TV round up:Making A Murderer/The Night Of


Making A Murderer (Netflix)
The Night Of (HBO)

今回はテレビねたです。

毎週楽しみにしていた大作な新作SF西部劇ドラマ(いや、実際はこんな要約タイトルで説明のつくような甘っちょろい作品じゃないんですけどね)こと「Westworld」が第1シーズンを完走したところで、お茶の間エンタメも「2016年はここまで」とばかりに冬ごもり状態かもしれない。

たとえば音楽にしても、長いホリデーを含む年末年始と言えばクリスマス需要を見込んだベスト盤やデラックスなボックス再発、確実に売れるベテランの作品だの企画リリースが前面に出てきて、「話題の新譜」はむしろ新年に繰り越される傾向がある。ワクワクする余地はあまりないですよね。つまんない。

もちろん特番にだって「Sherlock」のシリーズ4みたいな「目玉」はある。ただ、イベントTVや芸能人集合ショウ、再放送、「季節の風物詩」なテーマ企画が目につくこのファミリー志向な時期、野心的でチャレンジングな新作ドラマが幕を開ける率は当然低い。

そんな状況も、ネットTVやストリーミング=いわばエンタメ界の24/7なコンビニの台頭で変化しつつあるからいいか…と気を取り直したところで、「Westworld」のレヴュー/感想記の前に、去年の秋口に観て強く心に残ったパワフルな2作品を紹介しておこうかと。「Making A Murderer」は実際の事件を追ったドキュメンタリー、対する「The Night Of」
は創作ドラマ、とジャンルは異なるものの、どちらもある事件を軸に、司法制度と警察のあり方、そしてその複雑な網に巻き込まれた人々のたどる様々な変容を描き出している。

****あらすじや個人的なみどころを中心に書くのでネタバレは回避するつもりですが、もしも「観る前に、先入観は持ちたくない/一切スポイルされたくない!」と感じる方がいらっしゃいましたら:ここから先の文章を読み進めるのはご用心くださ〜い*****

<「Making A Murderer」の予告編>

「Making A Murderer」は、実はオリジナル•オンエアは2015年の暮れな作品だったりする。たまたまこの時期に実際の事件を扱ったトゥルー•クライム作品=ポッドキャスト「Serial」やHBOのドキュ•ドラマ「The Jinx」に遅まきながら感銘を受けていまして:で、「他に、もっとこういうのないかしらね〜?」と痒い背中をもっと掻きたい!とばかりにサーチしていたところに、「The Jinx」等を教えてくれた友人が「だったら次はこれでしょう」と薦めてくれたので「思い切って」観始めたのがきっかけだった。

なんで「思い切って」なのかと言えば、この作品は全10話構成:各エピソードの長さは平均60分強。「The Lord of The Rings」三部作(しかもエクステンデッド版)鑑賞大会じゃあるまいし、そんなに集中して観れるかいな〜、自分?と、やや二の足を踏んだわけです。でも、いったん観始めたらそんな不安は一気に消し飛びました。「この次はどうなる?」が気になって仕方なくなり、「眠いけど、その前に、あともう1話……あともう1話だけ……」の急性ビンジ•ウォッチ(一気鑑賞)症状が出ました。これは各話をサスペンスフルに繋げてみせた、制作者側の全体のペース配分の勝利ですな。

本作のいわば「顔」に当たる主人公は、スティーヴン•エイヴァリーというウィスコンシン出身の男性。2007年に殺人および違法銃器所持で有罪判決が下り、現在も終身刑で服役中の人物だ。しかし本作は、「スティーヴン•エイヴァリーのサーガ」のジェネシスとでも言うべき、1985年に起きた暴行事件から始まる。当時22歳だった彼は同事件の容疑者として逮捕され、証拠は不十分でアリバイがあったにも関わらず有罪を言い渡されて服役。イノセンス•プロジェクトのサポートを得て行われたDNA鑑定により後に人違いの逮捕であったこと=無実が証明され、釈放に至るまでの流れが法廷映像や証拠文書/写真/調書、ニュース映像、関係者のコメント他を通じてあぶり出される。

