあるけれど、「母が浮気してるかも」という疑惑が混じり家族に波紋が広がる展開は、両作品を繋げている(どちらの作品も小説を素材にしているので、監督云々ではなく、むしろ原作のパラレルかもしれないが)。
更に細かいネタを上げれば、「Thumbsucker」でキアヌ・リーヴスが演じた胡散臭いニュー・エイジ野郎の歯科医に対して、「Submarine」にはパディ・コンシディーン演じる(これまた)ニュー・エイジの導師が登場。キアヌが抜群に笑えたのと同様、「オーラが大事」とかノリノリでほざくパディも、「Aladdin Sane」期ボウイも真っ青のマレット・ヘアにジャンプ・スーツ姿、あやしい東洋趣味で笑わせてくれます。彼も最近初監督作「Tyrannosaur」を発表していて、今後役者としての活動はスロー・ダウンする・・・との噂が流れてるけど、シリアスな主役(「Dead Man’s Shoes」、「My Summer Of Love」、テレビ・シリーズ「Red Riding」も良かった!)はもちろん、コメディ(「Le Donk&Scor-Zay-Zee」)のフックもこなせる貴重な人材なので、俳優業も続けてほしいなあ・・・。

あと、音楽。「Thumbsucker」ではブライアン・ライツェルが音楽顧問、ポリフォニック・スプリーがメインでオリジナル音楽を提供していたように、「Submarine」はアレックス・ターナーの書下ろし曲が全編にフィーチャーされている。リチャード・アイオーデの経歴を考えれば、たとえばコーエン兄弟(例:「Blood Simple」のフォー・トップス「It’s The Same Old Thing」、「A Serious Man」のジェファーソン・エアプレーン)、ハル・ハートリー(「Simple Men」のソニック・ユース「Kool Thing」、ヨ・ラ・テンゴ)、ソフィア・コッポラ(「The Virgin Suicides」のトッド・ラングレン、10CC他)、ウェス・アンダーソン(いくらでもありますが、「The Royal Tenenbaums」のニコ、「Darjeering Limited」のキンクス、「Fantastic Mr.Fox」のボビー・フラー・フォー「Let Her Dance」)、英映画で言えば、ダニー・ボイル「Trainspotting」のように、既存のポップ・ミュージックを印象的に挿入して映像やストーリーを増幅する、という「コンピ手法」も可能だったはず。観てるうちに、こっちの頭の中でどんどん音楽が聞こえてきたもんね。
しかし、敢えてそっちではなく、むしろ「The Graduate」でのサイモン&ガーファンクル、「Harold and Maude」のキャット・スティーヴンスあたりをモデルに、音楽の柱をひとつの声に絞ったのは、常道破りで気概があるなと思った(まあ、インディの初監督作だけに、制作予算の都合上、権利関係のクリアが難しかったのかもしれないが)。このサントラは、もうEPで発売されてるけど、本業とも、ラスト・シャドウ・パペッツとも趣きの異なるフォーキィな弾き語りとデリケートな歌い口がなかなか素敵で、アレックスのこれまであまり見えなかった面を垣間見せてくれる。ボブ・ディランはもちろん、リチャード・ホウリーにも一脈通じるジェントルなメロディは、画面との相性もぴったりです。

