Autobiography/Punk 45

ちょっと前の話になりますが――12月のイギリスと言えば「クリスマス•プレゼント探し」で明け暮れる感がある。「今年喜ばれるプレゼントはこれだ!」めいた用意周到な買い物リスト(子供/大人/男女といった年代&性別リストはもちろん、予算金額別ラインナップ、あるいは贈る相手の趣味趣向:たとえば〝料理好きな人向けのギフト〟とか〝ゲーマーならこれを〟といった具合にカテゴライズが細かい!)が早いうちからメディアに出回り、無視しようと思っても潜在意識の中に「な、何か買わなければ」が刷り込まれる。

この時期に街を歩いていると、店頭を飾るその騒々しさはもとより、「何か買わなければ」の強迫観念に駆られたショッパー達の群れに出くわし、そのオーラを浴びるだけで頭が酸欠状態になるほど。こっちのクリスマスは「年に一度」なファミリーの集いでもあるので、むしろ日本のお正月に性質が近い。そこで親戚や友人にプレゼントを用意しない人間は、たぶん「非道」扱いされかねない。スクルージの面影は、今もイギリスの中に残っているようです。

そんな熾烈なクリスマス商戦において、いまだ安定した人気を誇るアイテムのひとつが本。特にハード•カヴァーならサイズもそれなりに大きく見栄えがするし、豪華なコーヒー•テーブル本(写真集、アート/ファッション•ブックetc、要するに応接間のテーブルに置いて「インテリア」にもなる本)なら、それだけでも立派に単体プレゼントとして機能する。

イギリスもEブックはかなり普及している。とはいえ、通勤客を見ていてもまだペーパーバック勢(=アナログ派)の割合が高い印象だし、本屋も(その数は減っているとはいえ)活気がある。音楽よりも、書籍メディアのデジタルへの移行は少し遅いらしい。そんなわけでクリスマス後には美味しい本を手に入れた知人達が増える仕組み……ということで、今回は彼らから借りた本についてご紹介。

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Autography/Morrissey(Penguin Classics)

まずは、長らく執筆•刊行が噂されていたもののぎりちょんで出版社側と揉めたり、とすったもんだの末に昨年10月鳴り物入りで出版され、音楽バイオ本の初週売り上げ記録を更新&イギリスの年間ベスト•セラー100位内にも堂々ランク•インしたモリッシー初の自叙伝:タイトルもそのものズバリです。

これは現在40代以上の、音楽好きなUKパパさん達に贈る格好の2013クリスマス•プレゼントになったようです――が、昨年イギリスでもっとも売れた自伝はマンUの元マネージャー:〝サー〟•アレックス•ファーガソンのバイオだったりするので、音楽よりもやっぱスポーツの方が一般性は高いんだよな〜、とも感じますけど。

音楽ライターという仕事柄、バイオやロック•スターの伝記は割とよく読んでいる方じゃないかと思う。しかしモリッシーの「Autobiography」は、過去数年出版増加傾向にある「アーティスト/バンド/ジャンルの歴史を辿る•検証する」型のバイオ本とは一線を画す内容になっていて興味深かった。

こういうバイオ本を自分が読む理由は、やはり史実他のデータ確認やリファレンスとして使う、というのが大きい。そうした情報はネットからも得ることができるが、案外「又聞きの/一般に広まった誤解に基づく」話も混じっていたりする。もちろんバイオ本にも間違いや誤引用はあるだろうし、過去の発言や事件の顛末をミュージシャン本人が否定するケース(若い頃はいい加減なコメントを残していたとか冗談がそのまま一人歩きしたり、一貫性という意味では本人ですら妖しいってこともあるのだ:人間ですからね)、関係者の記憶と食い違っているなんてこともあり得る。

それでも本に関しては、少なくともひとりの書き手がある題材を一貫して丹念に調べ、正誤様々な情報をふるいにかけ吟味し、整理し1冊にまとめたもの、というのが前提。ライターの視点がしっかりしていれば、とても勉強になる。また探しているネタに直接関係のない話でも、そこからインスピレーションを受けることもあるし、手元にあるとやはり便利なのだ。また公式バイオなら当人や関係者の述懐証言も含まれるわけで、彼らの肉声や当時の状況を理解するという意味でも参考になる。

