Sherlock-Series2 (BBC)

ほぼ何もせずダラダラしたクリスマス〜年明けでしたが(例年通り、とも言う)、そんな寝ぼけた頭に期待&興奮の電流をガツンと走らせてくれたのが元旦からスタートしたBBC「Sherlock」シリーズ2(計3話)!今さら説明するまでもない&過去の映画化/テレビ•ドラマ化は数知れず(最近だとガイ•リッチーとロバート•ダウニー•ジュニア版もありますね)なコナン•ドイルの探偵小説の古典を、舞台を現代のロンドンに移し替えてハイパーにモダナイズした人気ドラマであります。

日本でもシリーズ1はNHKで昨年放映されたそうですが、その第1弾が最終的には英アカデミー(BAFTA)で最優秀テレビ•ドラマ部門を受賞するなど好評を博したこともあり、テレビ/ラジオ番組表雑誌「Radio Times」表紙を飾るなど、今回は前宣伝も打ち出しもかなり派手だった。
さすがにクリスマス•プレミアの特等席を射止めるには至らなかったけど、1月1日から3週連続でゴールデン枠放映決定というのは期待感と評判の高さの現れだろう。イギリスはもちろんアメリカ他英語圏国でも話題になっていて、この第2シリーズは1話ごとにネット•メディアやブログの各所にレヴューが飛び交うプチ•フィーヴァーぶり。シリーズ2最終話放映の翌朝、軽くネットをさらっただけでも関連ニュース/トピックが既に300本近くアップされていて、シャーロック•ラヴはますます募っているようです。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::!!!!!! SPOILER ALERT !!!!!!!:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

と、ここまで書いたところで「ネタバレ警報」発しておきま〜す。いずれ日本でも放映されるでしょうし、それまでドキドキワクワクを完全にキープしておきたい/我慢強く待ちたいとお考えの方は――そうやって「寝かせて待つ」だけの価値のあるシリーズであることは保証します――ここから先は禁区かと。読むかどうかはAt your own riskということで、ご了承ください。楽しみを台無しにされたくないという向きには「第1シリーズを上回る内容:おみごとモファット&ゲイティス」という感想結論だけで留めておきます。

ただ、自分自身は映画やドラマの「ネタバレ」にそれほど過敏ではなかったりする。先回りして筋の展開をチェックしたり(特にテレビ•ドラマのDVDボックス•セットとか)、事前レヴューを読むのは好きだったりする。知人には「なんで先に結末を知りたがるの? バカじゃない?!」と不思議がられるんだけど、面白い何かに出くわすと基本的に待ちきれないタイプの人間みたいですな。今の時代に市井のノイズ〜人々の声(トウィートやブログのコメントといったレベルも含む)を完全にシャットアウトするのは楽ではないし、どこかで偶然筋書きを知ってしまう‥‥なんてことはままある。
それにレヴューというのはしょせん「書き言葉」であって、その文章を書いた人間の感性=すなわちフィルター次第で表現や解釈は違ってもくる。そもそも言葉にしたって、ひとつの単語=概念が読み手に与えるイメージや連想は、完全に「同じ」ってことはありえない。普遍的な単語、たとえば「青」をとっても、人々がとっさに脳内にイメージする「青」のトーンはコバルト•ブルーから群青まで、十人十色なわけで。

言い換えれば、自分以外の人間が書いた/感じた何かを鵜吞みにするのは無理、ということ。そう考えれば、たとえドラマや映画のあらすじを前もって知ったからといって「楽しみが台無しにされた、バカヤロー」と怒り狂う必要もないんじゃないかと思っている‥…でもまあ、これまたたぶん強引な持論であって、誰もが賛同する考え方ではないだろう。故に警報を発するわけです(ネットのマナーって言うのでしょうかね)。
ただ、実際に観てみないと映像や演出、監督/脚本家の意図を自分なりに咀嚼•解釈することはできないだろうし、白とも黒ともつかない微妙な場面やキャラのインタラクションをどう捉えるかも、受け手の読み方は案外違うもの。見返すことで台詞やニュアンス他の細部のひねりやダブル•ミーニングに「ああ!」と気づかされることだってあるわけで。
その意味で、「Sherlock」というシリーズは①古典的なドラマの魅力&力学(演技、脚本、役者力)をベースに据えつつ、②ネット世代の重箱の隅をつつきたがる感覚やゲーム族にも対応できる細かいトラップをたっぷり配置と、とても周到に考え抜かれ、制作された実にモダンなTVドラマでもある。それにまあ、自分がブログで何か喚いたくらいで面白さが半減するような、濃い鑑賞に耐えないようなちゃちな作品だったら、そもそも取り上げないっすよ。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