ここまででもサスペンスフルな「実話もの」としてじゅうぶん見応えがあるのだが、この一種の前振り=歴史的な背景/状況説明を踏まえたところでプレリュードは終了。本編に当たるのは次に起きた殺人事件とそこから広がった様々な波紋だ。二転三転する「事実は小説よりも奇なり」を地でいく展開が、作品にギアを入れ始める。

えん罪の犠牲者として、スティーヴン•エイヴァリーはマスコミの注視を浴びる。同じような悲劇を再び生まないようにとの声から、警察の捜査手続きを見直し修正を加える「エイヴァリー•ビル」なる法案(後に改名された)も制定されたほど。一種の「現代のフォーク•ヒーロー」になったわけだが、濡れ衣で18年間もの歳月を刑務所で過ごし、人生の華とも言える時期を塀の中で失った彼は2003年に出所後、ウィスコンシン州マニトワック群を相手に3600万ドルの不当起訴/損害賠償の訴えを起こす。

しかしその2年後に、スティーヴン•エイヴァリーはテリーザ•ホルバックなる女性の失踪•殺人事件の主犯として逮捕•起訴され有罪宣告を受け、再び刑務所に逆戻りする羽目になってしまう。そこに至る2003年からの10年以上のタイム•スパンを通じ、制作者チームがある謀略説にじわじわ詰め寄っていくのが本作の大きな見どころだ。

その謀略=コンスピラシーの概要をごく平たく説明すると、「えん罪に対する巨額な損害賠償を請求される可能性を前にして、マニトワック群警察と司法勢がグルになり、スティーヴン•エイヴァリーを『口封じ』するべくハメた」というものになるだろうか。権威側が、システマティックに一市民を弾圧する図式――というのはにわかには信じ難い話だし、本当だったら衝撃的。ゆえに「パラノイアじゃないの?」と感じる方もいると思う。だが細かいリサーチと調査、弁護側の得た情報や事実を積み重ねていく実直な作りの本作を観ていると、「もしかしたら?」という疑念が浮かんでくるのもまた事実だ。

実直な作りと書くと、何やらドライで素っ気ない「長ったらしい調書だのビデオ映像、録音テープの積み重ね」というイメージが湧くかもしれない。しかしそれだけではなく、本作には「実在の人々を捉えた淡々ドキュメンタリー」とは思えないくらい、個性豊かで味のある/クセのある/キャラに満ちた人々と、「今の場面、マジ?」と目と耳を疑うような場面や巻き戻してチェックし直さずにいられない発言、驚きな行動の数々が登場する。

もちろん、実際に命を落とした被害者の女性と胸を痛めるその遺族の存在を考えれば、こういう風に書くのははしたないことだなとは、我ながら思う。が、先にも書いたけれど、絵に描いたようなキャラたちが、しかしフィクションではまずあり得ないような「(甘くない)リアルな展開」にぶつかり、希望と絶望に翻弄される様は、呆然とさせられると同時に、どうしようもない磁力を放っている。

そのドラマとしてのパワーの根源は、スティーヴンを筆頭とするエイヴァリー家の面々と、彼らの体現する社会的ポジションが大きい。スティーヴンの父母であるチャック&ドロレスを家長とするエイヴァリー家は、町外れにある40エーカーの広大な敷地で家族•親戚によるファミリー•ビジネスの廃車処理業をひっそり営んできた。トレイラー•ハウス住まいの彼らは、貧しい白人労働者階級そのもの。若い頃から非行を重ねて問題児だった過去をもつスティーヴン•エイヴァリーをはじめ、地元民の間ではあまり評判が良くない、変わりもの揃いなファミリーという位置づけだ。

ここで恐ろしいのは、「貧しい層/社会的弱者に対する疑惑•偏見」というのは、何か機会が生じるたびに首をもたげるものだ……という点じゃないかと思う。2005年にテリーザ•ホルバックなる女性が失踪し、捜索隊が組まれる。後に、彼女は失踪後何ものかに殺害され、遺体は焼却されたとの鑑定が出る。

