This Is England ’88/The Ballad of Mott The Hoople/Talking Heads Chronology

去年の暮れが比較的雨が多く過ごしやすい暖冬だったせいか、2012年に入って「寒」がブイーンとキック•インしてきたロンドン。基本的にいちばん寒いのは1〜2月な国なので驚きではないし、澄んだ冬の大気は好きではある。が、ここ数日は夜出かけても、駅も大通りも恐ろしく人通りが少なくてびっくり。みなさん、家に閉じこもり気味みたいですね。当方も久々に暖房オールデイ全開状態だったりします。乾燥が苦手でセントラル•ヒーティングは極力避けてるんだけど、気温が氷点下&雪まで降っちゃ厳しいっす。
そんな消極的&レイジーなおこもり状態のよき友がDVD鑑賞やテレビで、今回は暮れから年始にかけて観た①This Is England 88、②The Ballad of Mott The Hoople、そして③Talking Heads Chronologyの3題について。

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「This is England 88」は、このブログ他でも過去に取り上げたことのあるシェーン•メドウズ監督(「Dead Man’s Shoes」、「Somers Town」他)原案によるTVドラマ•シリーズの最新作になる。スキンズの青春群像を中心に、80年代イギリスの社会•世相を描いたシェーン•メドウズの自伝的要素の強い映画「This Is England」(2006年)が第1弾で、その好評ぶり&ファンからのラヴ•コール――主役のショーン(=トーマス•タルグース)を筆頭に、スキンヘッズ集団のアンサンブル•キャストが素晴らしい――に応える形で、後日談としてまずは「TIE86」が2010年に発表された。
「TIE88」はその続編にあたり、英お茶の間でのオン•エアは昨年のクリスマス•シーズンだった。続く「TIE90」の制作&発表は今年を予定している…と既に発表されているが、自らの青春期という多感で波乱に満ちたピリオドと時代背景、体験に焦点を絞ってドラマ化したシリーズだけに、「大人時代」「中年時代」といった具合に引き延ばしてえんえん続けるつもりはないらしく、シェーン•メドウズ当人は「TIE90」がこのシリーズのラストだと公言してもいる。

            !!!!!!!SPOILER ALERT!!!!!!!!!
Enter at your own risk…というわけで、ストーリーを知りたくない方は、以下は飛ばしてくださいませ

今回もおおむね好評を博した本シリーズだけど、中には「憂鬱な気分にさせられるドラマ(勘弁してくれよ〜)」という批判的な評もあった。なるほど、メイン•モチーフには階級社会、マネー主義と個人の抑圧、シングル•マザーの苦しみといった普遍的で社会派な視点が多く含まれており(イコール、そのエッセンスは20年以上経った現在とシンクロしている、とも言える)、イギリスにおける伝統的な「クリスマスTV」(=クイズ、有名人を並べたトーク•ショウ、ライトなエンタメ、シットコムのクリスマス•エピソード他、ファミリーのお祭り気分を盛り上げる気楽に楽しめる内容)からはほど遠い。
とはいえ、映画「TIE」も「TIE86」もエンディングはとことん重い悲劇だったわけで、その後日談がノー•プロブレム!万事順調!から始まるはずもない。シェーン•メドウズ個人の世界観が、根底は荒涼としているってのもあるかもしれない。けど、このシリーズの基本はペシミズム&リアリズムにあると思うし、そんな灰色な背景だからこそ、蛍の燐光のようにぽっと灯るユーモアのスポットが活きてもくる。その、いわばケン•ローチあるいはマイク•リー型とも言える作劇/思想を「古くさい」「社会派ドラマのステレオタイプ」とクサすのは簡単だろうが、こぎれいに整った都会でスマートに生きてる人間がすべてではない複雑な英現代社会において、そういう物言いは、時に勝ち組側のナイーヴな高慢とも映るだろう。

