A Field In England (Dir.Ben Wheatley)

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以前のポストでもちょっと触れたことのある、もっか英映画界期待の新鋭として注目を浴びている監督のひとり:ベン•ウィートリー。少し前に公開された彼の最新作である「A Field In England」がとても良かったので、今回はその話を。

現在ブライトンを拠点に活動するベン•ウィートリーは、ウェブやアニメや広告業界やテレビで腕を鍛え、やがてインディの長編映画に進出……というルートを経て来たとても現代的な監督だ。自分は彼の長編作品しか観ていないけども、恐らく様々なニーズに応えることのできる、ダニー•ボイル的に器用な人なんじゃないかと思う。

とはいえ作風/スタイルには一種独特な味があって、デビュー長編「Down Terrace」からして大いに曲者だった。基本的に低予算なだけに、プロダクション•デザインetcは決して贅沢ではない。「Down Terrace」にしても、メインの場面は自宅や友人の居間を使って撮影されたノリである。また彼の作品に触れたきっかけも、メディアの宣伝に乗せられてというよりも映画好きの友人達が口コミで「これ面白いよ」と紹介してくれたから、というケースがほとんどだ。
しかしそうしたインディのハンデを補って余りあるのが、ベン•ウィートリーの俳優の使い方/活かし方(=ケン•ローチ系のナチュラル志向)と、非現実を躊躇無くストーリーに組み入れる大胆さ(=ホラー映画の伝統)のミックスぶり。その、シェーン•メドウズ風でありながらもうちょっとシュール&ダーク&ニヒル、かつカテゴライズしにくい新鮮な持ち味は、続く「Kill List」「Sightseers」と、作品を追うごとにくっきりしてきている。
大家(ケン•ローチ、マイク•リー)を除くとフィールグッドな娯楽作品やロムコム、時代劇、アーバンな現代劇という無難で無味無色なジャンルに流れがち=野心に欠けるメインストリームな英映画界に対し、まだ小さいながらも「作家性」のニッチを築きつつある人、と言えるだろう。

そうしたニッチを築いているのはベン•ウィートリーだけではなく、他にシェーン•メドウズ、リン•ラムゼー、スティーヴ•マックイーン、ジョアンナ•ホッグ、リチャード•アイオーデ、ピーター•ストリックランドといった面白い作家はいる。寡作ながらどの作品も素晴らしい!(特に「Birth」は〝知られざる名作〟のひとつ)ジョナサン•グレイザーが、久々の新作「Under The Skin」を完成させてくれたのは近頃とても嬉しいニュースのひとつだった。
しかし彼らの多くは(たとえばエドガー•ライトのように)アメリカ/ハリウッド〜あるいはヨーロッパといったインターナショナルな連携に活路を求めるのが常道であり、いまだ「イギリス色」を守っているローカルな若手作家という意味で、ベン•ウィートリーへの期待は大きくもあるのだろう。

   ::::::::::::::::::::::::::::::::::: Spoiler Alert! ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

というわけで、一応ネタバレ警報発令。以下は映画のあらすじに触れている箇所があるので、回避したい方はここでストップくださいまし。

そんな彼にとって初のカンヌ出品作となった前作「Sightseers」は、〝コメディ•ホラー〟と称されるかなりの珍品だった。
ホラーとコメディと言えば、たとえばマリオ•バーヴァやダリオ•アルジェントの荒唐無稽なユーモア感覚とか、ヴィンセント•プライスの名(迷)演技が抜群な「Theatre Of Blood」、サム•ライミ(「The Evil Dead Ⅱ」他)、近いところでは〝ゾンビ映画のメタなパロディ•コメディ〟こと「Shaun Of The Dead」等、なにげに継承されているカルトなサブ•ジャンル(ちなみに、本作の総合プロデューサーには「SOD」のエドガー•ライトが名前を連ねてます)。