彼女が行方不明になる前に最後に会った人物とされるのが、中古車雑誌の仕事でカメラマンとして会いに行ったスティーヴン•エイヴァリーだったことから、彼は一気に容疑者として浮上。彼の前歴を考えれば、警察が疑いの目を向けるのも不思議はない話かもしれない。しかし「Making A Murderer」は、警察側が「スティーヴン•エイヴァリーが絡んでいる、あいつは怪しい」という「前提」を受けて、他に容疑者がいるかもしれない可能性を思いっきりすっ飛ばし、彼の有罪を信じ、その検挙だけをネチネチ追求していった様を浮かび上がらせていく。それは、偏見のバイアスと観る側には映る。ホルバック家はいわゆる中流の「普通」なファミリーという立場で、若い白人女性に降り掛かった悲劇に対するコミュニティの怒りの矛先は、煙たがられてきたエイヴァリー家に向けられたことになる。

このバイアスを固く信じているのが、スティーヴンの両親であるチャックとドロレスだ。息子の無実を疑わない彼らは、80年代のえん罪事件はもちろんのこと、そこから20年後に起きた新たな「容疑」に対しても、息子を陥れるべく警察•司法側が仕組んだ罠だ、との姿勢を貫いている。風雨にさらされた岩の塊のように歳月と心労が刻まれたふたりの顔、そして膨大な量の法廷書類や関連証拠文書を保管し訴訟を支援し続けるガッツからは、「子を無条件で信じる親」だけではなく、プアに対するネガな偏見やいじめをくぐり抜けてきた人間の強さが無言のうちに伝わってくる気がする。老体で、杖なしでは歩けなくなった近年の彼らがそれでも息子に面会しに行く姿は、涙なしでは観れない。

この両親をパワフルな軸とする、しかし同時に複雑に絡み合ったエイヴァリー家(従兄弟や義理の家族、甥姪ほか、縁者も証人として事件に大きく関与して話をややこしくする)の織り成す人間模様と共に、もうひとつ、観る側を引き込むのがスティーヴン•エイヴァリーの弁護に当たる面々。

80年代の最初のえん罪事件の頃から現在に至るまで、彼の弁護を担当してきた数々の民間弁護士/法曹界の識者がカメラの前で自らの体験や感慨•見識を述べているのだが、中でも「正義の味方」的に本作でクローズ•アップされ、法廷で展開する複雑な攻防の戦略を観る側に噛み砕いてくれるいわば「橋渡し/ガイド」な存在がディーン•ストラング&ジェローム•ビューティングの弁護チームだ。

被告側が貧しく高額の弁護費用を自己負担できない場合、多くの場合は法廷が選定した弁護人がつくという。しかし捨てる神あれば拾う神――ではないだろうが、非常に不利と見られていたスティーヴンの弁護を、ウィスコンシン州内でも「鋭い」と評判のストラング&ビューティング組が買って出る。もちろん、それを「マスコミ受けする有名な裁判の弁護を担当することで、弁護士の側にも箔がつく=一種の『売名行為』ではないか?」と感じる人もいるだろう(実際、このドキュメンタリーのエンディング近くで、判決を不服として上訴したスティーヴン•エイヴァリーに「えん罪例を得意とする」高名な女性弁護士が援助を申し出る場面が出て来る)。しかし彼らは通常のギャラをおまけしてまでスティーヴン•エイヴァリーの弁護に当たり、恐らく「弁護士としてやるべき最低ライン」以上の、情熱とエモーションに突き動かされた数々の行為をみせてくれる。

なぜストラング&ビューティングの弁護チームが「必要以上」に努力したか?と言えば、その最大の根拠は合衆国憲法で定められている「誰もが公正な裁判を受け、中立な陪審員による審査を受けられる権利」になるだろう。テリーザ•ホルバック事件におけるスティーヴンの逮捕•起訴には、その立件を成り立たせる証拠他をほじくっていくと、捜査の手順における様々なイレギュラリティや辻褄のあわない面、不確実な要素が出てきて、要するに穴が多い。