特に00年代以降に登場したこの手の本は、ネットというアーカイヴの普及でより広く深くリサーチされていて優秀だなと思う。これが一昔前だったら、たぶん自前の音楽雑誌やファンジン•コレクションを活用する、あるいは図書館に行って文献や過去記事をいちいちコピーしなくちゃいけなかったんでしょうね……くわー、大変そう。

そうした「資料的」な観点から考えると、「Autobiography」はあまり親切な内容と言えない。ロック•バイオの多くには巻末索引があり、人名や地名、アルバム•タイトルや曲のタイトル他、本に登場する固有名詞他から目当ての箇所を引っ張り出すことができる。しかし「Autobiography」には索引が含まれていないため、たとえば「ジョニー•マー」とか「『Your Arsenal』発売時の話」といった具合に、気になる箇所をキーワード読みするのが楽ではない。体裁としてはモリッシーの子供時代から現在まではほぼ時系列に沿って語られる内容なので、彼の半生と音楽活動とはちゃんと俯瞰できる。しかし、「●●年の▲月にこんなことがあった」めいた紋切り型の年代記ではないってこと。

もっとも、これはこの本が「ゴースト•ライターとの共著」、すなわち本の主役とのロング•インタヴューを元に、実際の執筆•編集は彼らにオーソライズされたプロのライターが担当する……というスタイルのニートな「バイオ」ではないからだろう。
その意味でも、「Autobiography」はボブ•ディランの「Chronicles」、あるいはパティ•スミスの「Just Kids」に近いと言えるだろうか。いずれも詩人=言葉の人なので、これまた文字の人であるモリッシーの自伝がこういうスタイルになるのは不思議のない話なのかもしれない。

にしても――「Chronicles」も「Just Kids」もゆるい章建てがあるんだけど、「Autobiography」はチャプターなしのノンストップ構成だったりする。もちろん段落分けはあるとはいえ、筆者が読んだペーパーバック版は450ページ+(写真も含む)のヴォリュームで、これを実際に読み進めるのはなかなかタフな行為だった。

そう感じるのは自分だけかもしれない。しかし、モリッシーの美しい文章の力をもってしても、「子供時代」、「マンチェスター失業者時代」、「パンク」といったなんらかのテーマあるいは区切りを含まず、次々流れていくライフ•ストーリーに翻弄されずにいられないっていうか。昔の人よりもどう考えても集中力に劣る自分のような人間には、その「切れ目のなさ」が辛いわけです。

「第3章まで読んだから、いったん休憩しよーっ」としおりを挟んで脇に追いやるのが難しい作りの本と言えるし、実際、いったん読み始めたら読み通すしかないのかよ!……みたいにこっちもだんだん躍起になってしまい、珍しく寝食まで惜しんでせっせとページを繰ることに。この手の本としては、かなり早いペースで読み終えた(間にギャップを挟むと、どこまで読んだか/モリッシーの状況がどう変化したかetcのスレッドを忘れてしまいかねないので)。

しかし、このある意味読む側にとってはハードルの高い作りが可能だったのは、モリッシーという存在そのものがスキャンダラス、かつ尽きせぬ「エニグマ(謎)」である人物への好奇心に備わった磁力(=野次馬根性が刺激される、と言ってもらっても構いません)、そして彼の茶目っ気を含むウィットと美しくカットされたグラスに注がれたワインのような毒、切ないペーソスとに彩られた文体の複雑な魅力があってこそ。その2つが合わさると、なかなかページをめくる手を止められなくなる。

そう考えると、この型破りな構成も「読めば分かる」型の確信的なものだったのかもしれないな、と思う。まあ、この本そのものがこっちでは古典専門のアイコニックなペンギン•クラシック:ペーパーバック※(日本で言えば、「初版から岩波文庫に収録」ってのに近い)のバナーのもとにデビューした「異例扱い」――恐らくそれが出版承諾の条件だったんだろうし、それを要求するのも相当に強気なわけで――であるのを思えば、モリッシーはそれだけ自分の「自叙伝」に大いなる自負を持っていた、と言えそうだ(※クリスマスが近づいた頃には、「プレゼント•ヴァージョン」として表紙写真の異なるハード•カヴァー版も追加登場しました)。