作品を構成するパーツの話が続いたが、「Submarine」は、過去のセンシティヴな米欧インディ映画の伝統に相槌を打ちつつ、異なる映像メディアのミックスや特殊効果も取り入れることで、キッチン・シンク型の英ドラマ――たとえば、オリヴァーのヴィヴィッドで若干ダークな空想や視点の視覚化に、「Billy Liar」の主役:ビリーのそれを重ねることもできる――に通じる物語を、モダンなコメディ言語に移行している。
ベーコン脂と洗剤の匂い、カーペットのカビ臭さがティーカップの茶渋のようにしみついた英映画の伝統的なノリは、筆者は基本的に嫌いではない。しかし、庶民ドラマのややしょっぱいドキュメンタリー調ヴォキャブラリーに縛られることなく、かといって現代イギリスの若者の生態をリアルに追及するでもない、少年がある時期に経る「不可思議な時間」を、さりげないポエジーと辛口なユーモア、カラフル&闊達な話法で描いたこの作品は、イギリス映画のありそうでなかったニッチを埋めるものだと思う。
先述したシネアストぶりは、人によっては自己耽溺、あるいは訳知り顔で鼻に付く・・・と感じる類いのものではある(タランティーノ作品にも、そういうところはある)。オリヴァーのナレーションを多用し、観客に語りかける本作の独白スタイルが、そもそも背伸び気味でひとりよがりなティーンの自意識バリバリ、とも言える。しかし、アメリカ産ティーン・コメディのようなフィールグッドで甘いカタルシス、10代のアンチ・ヒーローの安易な称揚、あるいはオリヴァーの問題にドラマチックな解決を提示しない、ニュアンスと知的な抑制があるからこそ、本作でもっとも美しく切ない8ミリ映像による「映画の中の映画」シークエンス、廃れた港湾都市~浜辺の景色など、ロマンチックでエモーショナルな場面も俄然生きてくる。

ともあれ、主演2人=クレイグ・ロバーツとヤスミン・ペイジのハマりっぷりに魅せられるのはもちろん、リチャード・アイオーデの手腕と個性的なセンス、ダイアローグのさりげない笑い、オフビートと情感とのバランスは、処女長編とは思えないほど冴えた手さばきを見せている。こっちでのレヴュー評価も軒並みポイントが高く、興収も順当なので、次の作品で一気にハリウッドに招かれる可能性も、満更ゼロではないかも?それはそれで頼もしい話だけれど、そうなる前にもう少しブリティッシュ・コメディ映画の裾野を広げてくれればと思うし、次はぜひ、原作付きではなく、彼のオリジナル脚本で撮ってほしい。それも、できればキッズではなく、大人の恋愛話を。

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ポスト・ダブステップ界からメインストリームに浮上――そんな謳い文句と共にアルバム・デビューを果たした、南ロンドン出身の23歳:ジェームス・ブレイクのライヴに行ってきた。BBC「Sound Of 2011」の2位に選ばれてもいる彼は、2年ほど前からブロガー・レベルで話題を集め、昨年リリースのEPにおけるダブステップ脱構築~鋭利にカット・アップされたアブストラクトな音像で、早耳音楽ファンの中にセンセーションを巻き起こした。

そのセルフ・タイトルのデビュー作「James Blake」は、しかし基本的に歌物アルバムということもあり、以前から彼に注目していたダンス・ファンを当惑させ、ダブステップと思い込んで聴いた人間の頭には「?」を点灯させてもいる模様。と同時に英メディアでの注目度は高く、先述の「Sound Of」を筆頭に名前を取り沙汰されていることもあり、音楽趣味の違う知人数人から、「そういえば、ジェームス・ブレイクってどうよ?いいの?」と何度か訊かれたことがある。そんなん、自分で聴いて判断してくれ~。
しかし、話題になってるけど賛否両論分かれていて、聴くべきなのか放置しておけばいいのか、判断しかねる・・・誰か教えて!という、いわば「フェンスに座って、ちょっと様子を見ておこう」作品/アーティストって、最近増えてる気がする。ジ・エックス・エックスしかり、レディオヘッドの「The King Of Limbs」しかり。「聴いておかないとかっこ悪いかも」「話題に乗り遅れたくない(=損したくない?)」という焦りと、とりあえず何らかのマイ・オピニオンを持っておきたい、という強迫観念が、ネット・メディアやブログのおかげで加速してるのだろうか。
もちろん、ジャストなタイミングで作品を好きになり、ノってる時にライヴも観て・・・という経験は、昔も今も音楽ファンの心の糧。しかし、本当にいい作品ならいつ聴いたっていいはずだし、早い/遅いにこだわる必要はない(そこで好き・嫌いの度合いを図られたら、自分なんて、オールド・ファンから「お前なんざ、まだ青い!」とダメ出し食らいまくりだろう)。時間が経ってから「あ、これすごい音楽だったんだ~」と気づいて苦笑することだってあるし、逆もまたしかり。外から発される「今はこれ」より、自分の中の「今はこれ」に忠実でいる方が、気が楽だと思う。「この作品は発売と同時に買って聴かなければ!」という強い思い=興奮が自然に生まれない作品は、たとえ他人から「いいよ」と勧められても、結局買わなかったりするものだし。ま、常に時代から前後にちょっとズレているダメ人間にそう言われても、あまり説得力はないでしょうが。

