Tusk Festival@The Cluny,Star&Shadow Cinema in Newcastle-Upon-Tyne,7-9Oct/2011:Day3

パネル・ディスカッションの模様

Bishop/Orcutt/Corsano

Hype Williams

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

またもホステルで睡眠妨害に遭い、日曜なのに早起きしてしまう。安いから仕方ないとはいえ、ホステル内の食堂のコーヒーは不味いので外に出るしかない。ロンドンはともかく、イギリスの地方都市で日曜朝早くから開いている飲食店は決して多くないので、コーヒー&朝食難民と化してあちこち歩き回ることになった。しかし、徒歩でも充分把握できるサイズ/凝縮された街なのでそんなに苦にはならないし、ニューキャッスル中心部の土地勘が多少は掴めた。また、大ショッピング・モールがやたらと多い中でも健闘している個人経営のお店やレコード店、ローカル・マーケットを覗けたのは楽しかった。

この日はまず、The Cluny 2で行われた音楽トーク・イベントから。ひとつは「The Public Interest:Getting your music to your audience,as an artist and /or label」と題されたパネル・ディスカッションで、雑誌ワイアーのスタッフを司会に、アラン・ビショップ他アーティスト、インディ・レーベルのスタッフらがデジタル時代の音楽ディストリビューションのあり方について語り合った。

違法ダウンロードやリークによってメディアの存在意義が大きく変化した点とその是非など、実際にレーベル業に携わっている人々の生の声を聞くのは興味深かったが(いやー、音楽ライター業なんて、あと数年でマジ寿命かもしれませんな:汗)、最大の論点は作品を生み出したアーティストにいかに適正に対価を支払うか、の点。これはワイアーの興味深いリレー連載「Collateral Damage」でも続いている論議なのだけど、デジタル・ミュージックの普及で世界津々浦々にまで音源を届けられるようになったと同時に、MP3ブログやファイル・シェアリングはアーティスト側の利益(フィジカルの売り上げ他)を損なう結果になってもいる――その前提のもと、いかにクリアかつフェアに(中間業者をなるべく排除して)作り手と受け手を繋ぐか、というトピックだった。
現在進行形の議論なのでここで解決案が出るわけではないが、たとえば大手デジタル・ミュージック・ストアにしてもレーベル側から見れば流通の透明性は徹底していないとのことで、ちょっとびっくりした。自分はいまだにフィジカル派なのでその手のアウトレットを使用したことはないとはいえ、多くの人にとってデジタル・ミュージック・ライフが簡便で快適で合理的なものなのであろうことは理解している。実際、パネリストのひとりであるレーベル・オーナーは「デジタルに一本化したい。アナログを出すのすら無駄じゃないかと思う」と発言していたくらいで(アナログ好きが多いだけに、場内からは一斉にブーイングの声が上がったが)、制作コストや流通・販売の手間を考えると、小さなジャンル専科型レーベルにとっては死活問題なのも伺えた。
とはいえ、単純に好みのレベルにまで話を引き戻すと、自分はかなりギリギリまでフィジカルにしがみつくタイプだと思うし、「誰かがきちんとお金を払って買うはず」という思いのもとにプレスされたいい作品については、アナログなりCDで買うように務めている(これは主にマイナーなインディ作品についての話で、メジャーのミリオン・セラー・アルバムやヒット曲なんかはSpotifyで済ませてますが)。かといって、別に「インディであればすべてグレイト!」とは思っていない。ただ、何かが一箇所に集中し、市場を操作できるほどビッグで強力な存在になり、そこから発生したモノポリー状態に隷属するような形で、文化なり社会なりが均質化するのが、どうにも性に合わないだけなのだと思う。
ともあれ、なかなか面白い討論会だった。このテーマと多少被る話として、先月のジョン・ピール・デイに際してピート・タウンゼントが持論を披露していたので、そちらのリンクもどーぞ