その自負は、先述したように文章の上手さで正当化されている。特にザ•スミス結成以前の時期=彼が生まれ育った60年代半ば〜70年代マンチェスターの当時の暗うつな情景とイギリスの閉塞感、そこから逃れようともがき続ける「フリーク」「ミスフィット」だった子供〜青年時代の描写は、英地方出身のアイリッシュ•カソリックなワーキング•クラス人が背負う十字架がどんなものだったかをポエティックに、かつ痛切に喚起しみてせる。
そういやキース•リチャーズの伝記「Life」でも、戦後世代の子供だったキースとその家族のロンドン南部での暮らしぶりの箇所〜近代化の波による変化がなにげに興味深かった。「過去」というのは、当事者にとっては忌むべきリアリティ/トラウマになることもあるのだろうけど、それを読む人間にとっては不思議で驚かされる、興味深い「異国」になる。

ある意味決定的とも言える成長期の経験――彼が生きたコミュニティ全般の「退屈さ」はもちろん、教会や教育機関といった権威をふるう集団組織との衝突および彼らに対する根本的な疑念はその後も引き継がれている――とそこから生じた世界観が、ザ•スミスの楽曲に様々な形で反映されているのも実感できる(「Headmaster Ritual」、「Vicar In A Tutu」、「Frankly,Mr. Shankly」等)。一見「スキャンダル狙い」と誤解されかねない「Meat Is Murder」、「The Queen Is Dead」といった戦闘的な箴言にしても、モリッシーはそうした彼にとっての「真理」を踏まえてスローガン化してきたことになる。

と同時に、判で押したような退屈な日常、若者の野心や夢、生きる糧とも言えるロマンを芽生えた先から摘み取り根絶やしにする社会環境――このノリは、ショーン•ライダーの自伝やマーク•E•スミスの「Renegade」からも感じられる――にあったモリッシー少年にとって、グラム•ロックおよびその直系の子孫であるパンクの「解放」が及ぼした影響の大きさも分かる。中でも彼にとって重要なニューヨーク•ドールズ周辺のくだり、ストーカーばりのティーン•ファンとしてギグを追いかけたあたりの記述は、その「音楽が命綱」な必死さも含めて泣かされる。

おそらく社会的にはあまり役に立たない=実利に欠ける孤独なアウトサイダーが、音楽やアートを通じて他のアウトサイダー達(たとえばリンダー•スターリングとの交友等)とリンクし始め、それ自体が新たなサブカルチャー/トライブと言える「モリッシー」という名のニッチな、しかし情熱的なカルトを形作っていく――そのジェネシスから戦況、現在に至る成果までを「Autobiography」は辿っていく、とも言えるだろうか。

ゆえに「ザ•スミスのことを詳しく知りたい」という動機で手を伸ばす向きに、この本は少々期待はずれかもしれない。もちろんスミス絡みのトピックは出てくるので、発見はある。しかしアルバム制作時のスタジオでの状況とか作曲セッションがどんなものだったのか?といった活動ディテールは軽く、グラフィティといったノリ。しかもバンドの業績も含め、本全体に占める割合そのものがあまり多くない。それよりモリッシーが遥かにページを割いている気がするのが、①(ザ•スミスの成功を活かせなかった)ラフ•トレードのアマチュアぶりの糾弾②優柔不断なジョニーへのフラストレーション③マイク•ジョイスとの訴訟ネタという、ビッチーな側面だったりする。

こういうのは「薮の中」というか、当事者それぞれが一方的に「出来事」に対して違う視点•見解を持っているもの。ゆえに第三者である自分には断定が難しいとはいえ、③については法廷記録を元に語られているので、裁判そのものに不平等/不合理/偏見が介在したという考えは理解できる――それにしたって、人によっては「敗訴して、パラノイアに駆られたポップ•スターの泣き言じゃないの?」と受け取ることができるだろうけれど。

この本で回想される「モリッシーにとっての」ザ•スミスというのは、つま弾きにされてきた「黒い羊」がやっと自分の生きる道=音楽活動を軌道に乗せたものの、様々な障壁にぶつかり混沌の中でその生を終えることになった「失望のしこり」……というのに近い。もちろん彼らが生み出した音楽の素晴らしさ、そしてロック界に残した影響とは別の話とはいえ、その内情はほろ苦いものだったんだな、と。