かくいう自分は、気合の入ったクラバーでも、テクノヘッズでもなんでもない在宅リスナー。このアルバムも、一部のワープ作品を思わせる、緻密にマニピュレートされた音作りの面白さやベース音の気持ちよさだけではなく、スーパー・コライダーとアントニー&ザ・ジョンソンズ、ボン・イヴェールを繋ぐごとき、ソウル~フォーク・アルバムのモダンなバリエーションとして接している(「I Never Learnt To Share」、「Limit To Your Love」など)。聴き手によって捉えられ方が異なる=多面的なアーティストと言えるし、その意味で、この晩の生ジェームス初体験は興味津々でもあった。
数回にわたるレジデンス・ギグの舞台になったのは、英国図書館とセント・パンクラス駅の裏手に位置する教会(St Pancras Old Church)。この駅はユーロスター発着駅としてモダナイズされ、キングス・クロス圏再開発の恩恵を受けてもいるエリアながら、少し歩けばアーバンな喧騒とは無縁の、公団と住宅街の地味なロンドンが広がる。教会ギグは色々体験してきたつもりだが、この教会はかなり古そう。入り口の低さといい、ゴシック建築やヴィクトリア朝教会の装飾性/壮麗さとは無縁な簡素極まりない白壁の内装といい、中世の匂いが漂ってくる。前方に椅子が置かれていたが、キャパはマックスでも180くらい。バンドをオーガナイズしてまだ間もないというから、これくらいの規模で肩慣らししつつ、慎重にパフォーマンスを組んでいこう・・・というところか。

青白い照明とロウソクで照らされたムーディなステージに、ダーク・スーツ姿のジェームスが現れ、長い身体を折り曲げるようにキーボード前に着席。拍手の中、しかしなかなか顔を上げないシャイな様(重たい髪型が、オレンジ・ジュース初期のエドウィン・コリンズにちょい似)に、アルバム・ジャケットのブレたポートレートは、満更ミステリアスなかっこつけでもなく彼の内面を物語るものなのだったのね、と感じる。
バンドはトリオ編成で、サンプラー&アコギ担当のメンバーとパーカッショニストが加わっている。にしても、ドラムはハイハットとスネア、シンバル程度でアコースティックだな・・・といぶかしく思っていたところ、1曲目「Unluck」のイントロがドラマチックにキック・インし、すぐ謎が氷解。重低音はすべて打ち込みで、生のパーカッションは味付け程度に過ぎない。そのベース音はさすがダブステップが出自な人だけあって、マジに黒木の梁がビリビリ震動し音割れするほどサラウンド&ボディソニック。古い建物なので怖くもあったが、クラブ系とおぼしきファンは大喜びしている。

切り刻まれたビートや音のエレメント、オートチューン・ヴォイスをコラージュし、生音をブレンドしていくスタイルは、「To Care Like You」など、ちょっとしたパフォーマーのタイミングのずれも耳にはっきり響くミニマルなコンポジションが続いたセット前半は、やや不安定でもあった。そこはもっとライヴを重ねることで解消するとして、クラシックの素養を強く感じさせたピアノの弾き語り「Give Me My Mouth」を経て余裕が生まれたのか、続く「I Never~」で演奏に火がつき始める。
「My Brother And My Sister Don’t Speak To Me/But I Don’t Blame Them」の印象的なフレーズを生でループさせ、ねじり合わせることでにょきにょき生えていく声の藪。ムーグ調のキーボード・リフとシンセがその層を更に厚くしていき、それぞれの音が識別できないほど混ざり合ったところでヘヴィなベース音がブーン!と打ち込まれ、トライバルなパーカッションと共にダイナミックなトランスが生まれた。
ライヴ・リミックスとでも言うべきこの展開は、IDMやラップトップ・ミュージックに多くを負いつつ、しかしパフォーマンスは近年のレディオヘッド(というかトム・ヨーク)を参考にしているのかな?と思わせるもの。それまで、場の神妙な雰囲気とジェームスの落ち着きに気圧されたように(?)静かに見守っていた観客も一気に活気付き、持ち込み缶ビール(=ドリンク販売はなし)を入れたコンビニ袋をにわかにガサガサさせ始めたのは、なんともおかしかった。