しかしそれらの多くが怪物(殺人鬼でも死霊でもゾンビでもいいんですが)とのおどろおどろしい対決、そしてホラーのお約束アイテム(残酷な死に様、やたらの流血他)のひねりを用いているのに対し、「Sightseers」はイギリス人の大好きなレジャーであるキャンピング•カー族の生態を扱うごくごく日常的な背景と、リアルなキャラ&台詞回しを通して連続殺人という陰惨なモチーフが展開していくのがミソだ。

その日常性が生むリアルなユーモアは、最近だとルイスC.K.の「Louie」、リッキー•ジャーヴェイスの「The Office」、更にはその師匠筋と言えるクリストファー•ゲストのモッキュメンタリー•タッチの流れを汲む、要するに「観ていてつい笑っちゃいつつも、どこか後味が悪い」、クセのあるもの。
たとえば主役のふたり:クリス&ティナは付き合い始めてまだ間もないカップルで、初の「キャンプ旅行(外泊)」に繰り出す……という設定。このカップル初期の微妙な時期=冒険の興奮とアドレナリンが暴走する欲情にはしゃぎ、馴れ合いや喧嘩もありつつ、でもまだお互いの出方を試すようなところも見受けられる両者の会話やぎこちなさの描写は余りに普通でリアルで、恥部を見せつけられる気がしてくる。
しかも、サイコ気味でオタクなクリス、依存型でうざったいティナと、主役のどっちも「好きになれない/共感できない」キャラ造形ってのは、映画の常道を無視していてある意味すごい。本作の脚本にはこのカップルを演じたコメディアン/俳優であるスティーヴ•オラムとアリス•ロウも参加しているので、彼らのインプット&インプロは大きいのだろう。

キャラばかりではなく、カップルの訪れる湖水地方〜ヨークシャーの観光地が内包する眠く予定調和な退屈さ、キャラヴァン•サイトのあちこちで出くわすエキセントリックな人々、彼らに対するカップルのみみっちく保守的なリアクション等、「あるある」と分かる細かい描写の数々もいちいち痛い。
なんというか、この作品を観ていると、自分が子供の頃に行った国内家族旅行の思い出――「どこに行ったか」はあまり覚えていない割に、移動の車中で車酔いした姉とか、観光地にいるのに退屈で旅館のゲーセンで遊んでいたとか、安いグレープ味の缶ソーダが不味かったといった具合に、しょーもない記憶なんだけど――の冴えなく気まずい断片が甦ってくるのだ。

このリアルさ、そしてとてもイギリス的なユーモア&ニュアンスの数々がトゥー•マッチで、この映画を最初に観た時は軽い拒絶反応が出たくらいだった。しかし「もう二度と観ない/時間の無駄!」のそれではなく、拒否感の理由は何なのか知りたいと思わせるサムシングがある作品なので改めて見返したところ――どうってことのない自然さ/平凡をスクリーンに再現するこの作品のリズムとダイアローグの上手さ&ロケーションの的確さ&役者達の息の合い方に目が開いた。それは、最終的には監督の勝利だろう。

もっとも、10〜15分程度の短編テレビ•シリーズあるいはウェブ•スケッチ集としても成り立ちそうなカップルの秀逸なやりとりを描くだけでもいいのに、物語全体を結びつける連続殺人の(非現実的な)プロットをやや強引に盛り込む飛躍には、若干の無理がある気がしている。
そうしたテーマの混在のせいで、この作品は「Bonnie & Clyde」や「Badlands」といった〝決死の駆け落ちロード•ムーヴィー〟を引き合いに出されもするし(→あんなにドラマチックでもロマンチックでもありません)、一方で「Laugh Out Loud Comedy(爆笑コメディ)」なんていうナンセンスな評(→爆笑というより「グフフ……」笑いです)も出ているくらいだ。
作品公開時のカラフル&チアフルな映宣ヴィジュアル素材のノリとか、普通のラヴ•コメディと勘違いされかねないし(デート映画と思ってうっかり観に行ったら、そのカップルは確実に気まずい思いで映画館を去ることでしょう)。

