Steve Reich&The Colin Currie Group@RFH/10Nov2013

スタンディング•オベーションのフィナーレ(左から6人目がスティーヴ•ライヒ)

スタンディング•オベーションのフィナーレ(左から6人目がスティーヴ•ライヒ)

「Music For 18 Musicians」の模様

「Music For 18 Musicians」の模様

この夏行われたLondon Contemporary Music Festivalについてのポストでもちょっと触れた、アレックス•ロス著の現代音楽本「The Rest Is Noise」。この本にインスパイアされる形で、同名のフェスティヴァル/イベント•シリーズがロンドン有数の複合文化施設:サウンスバンク•センターを舞台にほぼ1年にわたって繰り広げられてきた。グラン•フィナーレを12月に控えたこのフェスだが、その一環であるスティーヴ•ライヒのパフォーマンスに行ってきました。

とはいえ単独公演ではなく、土日の週末開催されたこのイベントの副題は「SUPERPOWER 1960-1990」で、第二次大戦後の現代音楽界を牛耳ったとも言えるスーパーパワー=アメリカン•モダン(主にミニマリスト達)がテーマ。ライヴだけではなく関連映画の上映やレクチャー、ワークショップ(ノー•ウェイヴ、ウォーホル、「コヤニスカッティ」、ガムランの実地演奏、ナオミ•ウルフ、ヒップホップ/ハウスへの影響を探るトーク他)も含む朝から晩までかけての盛りだくさんな内容で、ライヒの前日に行われたフィリップ•グラスの「Music In 12Parts」公演は、グラス本人がトータル4時間のパフォーマンスに直々参加する素晴らしい内容だったそうです(=友人の受け売り)。う〜む、行けなくて残念!!

開演に先立ち、このフェスの監督であるサウスバンク•センターの現アート•ディレクター:ジュード•ケリーが登場し短い前口上を披露した。ヴァイオリンや管楽器奏者を含むパフォーマンスの性質上、テーマはモダンとはいえクラシック音楽のコンサートに近い内容だったこのシリーズ。しかし普段はなかなかクラシックのショウに寄り付かない若いオーディエンスにもアピールしたそうで、サウスバンク側にとっても大いに刺激になったとのこと。工夫次第で若い音楽ファンにもクラシックの門戸を開けるということだし、今後のプログラミングの参考になっていくことだろう。
ともあれ、この晩に関しては比較的若いファン――10代から40代――が場内に多く見受けられたのも不思議はない。それくらい、スティーヴ•ライヒは現代音楽のジャンルをクロスオーヴァーし、ロックやモダン•ポップにまでその名前が浸透している数少ないカリスマ•アーティストのひとりだろう。演奏を担当したのはスコットランド出身のソロ•パーカッショニスト:コリン•キュリーと彼の率いるグループで、そもそもコリン•キュリーの演奏/解釈にスティーヴ•ライヒが感銘を受けたことで、今回の共演が実現したのだそうだ。

演目は、「Clapping Music」、「Music For Pieces Of Wood」、「Come Out」、「Pendulum Music」の4作品から成る前半、幕間を挟んで後半は約1時間の大作「Music For 18 Musicians」という構成だった。前半に披露された4つのコンポジションはいずれも5〜10分台のコンパクトな内容で、60年代末〜70年代初期に発表された作品がセレクトされている。
既に運び込まれていたピアノ他が中央を占めるステージの右端にマイクが立てられ、それを囲む形で奏者が佇む光景はなかなか奇矯。しかしそれ以上に意外だったのはトラディショナルな楽器は一切使用されない演奏そのもので、「Clapping Music」は文字通り手拍子の合奏、「〜Pieces Of Wood」では5人のパフォーマーがミニチュアの拍子木(?)を思わせる木片(おそらく各奏者ごとにサイズや素材の違う木片を使っていて、低音/高音が割り当てられている)がカスタネットのように叩くスタイルだ。

スティーヴ•ライヒの影響源のひとつであるバリのガムラン音楽同様、ベースになるリフに微妙に異なるテンポで次々に他の奏者のリフが加わり、折り重なり、せめぎあいながらクライマックスに向かっていく様はスリリングかつヒプノティック。根底の発想はシンプルであり、手拍子や木片など、誰にでも「演奏」できる身近な楽器が使われてもいる。しかし分割されたビートを一糸乱れぬ呼吸で織りなすことで生まれる複雑なカウンター•リズムのパターン、ブレイク•ダウンの完璧なシンクロなど、パフォーマー側のテンションと気合いは並大抵のものではなかった(10分近くノンストップで手拍子を続けるなんて、下手したら腱鞘炎ものだろう…)。聴いていて、ダーティ•プロジェクターズの緻密なヴォーカル•アレンジを思い出したりもした。

続く2コンポジションは、一般的な意味での「奏者」が関与しないパフォーマンスだった。その1:「Come Out」は男性の声をループ/速度変調他でライヴ•マニピュレートする一種のミュージック•コンクレート。無人のステージにヴォイスだけがえんえんと流れ、それがシンクロをずらしながら幾想にも重なり、サラウンド•スピーカーを飛び交いながらホワイト•ノイズにまで上り詰め、やがて潮が引くように無音に落ちていく。昨今のアンダーグラウンドなエレクトロニック•ミュージックならまだしも、発表当時は「なんじゃ?!」の反応が出たことだろう。何より、座席付きのコンサート•ホールに座り、神妙な面持ちでこの演奏(?)に耳を傾けている我々オーディエンス、それ自体が面白くてちょっと笑ってしまった。