「TIE88」において、悲愴•苦悩•葛藤のすべてを負わされるのが、ヴィッキー•マクルーア演じるロルになる。前シリーズ最終話で地獄の苦しみを味わった彼女だが、焼かれた後にも生き続ける限り、そこには火傷の長く、後を引く痛みが待ち構えている…とでもいうのだろうか。自身のアクションの結果(=妊娠&出産)、そして自身ではコントロールできない外的要因〜トラウマから発したダメージの双方を、たったひとりで担う彼女の姿が全話を通じて描かれる。
その意味で、「TIE88」の主役はロルだった、と言えると思う。もちろん、ショーンの成長ぶり〜少年から青年へ移行する通過儀礼も、随所に泣き笑いのミニ地雷を仕掛けてはいる。が、ここでのショーンは演劇学校に通い始めていて、それまで彼がつるんでいた「はみ出し者の集団/ギャング達」とは異なる世界に接したことで、内面も徐々に変化。なじみのGFであるスメル(ロザムンド•ハンソン)と早くも倦怠期カップル(笑)な関係に陥り、そのドン詰まりな状況に収まりきれないショーンは演劇学校で出会ったミドル•クラスのアート系少女との浮気に走ることになる。

シェーン•メドウズ本人の分身とも言えるだけに、トーマス•タルグースを通じて忌憚なく描かれる、ホルモンのアップダウンに左右されっぱなしのある時期の男の子の生態は、みっともない&情けない。監督との間に信頼関係がなければ、普通の役者だったらあまり歓迎しない役回りだろう。けど、そうした若い男のリアリティを低レベルなお色気ギャグに転化する、あるいはクリシェに含めてごまかすこともなくありていに提示するところは好感が持てた。
そもそも「TIE88」の実質的な主役がショーンではなかったのも、トーマス•タルグースが実年齢でもうじき20歳という半端な時期にさしかかっていたからでは?とも。この人は童顔なんでまだ見た目10代でも通じるとはいえ、子供のかわいらしさとも、あるいは成年男性の定まった顔にも達していない、今の時点での彼のどっちつかずな表情は絵になりにくくもある。その、肉体的にも精神的にも迷いがあってもやもやしている感じを、無理に取り繕うことなく描くドラマあるいは映画って、ありそうでなかなかないと思うのだ。
にしても、スメルみたいな根が素直でいい子をああいう形で裏切るショーンを観ていて、「男って奴はまったく…」と思わずにいられなかった。同性として共感するのはもちろんだけど、スメル役のロザムンド•ハンソンはなかなか稀なバイ•プレイヤー女優&天然のコメディエンヌで、このシリーズを追うごとに自分的なポイントが高まっているのも大きいだろう。今後、そのユニークな風貌と独特なシラケ声が、テレビだけではなく映画などにも伸びていくといいんだけどな。リッキー•ジャーヴェイスの「Extras」に続くシットコム「Life’s Too Short」でも彼女の個性が光っていたので、そのクリップを以下に。

んなわけでショーンは今回ほぼコミック•リリーフに終始し、話の焦点はロルの内面、そして彼女のBFのウッディに絞られている。2歳の娘をひとりで育てている彼女の状況は、まずもってタフだ。娘は混血児で、前シリーズでのミルキーとの一時的な関係から生まれた子供であるのは明らか。それがもとでロルとウッディは破局し、ウッディとミルキーの友情にも亀裂が走ったことで、ウッディはギャング達との交流から身を引いている。ミルキーは失踪。
定職もなく、政府の補助金や失業手当で食いつないでいるとおぼしきロルは、わびしいカウンシル•フラット(公団住宅)に、よちよち歩きの幼児と共にさながら「閉じ込められた」状態。まだおしゃべりもできない子供のいたずらやむずかりに対して苛立ち、と同時に我が子に多くを与えられない自分自身に自己嫌悪する――ストーリーの大きなポイントではないにせよ、その描写からは今でも割とタブーなマタニティ•ブルー、あるいは自分の子供に対して自動的に愛情/愛着を感じられない母親というモチーフ(いわゆる「母親神話」「母性本能」のアンチテーゼと言えるが、これは最近だと英映画「We Need To Talk About Kevin」でも突っ込まれていた)が浮かんでもくる。

出産できる身体機能を持っているからといって、イコールあらゆる女性が母親というメンタリティまで生まれつき備えている、というわけではないと思う。中には(父親になった男性が「お父さん」の役割を徐々に学び会得していくように)時間をかけて子供との絆を見出し育んでいく人もいるだろうし、そんな彼女達にとって「母親失格」なんて形容がもたらすネガティヴな社会的スティグマは、心理的な重圧に他ならない。それで育児や母親業がいっそう辛くなり、悪循環になるんじゃないだろうか。
もちろん虐待や子供の放任は断固反対、あってはならない。ただ、女性=母性という等式を全員にすべからく当てはめる「当然」の意識は、それはそれでゆがみのある考え方ではないか…と感じるのだ。これはまあ、子供を持たない人間の机上論なのかもしれませんけどね。
唯一の救いは、ロルとロルの母親との関係が変化したこと。前シリーズの悲劇の種を招き込んだ張本人としての罪悪感•慚愧の念がそうさせるのかもしれないけれど、祖母として孫の世話を引き受け、ロルをサポートしようとする彼女の姿に、もしかしたらこの人も若いシングル•マザーだった頃には娘達に距離を感じていて、その償いを今しようとしているのかも?と感じた。深読みしすぎかな〜。でも、親と子の見えない絆のすごさ(怖さ)って、知らず知らずのうちに過去が繰り返されることが多いって点にもあるだろう。