にしても宿敵NME、マイク•ジョイスやジェフ•トラヴィスに対する舌鋒には驚かされる。特にマイクへの怒りはすごくて、ここで一気に自分の言い分を!と言わんばかりのHatchet Job。「これじゃあ、いくら大金を積まれたって『ザ•スミス:オリジナル•メンバーで再結成』はあり得ないわな〜」と感じずにいられなかった。仮に彼らがこの本における描写を読んでどう思おうが、モリッシーはまったくもって意に介してないのだ。

その「絶縁モノ」とも言える忌憚なき人物評はそれ以外の「モリッシーの人生に現れた人々」にも当てはまるし、たとえばインディ•ロックの布教者として敬愛されるDJジョン•ピール、あるいはファクトリー•レコードの首領ことトニー•ウィルソンといった故人ですら揶揄や批判を免れていない。その評を信じる/信じないは読み手次第とはいえ、どうしても偶像化されがちなエスタブリッシュメントに異なる見地を加えているのは間違いない。

こんな風にあげつらうと「恨み言/不満ばっかなミゼラブルな本なの?」と思われるかもしれない。しかしネガばかりではなくポジな描写もちゃんと含まれているし(カースティ•マッコール、クリッシー•ハインド他、愛情が感じられます)、そうした「日だまり」とも言える記述に触れるたび、モリッシーという人はプライヴェートでシャイで、ごく僅かな友人達としかコネクトしないタイプなのだろうなと感じる。参考までに、モリッシー•ファンである英コメディアン:ヴィクトリア•ウッドが彼と最愛の飲み物である「紅茶」について語り合う映像をどうぞ。彼女の友人による手編みの紅茶ポット用保温カヴァー(っていうかモリッシーの言う通り「ぼんぼり帽」に見える)をプレゼントに持参したものの、瀟洒なモリッシー「専用ポット」に似合わない……と気づいてヴィクトリア•ウッドがテレて隠そうとするのを、「いいからこっちによこしなさい!」とお茶目に諭す様に、お父さんっぽさを感じるのは私だけでしょうか?

でまあ、そういう友情において重要になってくるのは、たとえば「Kiss and Tell」型の安っぽい暴露(「私はモリッシーと一夜を共にしました」みたいなタブロイド好きするスキャンダル)を寄せ付けない、相互敬意をベースとするソリッドな忠誠心だろう。で、その忠誠心を重んずる考え方というのは、この本でも綴られる、モリッシー本人の(彼の愛する)ポップ•ミュージックへの、ファンとしての忠誠心から始まっている気がした。そう考えると、モリッシーのファンとの熱狂的な繫がり、そしてこの本からもがんがん伝わってくる彼らに注ぐ愛情は、ステージ上のフィクションではなく彼にとってはリアルなものなのが分かる。

別に、リアルと言ったって「ファンの子やグルーピーを楽屋に引っ張り込んで……」という話ではありませんよ。そうじゃなく、普通の人にとっての私生活(分かりやすく言えば、内的な愛情生活と言ってもいい)がほとんど皆無に等しそうな――この本を読む限り、彼が伴侶とハッピー•ライフを共にした……系の、ドメスティックな記述は非常に少ない――モリッシーにとっては、音楽作り、そしてライヴこそが愛を感じられる/生きられる場なんじゃないか、と。

そういう在り方を、「悲しい」と捉えることもできるかもしれない。しかし、ポップ•ミュージックとのロマンス、パフォーマンスの人工的な美しさ、そして集合無意識を喚起できるその威力とに人生を救われるほどの啓示を受けたモリッシーにとっては、ある意味そのフェイクこそリアルなのだろう。ステージから歌いかける時、だからたぶん彼は、彼が受けたと同じような啓示をシェアし、心底観客ひとりひとり――舞台前方に押し掛けたコア•ファンだけではなく、フロア後方に立つオーディエンスにまで――に届こうとしている。

その意味で「Autobiography」もまた、ファン達に向けたパーソナルな本なのだと思う。それゆえに「自己耽溺な内容」と本書を批判する声も目にするけれど、読めば確実にモリッシーの心にもっと近づき、よりよく理解できるはず。間違っても「マニア」型な彼のファンとは言えない自分ですらそう感じたんだから、彼を本当に大好きな――音楽からキャリア、言動や行動も含めて共感できる――パッショネイトなファンの人にとっては、宝物のような本だろう。

追記:この本は先頃アメリカでも出版されたそうですが、こんな意外なニュースも目にしました。まさか検閲じゃないでしょうけど、アメリカではまだゲイ•ラヴはタブーってこと?? アンビリーバブル。