「Lindisfarne」でフォーク~ゆかしい聖歌調のメロディと幽霊のような歌声のコンビネーション、80年代のアンビエント・イーノ(「Apollo」、ハロルド・バッドとのコラボなど)を思わせる浄化の音空間をひとしきり堪能させてもらった後、やはり一段と盛り上がったのが「Limit To Your Love」。ソウルフルな弾き語りのイントロだけで大きな拍手が生まれたが、ごっつい低音が再びうなる中、後半はドラムンベースの乱気流へ突入。やっと!という感じのダンサブルなビートの充満に場内も盛り上がり、キーボード前に座るのが基本ポジションだけにアクションは地味ながら、ジェームスもノリノリ、頭を前後に揺らしながらの熱演を繰り広げてくれた。
「The Wilhelm Scream」は、ダウン・テンポなギターがフュージョン~ニュー・エイジっぽくもあってちと古臭くもあったが(この人の音楽は、一歩間違えるとディナーBGMになってしまう)、そこから耳を聾するウォール・オブ・ホワイト・ノイズへとビルドアップしていき、文字通りのハイライトとなった。本編ラストは「Half Heat Full」で、引き伸ばされた鉄のようなタフな鍵盤とゲスト参加したホーンの寂れたサウンドは、「Wilhelm~」での灼熱が嘘のような、ハーモニーとテクスチャーの不穏なコラージュを奏でる。このトラックの音空間は、サントラのように映像性が高かった。
アンコールでジョニ・ミッチェルの「A Case Of You」カヴァーを披露したように、彼の中では古典的な歌と、現代音楽~電子音楽の諸相がナチュラルに同居している。歌い手としての求心力にはやや欠ける人ながら――声もムードもいいのだが、エモーションの内実がまだそこについていっていない、というか――コンポーザーとしてのそのセンスは個性的。発展段階にある今夜のパフォーマンスにしても、まだ完成されていないからこそ、ある意味ふたつの世界を強引にコネクトしようとすることから生まれる、スリリングな場面が何度もあった。教会とまでは言わないが、たとえば音響のいいインティメイトなクラブで、その緻密な音場が立ち上がる様を全身で体験してもらえたら、と思う。

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ロン・セクスミスの新作「Long Player Late Bloomer」英発売に併せ、同作レコーディングの模様を中心とするバイオ・ドキュメンタリー「Love Shines」がBBCでオンエアされた。ブルース・スプリングスティーンの「The Promise: the Making of Darkness on the Edge of Town」も記憶に新しいし、フー・ファイターズの「Back And Forth」ももうじき公開・・・というわけで、音楽ドキュメンタリー人気は続いているようです。