だが、それだけ「これ」と特定しがたい=配給会社泣かせながら、でも独特な味の残る映画なのは確か。んなわけで最新作「A Field In England」はどうかな?と楽しみにしていたところ、過去の長編3作とまったく異なる世界を造り出していて、ベン•ウィートリーと(彼の公私にわたるパートナーである)脚本家エイミー•ジャンプのジャンルやスタイルに捕われない冒険心に脱帽させられた。

先述の「Sightseers」には、まだ前2作の延長線上にあるというか、すでに散見されていたライト•モチーフを凝縮した面があった。たとえば「Sightseers」のティナと威圧的な母親との関係(=親の影から逃れられない子供の図)は「Down Terrace」の父と息子の関係のバリエーションだし、その内向的な子供達が恋人を得ることで親離れする……というモチーフも同様。
「Kill List」はより冷徹で笑いのない作品とはいえ、家庭内シーンでのナチュラルさと日常に潜む緊張感の怖さ、そして異教徒の儀式は「Sightseers」でも再び登場する。言うまでもなく、とんでもなく残酷で目を覆う暴力描写は3作のすべてに共通している。

しかし「A Field In England」は17世紀を舞台にした時代劇で、しかも監督初のモノクロ。これでベン•ウィートリー作品3度目の登板になるマイケル•スマイリー、「Mighty Boosh」でおなじみのジュリアン•バラットこそキャストに顔を出しているものの、「現代イギリスを舞台にした(基本的には)人物ドラマ」というフィルモグラフィから大きく外れているし、何よりこの作品設定に一体何を期待すればいいのか?と戸惑わされもする。

もっとも、時代劇=コスチューム•ドラマはここ数年安定した人気を保っているジャンル。近いところでは「Les Miserables」、「Great Expectations」、「Anna Karenina」なんかがすぐに頭に浮かぶし、20世紀初頭が舞台とはいえ、「The Great Gatsby」や人気の高い「Downton Abbey」もそのトレンドの影響下にありそう。
その多くの動機になっているのは――と言っても、いずれの作品も未見なのであくまで「推察」ですけども――①古典文学作品を当代人気俳優を使って再翻案する、あるいは②ソープ•オペラを懐古趣味で味付けして興をそそる……というもの。一方で「Game Of Thrones」のようなファンタジー時代劇の傍流もあるけど、こちらはある程度までは「Lord Of The Rings」〜「Hobbit」人気が継続しているからじゃないか?と。

ともあれ。そうした「モダン時代劇」の磁力のひとつであるファッション=衣装や舞台セットの華麗さ、あるいはスター俳優の輝きは「A Field In England」に皆無。本作の背景である清教徒革命〜イングランド内戦という素材そのものが地味だからか(?)あまり映像化されていない気がするし、本作もオール•ロケで戦場が舞台。貴族や王宮といったロマンチックな「華」も登場しない。そもそも、低予算映画のインディ監督が取り上げるテーマとは言いがたい。
しかし、「歴史ドラマ」という表層を装いつつ、史実や当時の思想/戦争の背景云々を描くわけではなく、そこからまったくかけ離れた世界へと観客を導いていくクロス•ジャンルぶりがこの作品の面白さだったりする。

ストーリーは、戦闘の混乱に乗じて主役:ホワイトヘッドが他の2人の兵士と共に戦場を脱出するところから始まる。それ自体はありがちなプロットだけど、武勲だのイデオロギーだのよりも死骸から金目の物を奪い、酒場で一杯飲みたいだけ……というクチの極めて地上的な存在である兵士達に対し、ホワイトヘッドは信心深い学者。そのでこぼこな連中は他の兵士に捕獲され威嚇され、本作のもうひとつの主人公:「とある草原」に足を踏み入れていく。