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PUNK 45:The Singles Cover of Punk 1976-80/Edited by Jon Savage&Stuart Baker(Soul Jazz Books)

続いては、大判な音楽/アート本。イギリスにおけるパンクの権威とされるジャーナリスト:ジョン•サヴェージと、マニアに愛されるSoul Jazz Recordsの創設者:スチュアート•ベイカーのふたりがよりすぐったパンクの45(=7インチ)シングル•ジャケットを集めた、パラパラ眺めるだけでも楽しい!ピクチャー•ブックな内容です。

ジョーダン姐。

同じくジョン•サヴェージが絡んだ企画ということで、本ブログでも以前(2012年秋)取り上げた、「Punk Graphics」展覧会ともやや被る内容ではある。しかし本書ではパンク•カルチャー、ひいてはインディペンデント•ロックを象徴する遺物としてドーナツ盤に的が絞られている。

基本的な体裁はジャケット写真を年代ごとに別に1ページごとに紹介するというシンプルなものながら、大型本の強みを活かしジャケットがほぼ原寸大で再現されているのは実にナイス。どんなにネットの「リスト•カルチャー」が発達しても、このインパクトには太刀打ちできないですよねー。

また、そのほとんどは裏ジャケ写真(こちらは縮小サイズですが)も付記されているのは泣かせるし、バンド名/AB面曲タイトル/クレジット/レーベル名/ジャケットのデザイナー/発売日といった分かる範囲の基本データを転載、一部には補足解説(1枚きりで消えたバンド他)も添えられていて、愛のこもった一冊になっている。

366ページのヘヴィ•デューティな本で、メインにフィーチャーされたシングルは約300枚。ジョン•サヴェージの秀逸な前書き、また随所に挿入された関係者インタヴュー/エッセイの挿絵的に登場するシングル、巻末の(たぶんページ数が足りなくて泣く泣くミニ•サイズで紹介するしかなかった)ギャラリーも含めれば、実に500点近くのジャケット写真が網羅されている。

レアなレコードも数多く含まれているので、パンク•コレクターが「おーっ」と盛り上がるのは必至だろう。しかし本書の選択基準はレア度や曲/バンドの有名さだけではなく歴史的なコンテクストにも配慮が配られていて(たとえば後にスロッビング•グリッスルに参加するピーター•クリストファーソンが、ヒプノシス時代にコーティーナズのジャケットを手がけていた……とか)、また英米に限定されないセレクション(海外のみ発売のピクチャー•スリーヴも含まれる)も嬉しい。

なにより「アート表現としてのパンク」がキモで、大胆なレタリングやコラージュ、モノクロ/原色カラーのコントラスト、写真からイラストレーション/コミック〜タイポグラフィまで巻き込んだヴィジュアルな冒険、以前だったらあり得なかったDIY味etc、この時期特有のテンションが高いグラフィック•デザインが次々に登場する。

と同時に、この本は年代を追って「パンク」という概念が発生し、いかに変遷していった様を目で辿らせてくれる。ゆえに本の題名は「1976年から1980年まで」を謳っているものの、実際には1969年(MC5、ザ•ストゥージズ)、70年代アメリカ(ドールズ、グルーヴィーズ、ペレ•ウブ他)といったプロト•パンク組も序章的に登場するし、パンク以降=インディペンデント勢やポスト•パンクの美学まで視野に含まれている。

ちなみに本編の一発目を飾るのは、ラモーンズの「Blitzkreig Bop」(1976年4月)。このスリーヴ、デザインを担当したのは「PUNK」マガジンのジョン•ホームストロムだったんですね……知らなかった。とはいえ、ここらへんはやはり「パンクはどこから始まったか?」議論の火種になりかねないだろうか(?)、続くザ•セインツの「(I’m) Stranded」(同年8月)、そしてザ•ダムド「New Rose」(同年10月)といった具合に、厳密に時間軸に沿っている。

ヘイ•ホー•レッツゴー!

ザ•セインツ。不朽の名曲!

これも負けてない名曲!