しかし、アルバム・レコーディングの過程、名曲誕生秘話、ソングライティングのプロセス、アーティストの心理/素顔に迫る・・・といったドラマの基本は同じながら、たとえばボスやフー作品とこの作品の後味がずいぶん違うのは、ロンのキャリアと音楽を追うと同時に、大きな商業的成功と縁遠いまま中年(今年で47歳)を迎えたいちソングライターの苦悩と現実とが、シビアに描かれているからだろう。「闇に吠える街」が後に名作として愛されること、フー・ファイターズが世界的な人気バンドであることは、誰もが知っている。タフな状況やエピソード、葛藤が画面に登場しても、最終的に彼らは「大丈夫」なのだ。「Love Shines」に、そうした安全ネットは用意されていない。
映画は、ロンがロサンジェルスに到着するところから始まる。過去数作が不振で、キャリアも立ち往生気味・・・という状況を自覚している彼は、ボブ・ロックとのレコーディングに活路を見出そうとしている。ボブ・ロックと言えばロンと同郷:カナダ出身のプロデューサーで、代表作としてカルト、モトリー・クルー、メタリカ他のアルバムがあがる、ヘヴィ・メタル/ハード・ロック界の大御所。パンチの効いた、ダイナミックで派手な音作りで知られる人だ。そんな彼とロンとは、たとえばニール・ダイヤモンドとリック・ルービン同様、一見スイカとうなぎのように食い合わせが悪い。が、ボブはマイケル・ブーブレなど、ポップ・アクト作品にも関わってきた。そんなベテラン職人のメジャー&メインストリームなプロダクション・スキルで、ロンの音楽に新たな磨きをかけよう・・・というのが、このコラボレーションの狙いである。

レーベルから印税の形で資金援助は得たものの、憧れのネーム・プロデューサーとLAのスタジオで、セッション・プレイヤー(ポール・マッカートニー・バンドのギタリストであるラスティ・アンダーソン、セイディーズのトラヴィス・グッド、ウィーザーでもおなじみのジョシュ・フリース他、名人が参加)を起用した制作費用の大半は、ロンが自己負担。大きな賭けだし、限られた予算&時間の中でアレンジを起こし、トラック・ダウンを済ませるプレッシャーで、もともと口角が下がり気味~困ったさん顔のロンの表情も、いっそう大変そう。いかにもLA!メジャーな業界人!というノリで余裕たっぷりのボブ・ロック(日焼け顔、長髪、白い歯。要はどっか人工的)を前に、萎縮した様子でアコギでデモを弾き語る姿など、見ていてこっちの胃が痛くなる。
しかし、自らプレイヤーでもあり、ポップ好きでもあるボブはこのプロジェクトに乗り気で、アレンジ、プロダクション、ミュージシャンへの指示他、バキバキとレコーディングを仕切っていく。その手際は(音の好き嫌いは別としても)「プロじゃのう~」と頷かされるものだし、ロン本人も、シンプルなデモからピアノのハーモニーが切り出され、スライド・ギター、コーラスが加わり・・・と、楽曲が形を整えていく様にはしゃぎ、感動を隠さない。その素直で少年のような姿からは、メジャー・デビューから今年で16年の今もナイーヴなままの、彼の内面が伝わってくる。

そのレコーディングの模様を中心に、作品はロンの人生/キャリアと、音楽的評価は高いものの、アルバム・リリース10枚以上を経ていまだ大きな成功が訪れない、「Cult Of Ron Sexsmith」を探っていく。本人、家族の回想、写真他で辿られる生い立ちは実につましく、70~80年代カナダのワーキング・クラスの表情が浮かんでくる。作品後半で、カナダのグラミーに当たるJUNO授賞式の模様を捉えたシーンが出てくるのだが、ロンのおかあちゃんがバカチョン・カメラを手に待機、息子が映るテレビ画面を大喜びで撮影するくだりなど、泣けます。
音楽に生きがいを見出したものの、20歳で父親になったロンは郵便配達人として生計を立てつつ、ソロ・デビューまでにそこから10年を費やすことになる。そのメジャー・デビュー作にしてモダン・クラシックの1枚「Ron Sexsmith」のプロデューサー:ダニエル・ラノワが当時を振り返る場面はとても嬉しいし、90年代~00年代にかけてのコンサート映像が挿入されるのもナイス。しかし、作品を重ね、プロとしてツアー・ライフに明け暮れるうちに家族を失うことに・・・というくだりは、かなり切ない。名曲「Speaking With The Angel」のモデルになった、前妻との第一子:クリストファー・セクスミスも作品中インタヴューに応えているが、決して「万事オッケー」ではなさそうな父と息子の微妙な関係が浮かんでくる(ロンは息子思いで、念願の名門:マッシー・ホールでのコンサートに招待したもののクリストファーは現れず、とても悲しそう)。