これがただの草原ではなく、マジック•マッシュルームに囲まれた一種のマジック•サークルであるところから、映画もまたシュールな別世界へスライドしていく。なんでもこの時期のイギリスには自称錬金術師(魔術師)達が跋扈していて、幻覚キノコを使って人々をたぶらかしたりしていたらしい。
また、こういうキノコの生えるエリアは「不思議な出来事の起こる場所」とされ、妖界と人間界とを繋ぐポータルと考えられていたとか。キノコを食べてトリップしちゃった人達の幻覚に過ぎないとはいえ、面白い話である。

さて。このマジック•サークルまで3人が引っ張られてきた理由は、錬金術師オニール(マイケル•スマイリー)を現世に連れ戻すため。復活したオニールはカリスマと魔力(キノコの影響もあるんだろうが)を使って無知な男達をコントロールし始め、草原に眠る財宝を掘り返し私腹を肥やそうとする。
オニールとの間に以前からの因縁があったホワイトヘッドは、その奸計に抵抗するものの魔の力に屈してしまう。この作品は音楽/サウンドの使い方がとても秀逸なんだけど、このシークエンスでのFuck Buttonsの片割れであるベンジャミン•パワーのソロ:Blanck Massのクラウス•シュルツも真っ青!な楽曲の使い方が絶品だったので、特筆しておく。

しかしグループの中でももっとも無邪気な存在である愛すべきキャラ=フレンドのみじめな死を境に状況は変化し始め、映画はオニール(邪)とホワイトヘッド(正)の対決というシンボリックなクライマックスへなだれ込んで行く。

……とプロットをざっと書いたが、とてもシンプルなお話なのがお分かりいただけるだろう(作品の長さも90分)。ストーリーの9割が同じ草原の中で展開し、メイン•キャラは5人。オール•ロケ映画にも関わらず、舞台劇の室内性がある。ベケットやトム•ストッパードの不条理劇を思い起こす人もいるだろう。
しかし本作のもっともマッドで圧巻なシークエンス(=開始から1時間前後)は「史劇」という設定を完全に無視し、モダンなトリップ映画のヴィジュアル面での可能性を追求してみせる。高価なSFX技術に頼ることなく、シンプルなレンズの加工や砂塵、細かなモンタージュ(ニコラス•ローグの編集スタイルを現代にアップデートした感じ)といったローファイな手法でこのスペクタクルを成り立たせているんだから見事としか言いようがない。ちなみに本作の編集は監督本人と脚本家がじきじきに手がけていて、さもありなん。

ベン•ウィートリー本人はギャスパー•ノエの「Into The Void」を例にあげていたけど、自分にとってこのシークエンスを観て受けたトリッピーな感覚に近い作品をあげるとしたら、真っ先にニコラス•ウィンディング•レフンの「Valhalla Rising」が浮かぶ。ウィンディング•レフン映画の中では、実は「Drive」よりも「Bronson」、「Only God Forgives」と並んで好きな作品がこれなんだけど、あちらもトリップ映画〜ミッドナイト•シネマの匂いがプンプンしていた。

トリップ映画、あるいはミッドナイト•シネマというのは今や廃れたタームなのかもしれないけど、現代風に言い換えればカルト映画やアートハウス映画に当たる。トリップということで言えば、草分け的存在なのはキューブリックの「2001:A Space Odyssay」だろうか。要するに、クスリをやってるような「疑似体験」が得られる映画……というわけですね。
こういう副産物的なニーズは以降も続いているようで、スモーカーな映画ファン達は「The Wizard Of Oz」に合わせてピンク•フロイド「狂気」を聴くとハマる、なんていう胡散臭い相乗効果説まで生み出したほど。トリップしながら映画を観た/音楽を聴いた経験は一度もないのだが、こういうシンクロって本当に起こるのでしょうか? 体験者の話を聞いてみたいものです。