さてさて。今回のシャーロック3話のベースになったのは、それぞれ「ボヘミアの醜聞」(「A Scandal in Belgravia」)、「バスカヴィル家の犬」(「The Hounds of Baskerville」)、そして「最後の事件」(「The Reichenbach Fall」)。いずれも知名度の高い大関〜横綱級のホームズ譚ばかりで、原作のエッセンスを残しつついかに「現代」に翻案し直すか?という点だけでも興味をそそられる。
シャーロッキアンではないので、細かい蘊蓄•分析(このシリーズには、メインの原作以外にも色んなホームズ•ネタがちりばめられていたりする)はそちらにお任せする。が、それぞれのストーリーのアイコニックな要素、すなわち「ボヘミア」の女傑アイリーン•アドラー、「バスカヴィル」の魔犬の謎&イギリスの田舎の不気味さ、「最後の事件」のホームズ対モリアーティの図式といった大骨子こそ守っているものの、ストーリーの大胆な飛躍や思い切った変奏、現代風の翻案やひねりがこれでもかと盛り込まれていて今回も実に痛快。
シリーズの共同制作者/プロデューサーであり脚本も手がけ、シャーロックの兄:マイクロフトを演じる俳優/作家マーク•ゲイティスは大のホームズ狂だそうで、彼のマニアならではの造詣の深さとディテールへのこだわり、過去のホームズ映画&テレビの知識〜ファン達の諸説への目配せなど、愛情がひしひし伝わってくる。

ご存知の方も多いと思うが、そのマーク•ゲイティスともうひとりの原案&制作者:スティーヴン•モファット(この人もホームズの熱狂的ファン)は、共にBBCの人気カルト•ドラマ「Dr. Who」でも活躍中のクリエイター。「Dr. Who」は1963年からスタートしたSFシリーズで、オタッキーなイギリス人達に支持されてきた。UKポップ•ミュージック界ともまんざら無縁ではなくて、たとえばマンサンのポール•ドレイパーがファンを自認したり、KLFことタイム•ローズがテーマ音楽をパロッたりもしております。

あと、これも忘れちゃいけませんね。

その「Dr. Who」が、16年ぶりにぐっと若返ったドクターとギャル系アシスタントとを従えて大々的にお色直しを果たし、お茶の間に戻って来たのは2005年。これだけギャップの空いたTVリメイク〜ブランド復活もなかなか多くないと思うが、マニア内だけにとどまらないワイドなアピールの原動力になったのが、10代目ドクターを演じたデイヴィッド•テナントのチャームだろう(その前に9代目:クリストファー•エクルストンも一瞬存在しますが、生真面目すぎて演技を見ているのが辛くなる俳優なのであまり好みではありません)。
このスコットランド人俳優は過去のドクター達に較べて遥かに若く線が細く、一般的に考えても今風の甘い美男(でも、この人は自他共に認めるフー•マニアだそうで、その意味でもまさに「当たり役」)。コンバースで走り回るADHD気味のギークな姿には「コドモ男」の無邪気さがいっぱいで、「Dr. Who」にはさほど興味のない自分ですら――特撮がチャチで興ざめしちゃうのと、子供ファン層への配慮か、ストーリーや描写がお手柔らかなのがネック――テナント観たさの一心でチャンネルを合わせたもんです。

で、「Sherlock」のスタッフ達がやってるのも、根本のところでは「Dr. Who」の再興と同じ。そのエッセンスが何かと言えば、①過去のアイデア/フォーマットを現代社会に巧妙に移し替えること、そして②主役に(おたく男を「かっこいい」と納得させ、それと同時に女性にも同じくらいアピールするハンサムで演技の上手い)カリスマ役者を持ってくること。いまや音楽にしてもそうだと思うけど、360°マーケティング、すなわちアクセス•ポイント/切り口トピックが多ければ多いほどマス•アピールも強まるわけで、その意味で②における逸材ベネディクト•カンバーバッチの抜擢は、そもそもカルトな対象に新たなファンを開拓する=門戸を広げるという意味で効果大だったと思う。