本格的にページが割かれるのはやはり1977年篇以降で、ジョン•サヴェージの指摘通り、「77年の”7×”7」――ザ•クラッシュの予言がこだまします――が果たした役割の大きさを感じさせる。その役割とは、①プロモ•ヴィデオがまだ一般的ではなかったこの時代、スリーヴ、ポスター、ロゴ他の要素はバンドのイメージやアイデンティティを伝達•拡散する重要なツールであり、②バンド結成からファンジンまでDIYを奨励した基本的にファン•カルチャーであるパンクにとって、「自分達にもやれる」を実践するのにシングルという(比較的リスクが低く安く流通できる)フォーマットはアルバムよりも遥かに速攻性の高いステートメントになった、というもの。シンボリックなメディアだったのだ。

もうひとつ忘れてはいけないのは、パンクのDIY精神を機動力とする若手デザイナー(時にはアマチュアのアート学生というケースも)の勃興で、それまで「レコード会社のデザイン室」が請け負うことも珍しくなかったスリーヴ•デザインに、バンド•メンバーによる自主スリーヴはもちろん、ジェイミー•リード、マルコム•ギャレット、ピーター•サヴィルらのデザインが新感覚の風や実験性を吹き込むことになった点。彼らのインパクトは、今もアート/カルチャー/ファッションのそこここに残響している。また、筆者の大好きなバーニー•バブルスについても触れられていて感動っす。

若い!バーニー&サヴィル。

もちろん、ピストルズの成功以後はレコード会社が若手バンドを次々にヘッドハントし、パンクという「ジャンル」が確立すると共に、たとえば「白黒で粒子の粗い写真にそれっぽいロゴ/原色アクセント」という通り一遍なヴィジュアル話法がスタイルとして定着することにもなった。

しかしこの本を読んでいると、なるほど「ちゃっかり便乗組」もいたんだろうけど、パンクというユース•カルチャー/ムーヴメントの撒いた種子のたくましい生命力――ニュー•ウェイヴ、ポスト•パンク、オイ、ハードコア、インダストリアル、エレクトロ、インディ•ポップ……といった具合に矢継ぎ早にその精神的な子孫:新たな芽を噴出させていった――を感じることができる。

ジョン•サヴェージの文章によれば、ギャリー•ニューマンやアダム•アントといった「パンクの落とし子達」がスターになっていった79〜80年はひとつの分岐点。この時期を境にシーンは再び業界先導=セールス重視の志向にシフト〜時代の風である「ゲット•リッチ」に傾いていき、英メインストリームを占めたエレ•ポップやニュー•ロマンティックス、ソウルの再解釈(60年代回帰)は7インチよりもむしろより高級感のある12インチ•シングルや磨かれたデザインに重点を置くことになったという。

ここでもやっぱり、ジョーダン姐。

しかし色んな意味でスピード重視で短命に終わったパンクは、それだけ密度が高かったとも言える。この本に掲載されたスリーヴの多くもメッセージやコンセプト、アイデアに満ちているし、レコード=音楽そのものだけではなくパッケージ•デザインもコミュニケーションを果たす「信号」だった、ということ。その重みと濃さゆえに、細く長くではなく太く短く走りきったのはある意味必然だったのかもしれない。

楽曲単位で音楽を購入できるデジタル時代の今、アルバム/シングル•ジャケットというフォーマット〜ひいては「パッケージ•メディア」そのものが力を失った……というのはよく感じる。もちろん人それぞれ感じ方は違うだろうけど、ここ数年で本当に「心に残る」アート•ワークというのは、自分にとっては少なかったりする。

まあ、これだけリリースされる音楽タイトルの数が増えれば単純な話デザインのネタも尽きて来るってことなんだろうし、ジャケがしょぼくたって音楽さえ良ければオッケー!とも言える。しかしその一方で、コンセプトや意志の感じられない薄っぺらなアート•ワーク――たとえばアーティストのポートレートとか、ただ機能的なだけで知恵を絞った形跡の感じられないタイポグラフィとか、手抜きな印象を受ける――を目にするたび、もしかしたらそれは、パッケージだけではなく音楽そのもののメディア•パワーの衰えの印でもあるのかな?なんて考えてしまう。

ともあれ。グラフィック本として充実した本書ですが、合間に掲載されたショート•インタヴューやエッセイも振るっている。メインになるのはパンク/インディペンデント•レーベルの設立者達で、シーモア•スタイン(Sire)、デイヴィッド•ロビンソン(Stiff)、ジェフ•トラヴィス(Rough Trade)といった「まあ当然」な面々はもちろん、パンクを予震したとも言えるフランスのガレージ•レーベルSkydog、ロジャー•アームストロング(Chiswick)によるパブ•ロック談、米Dangerhouseのデイヴィッド•ブラウンといった影の立役者の裏話が読めるのはありがたい。