このトリップ映画の流れを汲むのが70〜80年代に話題になったミッドナイト•シネマで、文字通り上映は夜11時以降〜あるいはマイナーなケーブル局でオンエアされる類いのアングラなインディ映画が多かった。代表作に当たるのはジョン•ウォーターズ諸作やリンチの「Eraserhead」あたりだろうけど、このカルト•ブームのあおりでホドロフスキーやケネス•アンガー映画も再評価されることに。ここらへんの中でぜひ今でも見直したい!と思う映画に「Liquid Sky」という珍作があるんだけど、入手しにくいので悲しいっす。

ちょいと話が逸れましたが、「Valhalla Rising」あるいは「A Field In England」に自分が反応するのは、これらの作品にアングラ映画の陰微に背徳的な喜びのDNAがあるからだろう。一般的な映画作法から考えればストーリーもめちゃくちゃだし、つじつまも合わないし満足なオチすらない。
ゆえに「監督の自己満足」と酷評されるケースもままあるが、自分はこういう見終わっても「?」マークが頭に灯ったままの、しかし言葉による説明ではなく映像と音の力が後になってもいつまでも残る映画は好きです――基本的に天の邪鬼で、キワモノ好きな自前の性格もあるんだろうけど。

そういうニッチなマニア心もくすぐりつつ、「A Field In England」には過去の英映画の(忘れられがちな)遺産に対するオマージュという面もある。これはベン•ウィートリー本人のコメントから判明したことなんだけど、まず影響としてあげられていたのが「Winstanley」(1975年)、そして「Culloden」(1964年)の2作だった。

前者はイギリス社会主義の黎明とも言える17世紀(=「A Field In England」と同じ時代背景)の社会運動を史実に忠実に再現した作品で、後者は18世紀イングランド史に残る悪名高い戦闘(というかスコットランドで起きた虐殺)を描いている。どちらも深みのあるモノクロのロケ映像が美しく、当時の木版画や絵画作品と共に、ヴィジュアル面での参考になったのは想像に難くない。
ちなみに、素人俳優を起用し、衣装や武器の面でもリアリティの追求に徹したという「Winstanley」はどっちかというと歴史学者向けのシリアスな内容。しかし17世紀イングランドという貧しく侘しい世界はばっちり伝わってくる。

しかし、自分的にキモだったのは「Culloden」。このドラマ(:当人にとっては初の長編作品)を監督したピーター•ワトキンスという人は決して有名ではないだろうけど、報道メディアのドキュメンタリーな映像手法とフィクションとをミックスする手際がとてもユニークな作家だ。
彼の作品には、スウィンギング•ロンドンの風俗〜60年代英音楽好きなら観て損はない「Privilege」(マンフレッド•マンのポール•ジョーンズ主演で、デイヴィッド•ベイリーの女神だったジーン•シュリンプトンも可愛い!たぶん邦題は「囚われのアイドル」か何かだったはず)、60年代アメリカのカウンター•カルチャーを描くという意味で、アントニオーニの「Zabriskie Point」とコインの裏表を成す存在では?と常々思っている「Punishment Park」など、社会風刺&批判をベースとする秀作がある。

中でも「Culloden」は、彼のトレード•マークである実験的な「似非ドキュメンタリー」スタイルがもっとも活きるパワフルな作品。歴史的に著名な戦闘をリアルに再現しつつ(プロ役者だけではなく、現地=スコットランド高地地方のカロデンで集めたボランティアも起用されている)、そこに現代的なインタヴュアー/カメラ班が割り込み、コメントを求めていく姿が描かれる。
たとえて言えば、関ヶ原の闘いに報道陣が乗り込み、東軍と西軍の両陣営に突っ込んだ取材をしながら、戦況を刻一刻とリポートしていくようなもの?? 型破りなアイデアだけど、根本に「戦争の過酷さとむなしさ、一般人に及ぼすその影響」を糾弾する知性があるので、ギミックに陥っていない。彼の作品はDVD他で比較的手に入りやすいので、興味のある方はぜひ。