ものすご〜く大雑把な意見と思われるのは承知な上で書くと、SFやアクション、ホラーといったジャンルはロック•ミュージックに少し似ていて、伝統的に男性が(作り手/受け手の双方で)大多数を占めている。自分はそうしたジャンルが好きなので矛盾した話かもしれないが、たとえば映画デートで「〝エクスペンダブルズ〟観ようよ!」と提案する女性はおそらくあまり多くない、というのが現実ではないかと(愛好家同士のカップルは別ですが)。
ともあれ、今のようなエンタメ受難な時代、昔ながらの男ロジックだけに偏った劇作だと現代女性からは総スカンを食う訳で、それは視聴率あるいは興行というシビアな観点からすれば多大なロス。頭の切れる作り手なら、そこで「じゃあ、(伝統的に男が好きな)SF、冒険、アクションといったジャンルの魅力をそのままに、いかに女性客を引き込むか?」を考えるはず。モダナイズされた「Dr. Who」そして「Sherlock」の成功の要因は、もちろん他にも色々あるとはいえ、女性が抵抗なく番組をエンジョイできる環境を作ったことじゃないだろうか。

「Sherlock」シリーズ1のアングルが「シャーロックが21世紀のロンドンに存在したら、彼はどんなキャラで、どんな事件にぶつかり、どんな捜査法で解決するか?」のアップデートの面白さとスリル――パイプはニコチン•パッチに、ベイカー街遊撃隊はホームレスの地下組織に移し替えられ、馬車はロンドン•タクシーになり、衣装ももちろんトラッド&スマート。推理には法医学、ネットや携帯などモダン•テクノロジーが大活躍――に依っていたとしたら、シリーズ2の力点はシャーロックの人間性=内面探求にシフト。その意味でも、第1話「A Scandal in Belgravia」でシャーロックの(筋にはさして関係ない)ヌード•シーンが登場するのは、カンバーバッチ好きへのファン•サービスであると同時に、シリーズの「裸のシャーロック」な方向性を示唆する鍵でもあった気がする。

現代版シャーロックの警察をあっさり出し抜く洞察と頭脳明晰ぶり〜無意識の尊大さ&辛辣さ、エキセントリックさから生じる笑い、鮮やかな推理描写は健在なのでご安心あれ。しかし、連続殺人事件を追う構成で謎解きを畳み掛けた前シリーズに較べると、今回は基本的にひとつのエピソードを通じてひとつの大きな謎(プチ事件も絡むけど)に迫るスタイルをとっている。「スーパーヒーローさながらに白星続きの天才」というシャーロックのアンタッチャブルでクールな表層を維持することも可能だったわけだが、そこからストーリーを広げ、主要キャラ達との絡みを膨らませることで、シリーズ2には新たな魅力の層が付け加わっている。

んなわけでシリーズ2の各エピソードの見所は自分的には役者達の演技と息の合い方だったし、カンバーバッチとマーティン•フリーマンのあうんの呼吸が素晴らしいのはもちろん(レストラード役のルパート•グレイヴスも今シリーズでやっと活きてきました。「V For Vendetta」といい、この人って刑事役が似合いますね)、「Belgravia」、「Reichenbach」の2本はその意味で甲乙つけがたいクオリティだと思った。前者は、スキャンダル写真をネタに英政府をひれ伏させるアイリーン•アドラーと、シャーロックの頭脳戦が主筋。
どんな犯罪も看破し、知性と機知では無敵を自負するシャーロックの傲慢をくじく、何枚か上手の華麗なるゲーム•プレイヤーが美女アイリーン•アドラーなのだが、彼女をSMの女王様〜文字通りのFemme Fataleに仕立てたことでセクシー度はおのずとアップ。シャーロックが唯一認める「女性」であり、ゆえに彼にとってもっとも恋愛に近いやりとり――といっても「Brainy is the new sexy(これからは頭のいいのがセクシー)」とのたまうふたりであり、シャーロックは恋愛を始めとする情動を「邪魔だ」と軽蔑している節すらあるので、どこまでも頭脳/心理の駆け引きに留まるわけですが――が展開される筋書きにロマンチックで色っぽい彩りを添えている。
そこに国際的なコンスピラシー•セオリーも絡みながら話は進んでいくんだけど、たとえばシャーロックとアイリーンにそれぞれヌード•シーンが与えられるなど、両者がどこまでも対等(=シャーロックは秘密を打ち破るものの、最終的に両者は貸し借りなしの関係になる)であることをシンメトリカルに描き出したバランスのいい脚本は、優雅な振り付けのバレエ、あるいは完成されたクラシック音楽を聴くような満足感を与えてくれる。