育児の疲れと先行きの不安に苛まれ、誰にも明かせない秘密=過去の罪という亡霊につきまとわれる苦しみとフラストレーションを内に抱えたロルは、どんどん消耗していく。クリスマスを目前にし、娘のためにプレゼントを手に帰還したミルキーすら、勝ち気な彼女はうっちゃってしまう。そんな彼女だから、ヤング•マザー向けの定期診断/育児アドバイス係の女性病院スタッフの気遣いにも、当初は「ひとりっきりで子供を世話する苦労は、乳母や夫からの助けを得られるあんた達には分からない」と突っ張って反発もする。
が、やがて行き場を失い弱り果てた子供のように「具合が悪いんです(自分の何かがおかしい)」とこの看護婦にぽつぽつと打ち明けるくだりは、本シリーズの白眉。笑われるかもしれないけど、観ててマジに泣いてしまった。

ロル役のヴィッキー•マクルーアは掃き溜めに鶴とでもいうのか、どんなにひどい状況に置かれ、いわゆる「汚れ役」を演じていても、持って生まれた気品が内側から照らすタイプの女優さんだと思う(その意味でも、顔立ちも含めてジュリー•クリスティーがだぶる)。
そのプレシャスな佇まいがあるからこそ、十字架を背負い、いばらの冠姿で引き回しされるキリストさながらの今シリーズにおけるロルの責め苦の連打も説得力がある。酷な言い方になるかもしれないけど、「こいつは簡単にくじけそうだ」と視聴者にあっさり看破されるような役者だったら、いじめや苦境をたえしのぶ姿にリアリティが伴わないですよね。

なんだか溝口健二映画めいた話になってきましたが、ロルが苦しむ一方で、彼女の元BFであるウッディも辛い立場に立たされている。無職のワル仲間達と縁を切り、町工場での出世街道に乗った彼は、これまた中流のお嬢さんと付き合っている。安定した生活、結婚、そして家庭人/真人間としての順応は前シリーズでもさりげなく示唆されていたが、反発を感じ、心の底では軽蔑しながらもその安寧から抜け出せない彼は、いよいよ袋小路に。
家族のために自らを偽り続けるのか、それとも…?この撮影の際、カメラが回っていない間もウッディ役のジョー•ギルガンはギャング達との交流を禁止されていたそうで、実生活でもマブダチな彼らから隔離された寂しさ•辛さ•苛立ちは、この複雑な役回りに更なる熱と奥行きを与えていたと思う。

主要キャラ達の心模様とタフな状況が描かれる中、ドラマはイヴ〜クリスマスの大団円に向かって進んでいく。シェーン•メドウズは「TIE88」を「キリスト降誕劇のようなもの」と評していたが、クリスマスという特別な日――イギリスにおいてのこの日は、離ればなれになっていた家族や友人達と再会する、フィジカルかつシンボリックな「帰郷」の時でもある――を契機に、再びキャラの糸が交錯していく。
ショーンが出演するお芝居に駆けつけるファミリー。久々にコンボと面会するロル。ミルキーの帰還をあたたかく迎えるギャング達。彼らと偶然出くわし、過去の絆の強さを思い知らされて男泣きするウッディ。最大の触媒としてロルの悲劇がもつれていたいくつもの糸をひとつに結びつける展開は、ドラマとしてのカタルシスに満ちている。