もっとも、英カルト映画へのオマージュというのは「Sightseers」や「Kill List」にも見受けられた。

「Sightseers」に関しては、元ネタと言っても過言ではない存在としてマイク•リー制作のBBCドラマ「Nuts In May」がある。マイク•リーが演劇界からテレビ/映画に進出するきっかけにもなった有名な作品のひとつで、70年代当時の新興勢力=イギリスの新中流階級をコミカルに皮肉った内容は今観てもかなり面白い(同シリーズで彼が撮ったもう1本のドラマ=「Abigail’s Party」もアイコニックな作品。どちらもアリソン•ステッドマンの演技が光る)。今のところYouTubeで観れるので、これまた興味のある方はどうぞ。

「Kill List」でよく話題になったのは、「Don’t Look Now」と並ぶ英ホラーの金字塔:「The Wicker Man」との比較。異教徒(過去)のえじきになる理性(現代)という図式は、同作の一見タランティーノ風なヴァイオレンス劇の中により不気味で英国的な「陰湿さ/気持ち悪さ」の背骨を添えていた。

そうやって考えていくと、ベン•ウィートリーという人は「映画を養分に育ったオタクな映画監督」のひとりになるのだろう。ミュージシャンが誰しも音楽好きなように、もちろん映画作家も基本的には映画マニアな連中ではある。しかし彼のリファレンスの対象は主にB級やカルト、ホラーやSFに向かっていて、その意味では(先にもあげた名前だけど)タランティーノやウィンディング•レフンの系列。ちなみに、こちらにベン•ウィートリーのお気に入りホラー映画のリストが掲載されてるので参考までに。1〜3位がとても興味深いセレクションになってます。

しかし海外作品ではなく、知られざる英映画作品を糧に自作に向かうのが彼のアドバンテージであり、同時にハンデでもあるのかもしれない。たとえば訳知り顔でこの文章を書いている自分にしても、ピーター•ワトキンスの作品を実際に観ることができたのはロンドンに移って以降。
マイク•リーやケン•ローチ作品にしても日本にいた頃よりも遥かにアクセスしやすい状況にいるし、(昨今の一部の英若手映画監督に大きな影響を与えていると感じる)アラン•クラーク作品についても同様だ。
言い換えれば、それらのリファレンスはイギリス人以外にはやや通じにくいのかもしれない。たとえば「Sightseers」にしても人間描写やユーモアがあまりにイギリス的で、果たしてどこまで日本人に通じるのだろう?と不安になったくらいだった。

しかし最新作である「A Field In England」でもうひとつ興味深かったのは、映像や音の使い方に日本映画の影を感じた点だった。60年代のモノクロ時代劇、特にすすきの原で生き残りの葛藤が繰り広げられる新藤兼人監督の「鬼婆」は、映像と音響の双方にエコーをがんがん感じた。幅は広がっている、ということ。

ベン•ウィートリーの今後のプロジェクトに関しては、米HBOがバックアップする名作「プリズナーNo.6」的な内容のドラマ、あるいはバラードの名作「High Rise」の映画化……なんてニュースが飛びかっている(飛んでいるだけで、実現するか否かはまた別の話ですけど)。
いずれもイギリス色ばりばりの企画だし、かのジェレミー•トーマスが長年あたため続けてきたという後者はベン•ウィートリーの個性とハマりそう。バラード好きとしても期待大である。しかし、個人的にはその「イギリス色」を越えたところでこの人がどれだけ妙なことをやってくれるか?にも好奇心がそそられている。
HBOや名プロデューサーとの連携は確実に作家としてのハクをつけることになるわけで、未来に有利に作用するだろう。けども、それと同時に彼なりの妥協なしな独自の道をインディ作品において継続していってくれたらな、とも思うわけです。