「Belgravia」でシャーロックの内面に波風を立てた(と同時に、いわば強力な「愛人」の登場にやきもきしつつも、シャーロックへの思いやりを忘れない良妻ぶりをワトソンから引き出した)アイリーンに続き、「Reichenbach」では最大のライバル:モリアーティが復活。タイトルの「ライヘンバッハの滝」は、「最後の事件(The Final Problem)」でホームズとモリアーティが雌雄を決する舞台となるスイスの滝であり、シャーロックをマジな破滅に追い込むべく、モリアーティが仕掛ける周到な罠のインパクトは、かなりでかい。
モリアーティ役のアンドリュー•スコットは、ベネディクト•カンバーバッチ&マーティン•フリーマンの名コンビを筆頭にキャスティングを絶賛されている本シリーズの中で、もっとも賛否両論分かれる俳優じゃないかと思う。若くて童顔、声も高く、演技もいちいち芝居がかっていて(アイルランド訛りもかなり独特)、原作の老獪な怪紳士〜怪物的な犯罪王という重々しいイメージはゼロ。鷲鼻も鹿撃ち帽もうっちゃった(とはいえ、今シリーズで鹿打ち帽はナイスなコミック•リリーフを提供してますが)「ニュー•シャーロック」において、もっとも思い切ったキャラクターの翻案/トラディショナルなイメージから激しく飛躍したのがモリアーティ教授ということになる。
ゆえに、前シリーズでモリアーティがシャーロック&ワトソンの前に姿を現した時には、正直「えー?」と拍子抜けしたもの。若すぎ、軽すぎ、キャンプすぎ。しかし、前エピソードのクリフハンガー=「これからどうなるるるるぅ?」な手に汗握らされたままの結末からきっちり再開するシリーズ2第1話(たまに緊迫した場面をフラッシュバックで片付けるドラマもあるけど、それをやらなかったのは偉い)のオープニングは、モリアーティのねじれた性格/サイコパスぶりを短いシークエンス(ビー•ジーズの携帯着信音がポイント)でみごとに描いていて、やっとこのキャスティングに納得がいき始めた。

そんなモリアーティのサイコならではのシャーロック壊滅へのオブセッション〜真綿で首を絞める型のビルド•アップ、そして犯罪も殺人もゲームを構成するコマとしか見ていない「プレイヤー」ぶりは、第3話の冒頭=ロンドン塔他の警備突破シークエンスにもよく出ている。その歌劇を観るようなリズムは、じわじわ悲劇へと転じていくストーリーの、いわば優雅な序曲。見た目も年齢も肉体的にもまったく違う設定なので、アンドリュー•スコットは過去のモリアーティ像はまったく参考にしなかったと語っているが、ヒース•レジャーの演じたジョーカー(こちらも「若すぎでは?」と当初は疑問視されたキャスティングでしたけど)が近いかな。ストーリーそのものも、フランク•ミラーの「Dark Knight Returns」と多少オーバーラップするところがあるし。

自分自身では手を下さない/汚さないタイプのモリアーティが、メディア操作と大衆心理を利用してシャーロックを追いつめていくあたりは今の時代とても説得力がある。山場となる両者の対決場面も、いずれも2俳優の熱演が光る出来。しかし、ストーリーを引っ張る「謎(モリアーティの仕掛けた秘密)」そのものは案外あっさり解明するので「ん〜??」と思っていたら、最大の謎は他にあった――このエピソード自体が、大きな「謎解き」を観る側に提示しているんですね。う〜ん、憎いっ! このエピソード放映終了の数日後には「Sherlock」第3シリーズ制作決定も正式にアナウンスされており、「早ければ今年中」とも言われるS3放映まで、ファン達は様々な持論を戦わせることになりそうです。