前作「TIE86」について、4話という半端なエピソード数、そして(スケジュールの都合とはいえ)シェーン•メドウズが全話監督しなかった点に若干の不満を覚えたものだけれど、今回は3エピソードで完結、全話をシェーン•メドウズが監督していて、プロダクションがタイトになったのは明らか。もうひとつ、前作で不満を感じた女性キャラの扱いについても、今回でロルをじっくり掘り下げてくれたことで(ヴィッキー•マクルーアの熱演も大きく貢献したとは思うが)納得がいった。
その一方で、クリスマスの神聖さ〜あるいは宗教的な「贖罪」のテーマを大きくフィーチャーした点については「ん?」とも感じた。それは自分が組織的な宗教全般に関して懐疑的な人間だからかもしれないけど、祈りや信仰が必ずしも現実における救済に至らないという点は、もうちょいあっさりした描写でも良かった気がする。ともあれ、「TIE86」でやや崩れた感のあったシリアスとギャグのバランスは今回で持ち直したし、キャラ達も新たな人生の局面を迎えている。次作「TIE90」において彼らがどんな運命をたどるのか、それを見守るのが今から楽しみだ(ちなみに「TIE88」のDVD化は延期されて、発売は現在3月を予定)。
「TIE90」はセカンド•サマー•オブ•ラヴやレイヴが時代背景になる…との前評判もあるので、サントラにはマンデーズ、ローゼズ、プライマルズあたりがフィーチャーされるのかな? ちなみに今回は、ザ•スミス曲がたっぷりフィーチャーされていてシェーン•メドウズの執念を感じもしたけど(「TIE」の時はカヴァーだったもんね)、ラストのフィオン•リーガンの曲がとても良かった。

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話はガラッと変わって、モット•ザ•フープルのロキュメンタリー:「The Ballad of Mott The Hoople」。70年代ブリティッシュ•ロック、そしてグラム•ロックの代表的なバンドのひとつとしてロック史に書き残される彼ら。そのユニークな存在感と音楽性、数奇な運命を時系列に沿ってたどる、若いファンには入門編として、また古くからのファンにも新たな発見がある、とても見応えのある内容になっている。

洋楽に目覚めたきっかけのひとつがボウイだったこともあり、モットの名前には割と早くから自覚的だったと思う。しかし、「すべての若き野郎ども」がいわゆる「ロック名盤ガイド」に載っているぐらいで自分のアンテナには「ボウイの周辺の人たち」という程度の認識だったし、(着る人間の容姿&体型を大いに選ぶ)長髪+ロンブーの時代がかったイメージも当時の自分にはちょっとトゥーマッチで、とりあえずベスト盤を聴くくらいに留まっていた。
その状況が変化したのは92 年頃。英音楽誌Selectのおまけミックス•テープ企画としてボビー•ギレスピーが選んだフェイヴァリットに含まれていた「Trudi’s Song」を聴くべく、同曲収録作「The Hoople」(74年)を購入した時。以降、少しずつモットへのパーソナルな愛情が育まれていった。
…とまあ、なんでこんな余計な昔語りをしているのかと言うと、この映画で「証言」インタヴューを受けているバンドの関係者〜ファンのひとりとして、ロジャー•テイラー、ミック•ジョーンズらと共に顔を並べているクリス•ニーズが面白かったから。DJ/リミキサーとして記憶に残っていたこの人だけど、音楽ジャーナリストとしても活躍していたという彼、そもそも音楽業界に足を踏み入れるきっかけになったのがモット•ザ•フープルのファンクラブ会長業(中学生くらいの年代で会報•運営に情熱を傾けていた:すごい!)。バンドへの愛情が発言の端々に感じられるのはもちろんのこと、後にプライマル•スクリームのショウでDJを担当〜バンドのバイオを執筆したこともある彼が、ボビーのモット開眼に一役買ったかも?と想像して、なんだか楽しくなったのだ。

映画のフォーマットはしごくまっとうな「年代記」+「メンバーと関係者の発言」+「アーカイヴ映像(プライヴェート映像も含む)」のスタイルをとっている。ブリストルとウェールズにほど近い英南西部の片田舎:ヘレフォードで活動していたローカル•バンドの郎党が集まり、前身グループ=バディーズ/ドック•トーマス•グループへと発展。レコード契約を求め彼らがロンドンに向かうことで、モット結成への礎が打たれる。
このドキュメンタリーにはイアン•ハンターを筆頭にリー•ブラック•チルダース(:NYパンクのシーン•スターと思っていたら、モットの米ツアマネをやった経験もあるそうです)など曲者キャラが多数登場するけれど、中でも一番興味深かったのがモットの父とも言えるプロデューサー:ガイ•スティーヴンスの関与〜バンドとの関係性のくだりだ。
アメリカ産R&Bに強い根っからの音楽ファン〜触媒的存在で、プロコル•ハルムを発掘し60年代末英音楽業界の中でも一目置かれる存在だった彼はアイランド•レコーズに話を持ちかける。当時はまだレゲエ•レーベルとしての認知が強かった同レーベル傘下のSue Recordsをまかされ、次なる「スター•バンド」を探していた彼はドック•トーマス•グループをリクルート。しかし非情にもシンガー交代を指揮した彼はオーディションの末にイアン•ハンターをバンドにあてがい、小説のタイトルにちなんで(薬物所持の罪状で投獄中に思いついたアイデアだったってのがすごいけど)モット•ザ•フープルという名のバンドがここに誕生する。