あ! 最後になりましたが、「A Field In England」は公開スタイルも話題になった作品だったのでそのネタを付け加えておきます。

海賊コピーが公開と同時にネットに横行するこの時代、映画界もそのマイナス影響への対応に四苦八苦している。さすがに日本じゃそんなことはないだろうけど、ロンドンの路上やパブではいまだにたまに「海賊DVDの行商人」に出くわすことがある。彼らが売ってるコピーのほとんどはいわゆる「劇場にカメラを持ち込んでの画面撮り」で、映像も音も悪質だ。
たとえば撮影された国の字幕が邪魔だとか、上映中に鳴った誰かの携帯電話の着信音や笑い声が聞こえ、トイレに立った観客の頭が画面を遮る……等々、まあ買わないでおくのが身のためな「安物買いの銭失い」な商品である。が、それでも「Iron Man 3」をチープに観たいって人はいるわけで、行商はまだまかり通っている=音楽界の違法ファイル•シェアリング問題同様、いたちごっこになっている。

しかし「A Field In England」は、劇場公開と同時にテレビ放映/オン•デマンドのネット•ストリーム/ DVD&ブルー•レイで発売と、全プラットフォームを通じてリリースという、英業界初の大胆な発表形式をとっていた。
普通に考えれば、テレビで観れるのならわざわざお金を出して観る人間はいないだろう……というところ。しかしこの複数プラットフォーム戦略は「業界初」との話題も手伝って吉と出たそうで、視聴率やセルDVDの売り上げはもちろん、関連作のレンタルにも好影響があったらしい。

この公開スタイルが今後の標準になっていく……にはさすがにまだまだ時間がかかるだろうとは思う。複数同時リリースというのは作品の性質、そしてある程度〝オトゥール(Auteur)〟として認知されている監督か否かにもよるだろう(ベン•ウィートリーのようにコアなファン•ベースのある監督は、ある程度の観客分母が保証できているのでこうした実験はやりやすい)。
しかし、ほんの2、3年前に「映画の劇場公開からDVD発売までの〝空白期間〟が短過ぎる!」として、不服な劇場側がボイコット運動を繰り広げた報道があったのを考えれば、かなりの進歩じゃないかと思う。

繰り返しになるけど、どの作品も「同時公開」スタイルがハマるわけではない。封切り館で可能な限り動員を動かし、海外リリースにまで話題を引っぱり、そしてDVDやダウンロード、マーチャン発売やテレビ放映権で第二の利益を上げるという段階構造は、大予算映画が収益を上げるにはほとんど必須。そういう映画にとっては、このスタイルはネガでしかないだろう。

しかし、ベン•ウィートリーのようにヴィジョンを絞ったインディ監督の個性的な低予算作品に関しては、こういう「賭け」に出ることで活路を見出すのはまだ可能なんじゃないだろうか。
アナログ•レコード、CD、MP3、携帯電話といった具合に音楽も複数のメディアで楽しめる「受け手の都合」がモノを言う今の時代、映画も「劇場のスクリーンでちゃんと観たい」という、いわば「映画におけるレコード派」だけを優先するわけにはいかなくなってきたのかもしれない。

大スクリーンと良質なスピーカー•システムで全身で楽しむ劇場での映画体験こそ、作り手にとっての理想だろう。しかし映像/音響/アイデアが揃った面白くて地力のある作品であれば、受け手が自分達の好みのプラットフォームを使って鑑賞する自由も許容できる。コンテンツさえ個性的でしっかりしていれば、媒体にこだわることはないということだし、そうした作品は、むしろ媒体を可能な限り解放提供することで受け手を増やすことにもなる――「A Field In England」は、そんな「これから」のセオリーのひとつを証明する格好の実験でもあったんじゃないかと思う。

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Mariko Sakamoto について

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