この他にアーティスト(リチャード•ヘル、グレン•ブランカ、リチャード•H•カーク他)、そしてイメージのクリエイターだったデザイナー/写真家/画家(ジェイミー•リード、デニス•モリス、ギー•ヴァウチャー、ピーター•サヴィル)らも取り上げられており、音楽とアートとの関係、パンクの影響についての様々な証言•考察を読むことができる。お勧めです。

追記:先述したように、この本には海外輸入盤もいくつか掲載されている。これは当時の英米シングルにはカンパニー•スリーヴ(レコード会社のロゴ他があしらわれた紙袋)が多く、オリジナル•デザインや限定リリース、ピクチャー•スリーヴを制作していた他国ソースに頼らざるを得なかったからだろう。

そんな中、我ら日本からもシングルが2枚選ばれ掲載されている。その①はザ•ランナウェイズのデビュー•シングル「Cherry Bomb」、その②はザ•クラッシュの日本オンリーのカップリング•シングル「I Fought The Law/(White Man) In Hammersmith Palais」。ジャケットに記された「600円」の価格表示に、つい涙が出ますね。

しかし①に関してはカタカナの曲名表記が「チェリーボンブ」で、「ボム」じゃないのについ失笑してしまう(そういやチャック•コナーズ主演のカルト作「The Mad Bomber」も、邦題「マッドボンバー」だったな)。ちょっとDiscogsで調べてみたところ、さすが日本で大人気だったランナウェイズだけあり、この本に掲載された色っぽいヴァージョンとは異なるもうちょっとお子様向けなジャケットも存在していて、そちらは「悩殺爆弾」と書かれている。んー、時代を感じます。

②に関しては、「勝手にしやがれ!」をパロッたごときピンク/黄/モノクロ写真&コラージュで、がんばって「パンク風」を追求した日本側デザインのがんばりを讃えます――なんだけど、邦題「ハマースミス宮殿の白人」を見るたび、これはなんとかならないのだろうか?と背中がちょっとばかりかゆくなる。

つうのも、ロンドン西部の街:ハマースミスに宮殿はなく、「ハマースミス•パレイ」とはロンドン西部のハマースミスにあったダンスホール〜ギグ•ヴェニューのこと。宮殿(=パレス)ではありません。まあ、この会場は低迷の末(筆者は2回しか行ったことがない)にちょっと前に取り壊され、もはや存在しないのでこだわってもしょうがないし、これだけ長く定着してきた邦題を、今更変えて混乱を招くのも不都合なのかもしれない。

ただ、この邦題だと「で、白人が宮殿で何してるんだ?」ってことになる。白人ミュージシャンが宮殿=イギリスだと皇居に当たるバッキンガム•パレスが浮かぶわけだけど、それは勲章(OBEとかMBEとか)をありがたくエリザベス女王からもらいに行くって図式にリンクする。しかし、クラッシュみたいなストリートのパンクス(騒音)が、この時期にそういう場に――これからそういう状況が生まれる可能性はゼロではないけど――居合わせることはなかったはず。

同曲の歌詞/背景は、ハマースミス•パレイで行われたオールナイトのレゲエ•ショウを観に来た語り手(ジョー•ストラマー)のモノローグ、というもの。パレイのある(あった)ロンドン西部、ノッティング•ヒルを軸とするエリアは、永らくボヘミアンとパンクスと移民カルチャーの混じり合う場所で、ある意味、イギリスの「宗主」である白人側から出て来たジョー•ストラマーが「主流派」と感じられないメルティング•ポット。ミニ•ニューヨークと言ってもいいかもしれない。

しかしジョーが偉いのは、そのライヴから受けた失望を忌憚なく表明しつつ、彼の抱く当時のイギリス社会情勢に対する不満や怒り、パンクへの失意といったトピックにまで視点を広げていき、音とクスリとお酒のもたらす「酔い」が切れる夜明けの訪れと共に、「俺はただ楽しいことを探してるだけなんだよ」と切なく漏らすところだろう。このやるせないエンディングと疎外感は、「パレス」じゃ伝わらないんじゃないか?と思うんですけどね……。

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Mariko Sakamoto について

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