そこにスティーヴン•エイヴァリーとマニトワック群側との間に起きた過去の因縁を加味すれば、不当逮捕を証明するのは難しいにせよ、少なくともこの逮捕には間違いや不明瞭•不確実な点が多く、そんな「合理的な疑い」だらけの捜査を元にスティーヴン•エイヴァリーを逮捕し法廷に引き出し「殺人者」として裁くのは道理にかなっていないのでは?という彼らの意見•論法には納得がいく。

弁護士チームの信頼を勝ち取ったカメラは、彼らの執拗な調査(私立探偵まで雇って独自の調査を行う徹底ぶり)や証拠を洗い直しするプロセス、記者会見映像やインタヴューを通じ、この事件の奇妙さをあぶり出していく。

スティーヴン•エイヴァリーのかつてのえん罪事件に絡んだ警察の面々が、再びテリーザ•ホルバック事件捜査にも深く関与した謎(ふたつの事件は同州の別の郡で起きたため、管轄違い=両郡警察が共同する必然はない。かつ、マニトワック郡警は当時えん罪事件の損害賠償訴訟に関わっていたため、中立を守るためにもそもそもこの事件に関与すべきではない立場だ)。「決定的な証拠」とされるエイヴァリー家の敷地内に遺棄された故人の車、そして車のキーが発見されたシチュエーションの不自然さ。犠牲者の遺骸とされる焼却された人骨発見とその取り扱いの杜撰さ。何者かによる証拠物件への干渉、DNA血液鑑定への疑問提示……等々、観る側が「バイアスがかかっているのでは?」と感じてもおかしくないほどの警察•検察側の不可解な行動や矛盾点を、両弁護士は次々に暴露•追求していく。

かつ、これは制作側にとっても「予期せぬ」ボーナスだっただろうが――ストラング&ビューティングの弁護チームは、実に絵になる人々だったりする。別にハンサムとかフォトジェニックという話ではないんだけれど、キビキビした佇まいと正義感がにじんでくる人柄、(弁護士なので当たり前だが)滑舌も良く弁が立つ彼らは、「こんな弁護士がいたら頼りになるだろうな」と思わせるサムシングがある。

<「Making A Murderer」発表後の反響を受けて、テレビ取材に応えるストラング&ビューティング弁護士>

特に、スティーヴンの両親への思いやりからもエイヴァリー家の苦難に強いシンパシーを抱いているのが伝わるディーン•ストラングは、アイヴィー調のスーツ姿もなにげにおしゃれ(ヴァンパイア•ウィークエンドのエズラが中年になったらこんな感じ?)でファンのトリビュート•サイト(!)も存在するというし、中には彼らを「現代のアッティカス•フィンチ」と賞賛する声まである。

両者を観ていて自分がもっとも強く思い描いたのは、映画「All The President’s Men」で描かれたワシントン•ポストの記者チーム:ボブ•ウッドワードとカール•バーンスタインだった。アメリカの司法ドラマや映画で弁護士が悪者扱いされることは多いし、「なんであんな卑劣な犯罪者を弁護するのか?」とのヘイターたちのネット上での批判を苦笑いしながら両者が受け流す場面もある。ともあれ、こんな風に正義感に貫かれてがんばっている弁護士さんたちも、現実にはいるわけです。

この弁護士チームのヒロイックな奮闘ぶりを本作における「陽」とすれば、「陰」を担うのはスティーヴン•エイヴァリーの従兄弟であるブレンダン•ダーシーになるだろう。事件発生当時17歳だった彼は、テリーザ•ホルバック拉致•暴行•殺害の共犯者として逮捕される。