この手のドキュメンタリーに必須のトーキング・ヘッズ、すなわちコメンテーターとして登場するのは、スティーヴ・アール、ファイスト、エルヴィス・コステロ他。タウンス・ヴァン・ザント映画など、スティーヴ・アールはいまやSSWドキュメンタリーに欠かせない存在つーか(笑)、ご意見番なノリすらあるが、ロンの存在をいち早く見出し、才能を評価した人物なのは間違いない。ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、更にはブルース・コックバーンといったカナディアン・フォークの伝統を汲むソングライターとして、国内における、(とりわけミュージシャン・サークルの)ロンへのリスペクトを、コラボ経験もあるファイストちゃんが証言。コステロも、ポール・マッカートニーとロンのメロディ・センスを比較しつつの絶賛を寄せる。
そのコステロは、NY:アポロ・シアターでの「ソングライターの集い」ショウにロンを招待。両者による「Everyday I Write The Book」は、短いけど素敵な場面です。テレビ収録も絡むこのパフォーマンスを、テレビが苦手でアガりがちというロンはナーヴァスにこなすのだけど、ショウビズ慣れした(如才ない)共演者のひとり:シェリル・クロウが舞台袖で彼を励ます場面を見ていたら、アカデミー賞でのエリオット・スミスとセリーヌ・ディオンの図を思い出してしまった。

そんな風に同業者から賞賛され、熱心なファンも応援し続けているものの、才能に見合うだけのコマーシャルなブレイクに結びつかないフラストレーションは、本作を観ている側にも伝わってくる。その成功というのは、たとえば100万枚売るという巨大なものではなく、確実にレコードを作り続けていけるだけのヒット、という実直なレベル。そんなロンが、しかしピアノさえ買えなかったという現実には、再び胸が痛くなってしまう。
だが、アルバムのタイトル・トラック「Late Bloomer」の歌詞に「僕は遅咲きの人間/学ぶのに時間もかかる/レコードを引っくり返したところさ/僕はロング・プレイヤー/僕を救ってくれるのは僕の歌」という一節があるように、ロンは自らの音楽もキャリアも即効型ではなくスロー・バーナーという自覚のもと、折り返し地点を回り、長距離を歩み続けていく覚悟を固めている――なぜなら、音楽作り以外に、この人は何も求めていないからだ。アルバムは無事完成し、マネージャーが売り込みに奔走するものの、①メジャー・レーベルからは地味と評され②インディ・レーベルからはコマーシャル過ぎる、との声が上がり、ワールド・ワイドな一括リリースではなく、各国ごとに異なるレーベルからライセンス発売されることになる(例:カナダはワーナー・カナダ、イギリスはクッキング・ヴァイナルより)。

ロンが望んだ通りの転換作/ブレイク・ポイントを刻む作品になるかは、まだ分からない。しかし、上質なサウンドとシャイニーなアレンジ、(彼にしては)派手なプロダクションをまとった「Long Player Late Bloomer」は、ロンの流麗なメロディ・センスを前面に押し出し、アップ・テンポ曲をメリハリよく、メランコリックなヴォーカルからは力強さを引き出していて、新鮮だ。実にウェルメイドなポップ・アルバムだし、「Believe It When I See It」、「Late Bloomer」、「Love Shines」などは、ファウンテンズ・オブ・ウェインの曲と言われても信じられそう。ファッショナブルでもクールでもないだろうけど、ロンの賭けを信じて、多くの人に聴いてもらいたい作品だな、と思う。

●その他:
ロンドンで毎年開催されるユニークなフェス:メルトダウンのラインナップが発表になった。今年はレイ・デイヴィスがキュレーターで、御大はもちろん、アーサー・ブラウン、ファグス、テリー・ジョーンズ&マイケル・ペイリンのトーク、マッドネス、ヨ・ラ・テンゴらの出演が発表されている。中でも、ポップ職人の代表格:ニック・ロウの登板は嬉しいですな。つうわけで、最後はこの必殺曲のクリップで。

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Mariko Sakamoto について

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