妻や関係者の証言から、ガイ•スティーヴンスが思い描いていたバンド像〜当てはめようとしていたコンセプトは「ディラン(「追憶のハイウェイ」期)+ストーンズ」だったことが伺える。とにかくレコード契約を求めて必死だったというメンバーはもちろん、最後に加入したイアン•ハンターも当時はそこまで深く考えてはいなかったようだし、ある意味「作られたバンド」という側面もあったのだろう。
ガイ•スティーヴンス自身ポップ•スヴェンガリ=フィル•スペクターに大きな共感を抱いており、セカンド「Mad Shadows」について、メンバーはガイの影響力の大きさを認めている。しかし、音楽性そしてケミストリーという意味で、この5人の結びつきに何かを見出したガイ•スティーヴンスの直観は間違っていなかった。
とはいえ、奇行でも知られたガイ•スティーヴンスはドラッグ禍の果てに音楽業界を離れ、ザ•クラッシュ「ロンドン•コーリング」をプロデュースするものの、81年に自殺して世を去る。ロジャー•テイラーが「たぶん、クィーンが前座を務めた唯一のバンド」「グレイトで活気に満ちた、はらわたにガツンとくるロックンロール•アクト」と評したモットの歴史もまた、スムーズではなかった。

英国の津々浦々をハイオクな勢いと共に行脚ツアーした彼らは、混じりっけなしのロックンロール•エナジーで若い草の根ファン達を増やしていく。この頃からモットの追っかけだったというミック•ジョーンズ、そしてクリス•ニーズにとって、既にビッグ•スター=遠い星になっていたロック•バンド達(ストーンズ他)とは異なり、血気盛んなキッズ•ファンをケアするモットは手の届く「兄貴」な存在であり、かつロックンロールの狂熱の権化だった。
4th「Brain Capers」(71年)を「プロト•パンク」と評する識者がいるように、RAWでプリミティヴなロックンロールへの欲求は水面下で泡立っていたことになる。また、この時期のモットのライヴ映像や音•イメージに、セカンドからサードにかけての長髪•革ジャンのロケンローラーだったプライマル•スクリーム(ストゥージズやMC5といったデトロイト勢も混じっていたけど)の姿がだぶるのは筆者だけではないと思う。

爆音&熱気でロイヤル•アルバート•ホールの天井にヒビを入れたという伝説(以後、RAHでのロック•バンドのライヴはしばらく禁止になった)に象徴されるライヴ•シーンでの人気/評価に反してレコード•セールスはふるわず、ヒット•シングルの欠如によるプレッシャー、無期のツアー•サイクルに疲労したバンドは解散を決意する。
新たなキャリアとしてオーディションに出向いたモットのメンバーから事情を聞き、救いの手を差し伸べたのがボウイとメインマンで、そこから先――ボウイはまず「サフラジェット•シティ」を提案、それが却下されて新曲「すべての若き野郎ども」を提供し、このレコーディングでモットにとってコロンビア移籍第1弾&初のスマッシュ•ヒット•シングルが生まれた――はよく知られた話だと思う。