個人的に前半部でもっとも面白かったのはラストの「Pendulum Music」。「振り子の音楽」というタイトル通り、4基のアンプの上方に渡された物干竿めいたポールにそれぞれ4本のマイクがぶら下げられていて、(スティーヴ•ライヒを含む)4人の奏者がマイクを時計の振り子/ブランコのように「いっせーのせ」でスウィングさせる。人間の手が関わるのはそこまでで、すぐにそそくさ退場する奏者達に笑いのさざ波が起こった。
マイクとアンプは前もって慎重に調律してあっただろうが、いったん奏者の手を離れればあとは慣性の法則に任せるのみ〜最後のマイクが静止したところで終演となる。左右にぶらぶらと揺れながら様々な環境音を拾い、アンプと時にフィードバックしながら生み出されるノイズには、アクシデンタル•ミュージックでありながら不思議な調和がある。同じタイミングで始まった振り子の運動ながら、力の入れ方の個人差や角度の誤差のせいだろう、4つのマイクのスピードは徐々にバラけていき、予期できない(しかも二度と同じ音にはならない)1回きりのハーモニーや不協和音のドラマが生まれていった。

ミニマリズムと一口に言っても色んな流派があるのだろうが、この前半部はクラシック音楽の伝統から逸脱し、様々な実験を通じて「モダン」を模索していたスティーヴ•ライヒの足跡を感じさせた。と同時に、コンサート•ホールやアカデミックなサークルに閉じこもることなく、むしろ当時アメリカで勃興していたパフォーマンス•アート――これまた美術館から抜け出したアートですが――を思わせるパフォーマンスだったのも興味深かった。

15分の休憩を挟み、いよいよこの晩の目玉演目:「Music For 18 Musicians」のスタートとなる。約1時間のコンポジションということで、果たして自分のように辛抱のきかない人間にじっと聴いていられるだろうか?とやや不安でもあった。しかし小川のせせらぎがやがて大海に流れ込んでいく様を追うようなゆったりしたビルド•アップとそこから生まれる大いなる隆起、緻密なスコアをあっぱれな集中力とタイトなミュージシャンシップで乗り切った演奏、PAの美しさと、申し分なし。最初から最後まで魅せられっぱなしだった。

「18人のミュージシャンのための音楽」というタイトルからも明らかなように、このコンポジションはミニマリズムというよりもオーケストラ向けの作品になる。しかしヴァイオリン、チェロ、クラリネットから成る管弦カルテットを中心にピアノ4台、木琴/鉄琴7台、女声シンガー4人の編成はかなり異色だ。しかしそれらすべてがシンメトリカルに配置されているのはなんとも美しいし、トータスのステージ•セッティングって、これがヒントだったのかも?

しかしいざ演奏が始まると、ソロ、あるいはいわゆる「主旋律」のない(代わりにリフ=主題が様々な形で変奏/リピートされる)この作品もやはりミニマル思想を汲んでいるのを感じた。ベースに当たる低音部は主にヴィオラや管楽器が担当し、このコア•パフォーマー達はほぼ最初から最後までノンストップで演奏。その上に乗るのは複数の打楽器/鍵盤で、重なり、あるいはズレながらリズミックに躍動していく彼らの音がいわば楽曲の「動」を担っている。4部の女声シンガー達も歌ではなくサウンドの一部として機能していて、うなり声やチャント、無声も駆使して更に複雑な層を添えていく。

とはいえ単なる反復というわけではなく、楽曲の力点が曲の進展に合わせて木琴、ピアノ、弦楽器、マラカスをキューにして転調…といった具合に緻密に、しかしオーガニックに推移していくのを辿るのはエキサイティングだった。時にピアノがパーカッションになり、弦楽器がドローンな背景色を加える等、楽器本来の音色とは異なるプレイでバリエーションをもたせる意表をつく工夫も新鮮。シンガーと管弦楽チームを除くパフォーマー達は演奏中何度も楽器をスワップするのだが(特に木琴/鉄琴チームはこの曲の要なマラソン走者なので、途中で手首を休めるべく休憩が必要なのだろう)、曲の流れを止めることなく次の奏者にバトン•タッチするシームレスなタッグも素晴らしかった。
もっとスケールが大きく人数も多い普通のオーケストラの演奏で、こういう「交換」場面が登場することはまずないのだろう。けれど、このパフォーマンスには18人に制約された中で演奏者達の力量――木琴奏者のほとんどはピアノも兼任――を限界まで押し進め、彼らのポテンシャルを活かしきる、という側面もあるのだと思う。先述したように、第一奏者がスポットを浴びるようなソロ部はない。しかしこの楽曲から放たれた18という単純な数の総和以上のサムシングは、もしかしたら演奏する側にとっても、より満足度が高くやり甲斐のある、インスパイアされるプレイなんじゃないだろうか。

約1時間、まったくダレることなく見事にプレゼンされた演奏に、場内はもちろん総立ちの喝采だった。彼らの織り上げるテンションの高いタペストリーは、聴く側もかなりの集中力を要する。ゆえに「お疲れさま」の思いもあっただろうが、何よりも彼らの生み出した美しく瞑想的でピュアな音の響宴に触れた喜びに、オーディエンスも立ち上がらずにいられない感じだった。奏者全員のお辞儀にスティーヴ•ライヒも加わり、嵐のような拍手が再び盛り上がった。

今年体験したライヴの中でも、もっとも感覚がトバされたパフォーマンスのひとつだったな〜。幸せ。と同時に、現代音楽というのはもしかしたらレコーディング音源という固定されたメディアを再生して頭で理解しようとするよりも、こうして生で体験するのが一番いいのかも、とも感じた。その意味では、ジャズやロックと案外近いところがあるのかもしれない。

あと、音楽そのものとはまったく関係ない話だけど、カジュアルなキャップにタックインされたシャツという御大のアメリカンな姿、近年のスコット•ウォーカーと瓜二つなのが自分的にはかなりツボだった。

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Mariko Sakamoto について

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