続いて、リース・チャタムによる講演。前日プレイされた「Guitar Trio」を軸に、70年代末のニューヨーク・ダウンタウン・アート・シーンであの作品がいかにして生まれたか、その背景を現代音楽の諸学派の歴史をざっくり遡りつつ検証していく、という内容である。アカデミックな音楽教育を受けた人だけあって口調は非常に流麗かつ上品だし、実際に楽曲サンプルの数々(モーツァルト、ストラヴィンスキー、ラヴェル、ライヒ、テリー・ライリーetc)をパソコンで随時再生しつつのスタイルで、テクニカルな説明にしても分かりやすい。こうしたレクチャーは、かなりやってきたのだろう。
調律師として様々なミュージシャンと交流・師事するところから始まり、ラ・モンテ・ヤング、フィリップ・グラスらともコラボしてきたリース・チャタムは、76年のラモーンズのギグで、生まれて初めてロック・コンサートを体験。その、クラシックやアカデミアからは想像しがたいミニマルな構成とシンプリシティ、エネルギーに感銘を受け、「Guitar Trio」を書くに至った・・・というのは、サーストン・ムーア&バイロン・コーリーの素敵な共著本「No Wave」にも出てくる話ではあるのだけど、当人の口からじかに聞くのは、やはり楽しい。また、まだ賃貸料も安く、若いアーティストでも広いロフト(=創作スペース)を借りることが可能だった当時のニューヨーク・ダウンタウン状況と、別ジャンルのアーティストが互いに助け合い、作品を発表/観賞し合い、イベントやライヴを企画していったコミュナルな空気も「生き証人」の語り口からヴィヴィッドに伝わってきた。
中でもいちばん面白かったのが、ミニマリズム、あるいはセリアリズムの現代的な解釈の好例として、リース・チャタムがスリープの「Dopesmoker」、そしてSUNN O)))をレコメンしていた点。クラシック音楽、あるいはいわゆる20世紀音楽は自分にとってはまだまだ未開の領域=航海図のないまま手探りな状態。そういう自分にも「ああ!」と分かるヒントを与えてもらうと、励みになるわけです。

Star&Shadow Cinemaに会場を移し、最終日のライヴ。連日の寝不足と飲酒がたたって夕方にはグロッキー、パブでぐうぐう居眠りするほど不甲斐なかったのだが、復調したところでHiss Golden Messengerを観る。アパラチアン・フォークをベースにしたソロ・シンガーで、ティム・ハーディンやクリス・クリストファーソンを思わせるオールド・スクールなメロディの簡素かつスピリチュアルな美で聴かせつつ、見た目若いのに(たぶん20代後半)アコギのプレイといいヴォーカルの表現力といい、胸にぐっと迫ってきて、アメリカからたまに登場する「完成した」シンガー・ソングライターに、久々に出会った感じ。ライヴの後、速攻で彼のアルバムをマーチャン・エリアで購入と相成った。

偏見かもしれないけども、アコギ1本のSSWは山ほどいるのに、今のイギリスからこういう説得力を備えた若いシンガーって、なかなか出てこない。トレンドやマーケティングに支配されてるからなのかなぁ? 基本的には期待してるんですけどね。

続いてのJessica Rylanは、スルーして後悔。ビート・ボックスやループを使ったひとりパフォーマンスはポップさとアヴァンな才気が入り混じるご機嫌な内容だったらしく、観た知人が全員口を揃えて「良かった!」と評していました。ふにゅ~ん。しかし気を取り直して、お次はいよいよ今フェスのスペシャル・サプライズ=BOC。(アラン・)ビショップ、(ビル・)オーカット、(クリス・)コルサノの3者の頭文字をとった、いわゆる「スーパー・セッション」であります。
アラン・ビショップ(ベース)もビル・オーカットもアコースティックではなくエレクトリックに持ち替え、ステージぎりぎりまで詰め寄った観客をのけぞらせんばかりの勢いで、ねじまがった爆音ジャンク・ロックをブチかまし始める。誰ともなくリードになるリフやコード、ポイントになる旋律を繰り返し始め、そこにビートや他のリフが混じってひとつのジャムが展開・成長していくのだが、フリー・スタイルはお手の物の猛者な3人だけに、緊張感といい押し/引きのバランスといいビルド・アップといい、マジ最高!
コルサノちゃんは興奮で頬を紅潮させての熱演だし、ビル・オーカットもビッグなアクションで弾きまくり。アラン・ビショップも笑顔を浮かべていて、近くに立っていた観客から手渡されたビールを口に含み、ブハーッとオーディエンスの頭上に吹きかける(たぶん、機嫌がいい証拠だろう)。バキバキのハードコア・パンク、ツェッペリン的なブルーズ味のヘヴィ・ロック、そして遂にはコルトレーンの「Ascention」を思わせるコズミックに乱反射するノイズ・ジャムへなだれこんでいき、握手を交わす3者に向け、満場一致の大喝采が巻き起こった。昨日のリース・チャタムにも匹敵する、ブリリアントなショウだった。