逮捕につながる数回にわたった尋問の模様は証拠ビデオとして本作でも何度か登場するのだが、未成年にも関わらず保護者である親の承諾なしに行われた尋問の倫理面の問題はもちろん、「お前がやったんだろうが!(机をこぶしで叩く)」型の誘導質問と、既にできあがった「捜査側のシナリオ」を刷り込むことを狙ったとしか思えない手を替え品を替えの質疑応答の数々は、観ていて吐き気を催すほどにひどい。

彼は発達障害を抱えた若者でIQレベルが通常よりも低く、思考•判断力他に問題があり周囲からの圧力に操作されやすい。その点を考えても、まず「共犯者」として検察側の証人に仕立てられ、しかし途中で証言を翻し、そして自らを弁護する羽目になり……とピンボールの球のように周囲の思惑であちこちにはねとばされ、そのたび自らにダメージを加算していく彼の姿は「生け贄の子羊」にように映る。「母ちゃん、ごめん。オレ、頭悪いから」と繰り返しあやまる彼を相手に苦悩し嘆く母親もまた、大きな犠牲者だ。

観る側の記憶をリフレッシュさせるためのフラッシュバックも交えつつ、作品の後半はスティーヴン、そしてブレンダンの裁判の展開を追っていく。ここでもうひとつ興味深かったのは、陪審制度のあり方だった。人種•性別•職業•年齢他をバランスよく混ぜた顔ぶれが市民から選定される仕組みなわけだが、そのバランスは事件の性質や起訴された側の経験によっても変化する(たとえばの話、子供が殺害された事件があったとして、同じ年代の子を持つ陪審員がややエモーショナルになる可能性が高いであろうことは想像にかたくない)。ゆえに検察側も弁護側も選定過程では慎重に動くし、その緻密さは別のテレビ•ドラマ作品=「The People v. O. J. Simpson: American Crime Story」でも描かれていて、印象的だった。

<「The People v. O.J. Simpson」の予告編。この作品は「自分の曖昧な記憶をリフレッシュしよう」というつもりもあって観たのだけど、ハリウッドやセレブが絡むだけにソープ•オペラな要素が多く、うすっぺらい演技や演出のバカさ&ダサさもあいまって、最後まで観るのが非常にきつかった〜。あくまで「現在に通じるセレブ文化の発端を描いたカリカチュア」として観ればいいのかもしれないけど、ボトックス全開なトラヴォルタやそもそも芸のないデイヴィッド•シュウィマーに真顔でシリアス演技をされても……白けるよね>

そのOJシンプソン事件は「芸能界セレブを巻き込んだ重大裁判」の走りだったわけだが、この事件もまた、マスコミに大いに取り上げられ騒がれ、犯行の残虐性で世論を割った。しかしスティーヴン•エイヴァリーはOJシンプソンのような「ヒーロー」や「人気者」ではなかったし、アメリカが成功した人物や有名人に渡しがちな「免罪符」は、プア•ホワイトで前歴もある彼には許されなかった。

この点はストラング&ビューティングの弁護チームも重々承知していて、「事件の初期段階でマスコミが『スティーヴン•エイヴァリーが容疑者』と報道し、あたかもそれを事実かのように捜査•司法側も公式会見を発表。こうした、テレビ•ラジオ他でいったん吹き込まれたイメージ/先入観を陪審員の頭からぬぐい去るのは非常に難しい」と語る。フーダニットではなく、ホェン?ホワイ?ハウ?を突き崩していくしかない、ということだろう。

ゆえに彼らの戦術は、「警察側がスティーヴン•エイヴァリーをハメるために様々な工作をした」とごり押しするのではなく――どんなに隠蔽や利害関係、結託の怪しい臭いがプンプンしていたとしても、「我々を守るために存在する警察=正しい」という一般的な認識を覆すその説は、警察側の誰かが非を認めない限り立証しにくい。かつ、「日頃身を犠牲にして市民を守っている警察側を侮辱するとは、なんたることか!」との批判も生じ、被告側の心証が悪くなるマイナス結果にもなりかねない――、スティーヴン•エイヴァリーがテリーザ•ホルバックを殺害した、と「断言」できる証拠は検察側にも実はないことを提示しつつ、容疑者は他にもいたかもしれない可能性を示唆し、捜査側が当初からスティーヴンのみを標的にし逮捕•起訴した捜査面における矛盾/アンフェアさを陪審に訴える、という「行間を読んでください」型の弁護になった。