この状況をミック•ジョーンズは「ああ、これ(=すべての若き野郎ども)はヒット曲だ!とすぐ分かったけど、(モットの人気が高じることで)同時に何かが失われる気がした」と形容しているが、念願のヒットを手にしたバンドはその波にみごとに乗じ、クリエイティヴ面でのピーク作と言える「Mott」をリリース、英米を股にかけてのスター街道を進んでいく。
その間にはオリジナル•メンバーの脱退劇もあり、イアン•ハンターの醒めた視線がグラマラスな「セックス、ドラッグ、アンド•ロックンロール」神話を打ち破る内幕本「Diary of a Rock’n Roll Star」も執筆された(イアン•ハンターはいまだに独特なカリスマを放っており、ドライな口調と自嘲気味なユーモアは健在)。そんな乱気流の中にあってもバンドとファミリー(何せ、クビになった前身バンドのシンガーがバンド運営に携わっていたりもする結束の固さである)を維持しようとする彼らは、新メンバーの加入で息を吹き返す。
「ニュー•ブラッド」として導入されたのがアイランド•レコーズ所属のスプーキー•トゥース時代からメンバーと交流があったというルーサー•グロヴナー(AKAアリエル•ベンダー)、そしてモーガン•フィッシャーなわけだが、バンドのキャリア末期に加入〜レコーディングも1枚だけで終わったにも関わらず、両者のネガティヴ度皆無な受け答えはモット•ザ•フープルでの経験が彼らにとっても「よき思い出」であったことを感じさせる。

しかし、ルーサー•グロヴナーもモーガン•フィッシャーもおっちゃんなのにキャラが立っていて、こんな人達をふたりもしょいこんでツアーを続けたモットってすごいなあ…と妙なところで感心。ルーサーは日焼けからして今はLAにでも住んでいそうだけど、オープンで豪放なノリはアメリカ人っぽい。彼の早弾き&アクロバティックなステージ•アクションは、もしかしたらヴァン•ヘイレン他後続のハード•ロック勢に影響を与えたかも? モーガンは当時のステージ衣装について「リベラーチを参考にした」と語るキャンプさがナイス。彼だけ、うっかり間違ってスパークスから紛れ込んだみたいなのも笑える。

ルーサーが脱退〜ボウイのコネでミック•ロンソン加入がアナウンスされるも、「Slaughter on 10th Avenue」を出したばかりのミックはソロ•スターとしても始動しており、バンドとしてのドライヴを失いつつあったモットは遂に解散(とはいえイアン•ハンターとミック•ロンソンはその後もコラボを続ける仲だった)。長い話に思えるかもしれないが、ファースト•アルバムからたった5年の間でこれだけの紆余曲折とアップ•ダウンを経たバンドは――1年にアルバム2枚なんてザラだった時代もあるとはいえ――なかなかいないだろう。
2009年には35年ぶりにオリジナル•メンバーが結集、ロンドンで再結成レジデンス•ショウが行われ、その模様も本編およびボーナス映像でチェックすることができる。自分もこのライヴには行ったけれど、英国流R&Bとも言えるユニークな音楽性を痛感したし、何よりファン(特に中年男性)のピュアな熱気と愛情には思いっきりアテられたもの。それを「やぼったい/感傷的」「情でベタベタしてる」と感じる向きもあるかもしれないが、本DVDにソウルフルなライナー•ノーツを寄せたモリッシーもよく知っている通り、ロックンロールは時に、心の中に隠れている子供やピュアネスを引き出すマジックを備えているのだ。というわけで、皆さんご一緒に――♪All the young dudes,carry the news…!

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今ポストのラストは、年末に英リリースされたトーキング•ヘッズのライヴ•パフォーマンス集「Talking Heads:Chronology」。日本版も発表されているので、そちらをご覧になった方も多いかもしれません。

内容は初期=75年のCBGBでの白黒ライヴ映像(ジェリー•ハリスン加入前のトリオ編成期も含む)から、2002年=「ロックンロールの殿堂」入りを果たした際の再結成ショウの模様まで、実に四半世紀以上のスパン/米欧におけるライヴをまたいでいる――とはいえ不朽の名作「Stop Making Sense」の存在もあるからだろう、古い映像は83年までに留まっているため、ツアーをやめてビデオ•クリップを主要メディア•アウトレットに移した「Little Creatures」以降の楽曲はオミットされている。
楽屋裏の風景(ちらっとアンディ•ウォーホルの後ろ姿も見える)、ファンのコメント、サイアー•レコーズのシーモア•スタインの談話といった要素も含まれるものの、基本的には時代を追いながらのパフォーマンス•アンソロジー。その中にはYouTubeにアップされているおなじみなアーカイヴ映像も含まれているだろうし、逆に言えば収録されなかった映像もあると思う。メンバーの音声コメンタリーを除けば「歴史を検証する」型のストーリー性はないし、ひとつの映像作品としてのオリジナリティは薄いとも言える。