その感動の勢いに勇気付けられ(?)、ライヴ後にマーチャン卓に陣取っていたアラン・ビショップにようやく接近。目的は大好きなサン・シティ・ガールズの「Funeral Mariachi」をアナログ(こっちのレコード店での販売価格よりも遥かに良心的な値段でした)で買うことだったのだけど、熱心なファンとの会話が途切れたところでショウを楽しみました!と話しかけたところ、笑顔が返ってきた。一見おっかなそうな人は、実際はやさしい人だよ、とのまさに知人の助言どおり。BOCのショウについて少し話したのだが、事前に打ち合わせ無しの完全にスポンティニアスなインプロだったとのことで、アラン・ビショップも楽しんだそう。ぜひ、この3人でまた顔を合わせて一緒にプレイしてくださいねと伝え、レコードを買ってその場を後にした。

オーラスは、ベルリンを拠点に活動するヒプナゴギック・ポップの旗手:Hype Williams。ヒップホップ、エレクトロニカ、ダブ、ミニマル・・・と音楽性に様々な側面があり、色んなレーベルを通じての限定プレスやホワイト・レーベルのリリースも多い(「Untitled」というタイトルのアルバムもあり)。いわゆる音楽ユニットというより実験的なアート・プロジェクトの匂いも強いし、メンバーである男女ふたりの正体にも諸説あって、そのミステリアスな存在も「催眠/入眠ポップ」のイメージを増幅しているかもしれない。
ステージ向かって左端の奥、ラップトップや機材の並んだテーブルにディーン・ブラントが陣取り、右端にキーボード/ヴォーカルのインガ・コープランド。彼女はすごく小柄で、90年代調のヒップホップ・ルックなのがとてもキュートだ。広く開いた両者の間のスペースには背景として白いスクリーンが下ろされていて、何か映像を流すのか・・・?と思いきや、ド頭からものすごいワット数の白光ストロボがフラッシュ、エレクトロニック・ノイズと共に容赦なく降ってきて、まともに目を上げていられない(発作系の持病がある方は、このパフォーマンスは避けたほうが無難かと)。
ディーンがビートと音の壁紙を敷き、その上にキーボードのリフ、そしてハンド・マイクのチャントが流れていく。初期スロッビング・グリッスルのストイックさに、ダブステップのダイナミクスが混じったというか。ストロボの効果でパフォーマーふたりの姿は奇妙にズレたコマ落としの残像として映り、スローなテンポと骨に響くグルーヴ、目をつぶると網膜に広がるサイケなパターンとあいまって、かなり幽玄でトリッピーである。
が、1曲目が15分近く続いたところで突如停電で中断、ディーンが「エンジニア!」と苛立ったシャウトを上げる。あれだけのライトを使い、しかも機材はむっちゃタコ足配線。たまりかねたフューズが飛んだのかもしれない。スタッフが必死に状況回復を試みるものの、こういう別世界現出型パフォーマンスで現実が割り込んでくるとアーティストとしてはやりにくいのだろう、なんとハイプ・ウィリアムスの2名はステージから去ってしまい、客電まで灯った。こ、これで終わり?いくら機材トラブルで中断したからって、これは短すぎでしょ??と、オーディエンスも呆然としている。

彼らがレコードでやっていることと生パフォーマンスが美学面できっちり結びついているのを目撃できて良かったし、光と音に吸い込まれるあの感覚は抜群だったので、このまま終わってもいいか・・・とも感じた。が、オーディエンスの多く、そしてフェスにとってもあのブツ切れたエンディングが不満の残るものなのは間違いないし、主催者側も「せめてもう1曲」とでも交渉したのか? 唐突に両者がステージに帰還し演奏とストロボ再開。
表情は硬かったし、演奏中もディーンはPAスタッフにあれこれ指示を出し続け、最後の方ではお手上げのジェスチャーを見せたり、機材トラブルは全解消していなかったようだった。しかし、ピアニカのひなびた音色がリードするイントロからズゴーンとキック・インしたディープなダブ、そしてアブストラクトなヒップホップ・ビートによるマトリックスは、「2001年」あるいは「ニューロマンサー」第4章のイメージが浮かぶ、捻じ曲がった時空の美があった。

ギャラリー・スタイルのミニマル・エレクトロニカからフォーク、ロック、ノイズ、ヘヴィ・ロックと、ジャンルもスタイルも多岐にわたったフェスだったが、コマーシャリズムや既成の枠組みにとらわれないフリー・ミュージックの宴という点では一本ばっちり筋が通っていたと思う。すごく濃く、楽しかった。イベントとしての規模は小さいし、地方フェスならではの苦労も多いとは思うけど、この第1回Tuskの成功が来年に繋がるのを祈ると同時に、新たなアイデアの種子がニューキャッスルの音楽コミュニティに蒔かれたことを願っている。

広告

Mariko Sakamoto について

Hi.My name is Mariko.Welcome to my blog,thanks for reading.坂本麻里子と言います。ブログを読んでくれてありがとう。
カテゴリー: music タグ: , , パーマリンク