先述したように、このシリーズは「思考機械」とも称されるシャーロックの強化ガラスのごとき表層に穴を穿ち、人間としての内面を描くのに成功している。アイリーン•アドラーにもてあそばれ、「Baskerville」では自己不信に襲われ、モリアーティに裏をかかれっぱなしの「Reichenbach」‥‥と、実はこの3話を通じてシャーロックは揺れている。スーパーヒーローではないのだ。そうした手強い「敵」達とのやりとりを派手に繰り広げつつ、彼を影で支えている友人達(ワトソン、ハドソン夫人、レストラード、モリー、マイクロフト)の重要性と存在感、人間関係とを回を重ねるごとにさりげなくクローズ•アップしていく、シリーズ全体のペース配分も素晴らしいと思う。
その意味で、マーティン•フリーマンの最終話での演技は秀逸だった。いい俳優ですなぁ。カンバーバッチの尊顔を拝しているだけでもじゅうぶん幸せな自分ではあるし、彼のかっこよさは前シリーズ以上にアピールされてもいるけれど、いちばん美味しいところはワトソンが持っていった感じ。このシリーズの大きな魅力であるシャーロック&ワトソンのでこぼこな、しかしパーフェクトな関係=ブローマンス(ノンケな男同士の友情。現実の例としては、ブラッド•ピットとジョージ•クルーニーとか)が、やっぱり最終的にはポイントなのだろう。

その意味で、「Baskerville」は本シリーズで自分にとってはもっとも「いまひとつ」なエピソードだった――といってもアベレージ値が高いので、他のドラマに較べれば全然「優良」の部類ですが。
全体的に監督&演出がイマイチだったのもあるけど、最大の理由は「Baskerville」の翻案が突飛なコンスピラシー話を利用していた点。個人的な好き嫌いだとは思うけど、ややSFが入ってきて、クリエイター達の「Dr. Who」趣味が強く出すぎかな?と。これはまあ、このシリーズはたとえば変装や特撮といった「トリック」にほとんど頼らない科学/実証主義なアプローチをとっているため、バスカヴィルの猟犬というある種霊的でフォークロアな存在や、舞台となるダートムーアの先史的な風土など、「説明のつかない何か」との食い合わせが悪かったからなのかもしれない。
いわば「モダン」と「オールド」の食い合わせの悪さというわけだが、それはこのエピソードのゲイねたにも感じた。シャーロック&ワトソンのブローマンスは多くの人間に「ふたりはゲイ•カップルだ」と誤解されていて、その気はまったくないワトソンが必死に打ち消す(シャーロックはハナからロマンスを意に介していないので、周囲の誤解を感知すらしていない)くだりはシリーズの随所でギャグの種になってはいる。しかし「Baskerville」ではその「いじり」がやや度を超す場面があって、「リベラルなロンドンが舞台ならまだしも、イギリスの保守的な田舎でこれはないだろう‥…」と感じてしまう瞬間があり、そのディテールにちょっとギクシャクしちゃったわけです。
シャーロックの最後の台詞も含め、このエピソードはユーモアがポイントだとは思う。他の2話とのバランスという意味でも、軽さを挟むのはまあ納得。ただ、3話の中でもっともおっかないアクション•サスペンスになるポテンシャルのあったストーリーなだけに、浮きがちなジョークをちりばめるよりもそっちにじっくり重点を置いても良かった気がするのだ。まあ、そもそも重要なキャラであるヘンリー役の俳優ラッセル•トヴィが、BBCの他のドラマ(「Being Human」)でオオカミ男:ジョージ役を演じていたってのが、いちばんの冗談でもあるかもしれないけど。

ともあれ、これからしばらく楽しみがなくなってしまい、心にぽっかり「シャーロック」という名の穴があいた気分でもある(大げさか?)‥‥。「War Horse」や「The Hobbit」を追ってもこの欠乏感が満たされることはないだろうし、辛抱強く第3シリーズを待つしかないようです。それにまあ、1話につき90分と映画とさして変わらないヴォリュームなわけで、脚本も含めじっくり練ってもらい、過去2シリーズに恥じないクオリティ•ドラマを作り出してくれることを何よりも期待しようと思う。

広告

Mariko Sakamoto について

Hi.My name is Mariko.Welcome to my blog,thanks for reading.坂本麻里子と言います。ブログを読んでくれてありがとう。
カテゴリー: TV タグ: , , パーマリンク