が、そのぶっきらぼうさというか、たとえば当時のメディアのセンセーショナルな見出しやバンドへの評価(キャッチ•フレーズ)のコラージュ…といった常套手段を一切使わず、バンドの発展•成長を淡々とライヴという実録だけで綴る本作のストイックかつ簡潔なアプローチは、雑音をシャットアウトすることで、いわば「無菌状態」で観る者をトーキング•ヘッズの音楽に向き合わせてくれる。このバンドのユニークでブッキッシュな感性にぴったりなのはもちろん、退屈するどころか、最初から最後まで興奮して観てしまった。
しかし、その前に観たモット•ザ•フープルのDVDが1974年でひとつの区切りを刻んだことを考えると、その1年後には(海を越えて、の話ですが)トーキング•ヘッズみたいな新たな感性のユニットが活動を開始していたわけで、すごいギャップである。

NYダウンタウンの伝説:ザ•キッチンの様子が観れるのも嬉しいし、初期から一貫してポロ•シャツ&スラックスの「普通なルックス」だったトーキング•ヘッズのスター性の排除というアイディアは、本DVDのカヴァー•パッケージ(=バンドではなくライヴ観衆の写真)にも反映されている。選曲がナイスなのはもちろん、できれば遠慮せずに大音量で観てほしい!音質もすごく良い。
でも、いちばん興味深いのはやはりバンドの変遷。そのもっとも分かりやすい指標になるのがデイヴィッド•バーンなわけだが、リチャード•ヘル〜テレヴィジョンの影響を感じさせるインテリジェントなNYパンク•サウンド、そしてシャイでオッドな彼のキャラが妙な緊張感をもたらす初期を経て、78年頃には確信に満ちたパフォーマーへと成長を遂げているのは手に取るように分かる。いわゆる「バーン踊り」(白人男性は全般的に踊りがサマにならないものだけど、そのかっこ悪さを享受しギクシャク•カクカクした動きを取り入れることでひとつの芸風に持ち込んだと思う)もこの時期に始まっていて、82年には例のビッグ•スーツの前哨戦が敷かれているのが見て取れるのも興味深い。
もうひとつ指摘しておきたいのが、現在の一部のアメリカン•バンドへの影響。サウンドの指向性といいバンドの佇まいといい、ダーティ•プロジェクターズ、ヴァンパイア•ウィークエンド、ヒア•ウィ•ゴー•マジックといったアクトの原点はここにあった…と改めて感じてしまった。

しかし、自分がこのDVDに強く感銘を受けたのは、トーキング•ヘッズが「観たかったけどついぞ観れなかったバンド」だったから、という面も大きいかもしれない。MTVは日本版放映の第1回=84年から観たくらいプロモ•ビデオっ子だったが(地方に暮らしていたんで東京在住者のようにライヴには行けませんでした)、自分の記憶に間違いがなければ「Stop Making〜」ヴァージョンの「Once In A Lifetime」の衝撃的でヒプノティックなクリップはヘビロされていて、かつ、映画そのものも(当時ミニ•シアター熱が勃興していた)日本のメディアでかなり話題になっていた。

その刷り込みが功を奏し(?)トーキング•ヘッズはお気に入りバンドになり、「Little Creatures」期のビデオ•プレミアもすべてチェックしたくらいだった…が、ライヴは結局未体験。来日公演は8182年だったというから自分は一足遅すぎたファンだったわけだけど、このDVDを観ていると彼らのパフォーマー集団としての素晴らしさがグングン伝わってきて、特にエイドリアン•ブリューとバーニー•ウォレルが参加した「Crosseyed and Painless」の素晴らしさには「くぅ〜〜、あと10年早く生まれていれば」と、無駄なあがきに悶絶してしまう。
ボーナス映像の英テレビ文化番組:「South Bank Show」(79年)のドキュメンタリーはバンドの内的メカニズムや素顔、思想を知る上でファン必見だと思うし、ちぐはぐさがいちいち笑えるデイヴィッド•バーンの78年インタヴュー映像、そしてライナー代わりの故レスター•バングスによるエッセイの全文掲載など、丁寧なプロダクションも光る。先にも書いたように、動画サイト他を通じてトーキング•ヘッズのライヴ映像はもっと観れるのかもしれない。が、本DVDにまとめられたドキュメントを通して観ることで、この唯一無二で奇妙なバンドへの興味•好奇心はもっともっと掻き立てられるはずだ。

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Mariko Sakamoto について

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