しかし、この件で陪審員に選ばれたものの急病で予備陪審員とバトンタッチしたため判決に加われなかった人物は「一部の人々が最初から一貫して『有罪』を譲らず、彼らが動じないために審議はこう着状態になっていった」との状況を明かしている。ドキュメンタリーとして要領よくまとめられたナラティヴを追っていくだけの我々観る側は、「1+1は2じゃん?」と考えやすい。しかし何時間もの弁論や証拠物件の朗読、長い尋問テープ他を何日にもわたって見聞する義務がある陪審員にとって、新発見や事実も徐々に「馬の耳に念仏」になっていくのかもしれないな、と。

かつ、仮にこの元陪審員氏の受けた「彼ら(有罪派)の決意は既に固まっているようだった」との印象が本当だったとしたら、陪審員に求められる「オープンで中立•利害に左右されない視点から、法廷が提示した証拠や事実のみを検証し判決に至る」というシステムが、なかなか実現化しにくいのも感じる。その一部の「有罪」支持者が意見を頑とし変えないために討議が長引けば、「早く決着をつけたい、家に帰りたい」との疲労感がメンバーの中に生じ、結論に影響していくのも無理はない。そうあるべきではないのだけれど、陪審員も人間なのだ。

最初に述べたように、この裁判はスティーヴン•エイヴァリー側の敗北に終わり、彼は今も服役中だ。現在もなお無罪を主張する彼は「闘い」を諦めてはいないし、「Making A Murderer」という作品そのものに対する少なからぬリアクションも含め、状況は変化し続けている。もしもこの判決が覆されることになったら、彼は「2度もえん罪を耐え忍んだ人物」というになる。言い換えれば、それはアメリカ司法制度が同じ人間を2回も裏切った、ということでもあるだろう。

本作を見終えても、悲しいことに、テリーザ•ホルバックの最期とその真相は「薮の中」のままで終わっている。遺族側には「犯人はスティーヴン•エイヴァリーであり、彼は一生外には出れない。亡き娘に正義が与えられた」というやるせない勝利の思いが残る体験だっただろうし、それをこうして映像作品化されるのは不快なはず。制作者側がホルバック家に取材を求めたか否かは分からないが、恐らく拒絶されたのだろう、肉親を失った彼らの思いや肉声――記者会見他の公式声明や法廷での映像を除き――は本作には含まれていない。テリーザ•ホルバックという女性の人物像は、犠牲者でありながら、焦点のぼんやりした「イメージ」に終始している。

そのある種のバイアスは、しかしどちらか一方の説を信じ、そちらの側に立たない限り深い部分まで明かしてもらえない•カメラを持ち込めない=作品が成立しないドキュメンタリーにつきもののメカニズムなので仕方ないか、とも思う。バイアスという意味で言えば、そもそも編集のやり方次第で観る側にとっての作品の印象も左右されるわけで、警察側の胡散臭い表情や法廷映像に刻まれた怪しげなリアクション、「この人、嘘ついてるんじゃない?」と感じさせる場面のセレクト/並べ方など、作者側の提示したいストーリーに沿った映像は鵜吞みにはできないなと思う(そう考えれば、逆にスティーヴン•エイヴァリーやブレンダン•ダーシーに不利な法廷場面はカットされたのでは?との思いも生まれてくる)。

だが、家族のドラマ、マスコミやローカル•コミュニティの動向、推理やコンスピラシー、テンション高い法廷劇といった見どころもありつつ、「Making A Murderer」という作品が最終的に訴えているのは「もしもこんな事件があなたの身の上に起こったらどうしますか?」という点だと思う。ストラング&ビューティングという有能で良心的な弁護士チームに支えられたことで、スティーヴン•エイヴァリーは――結果的には敗訴だったとはいえ――少なくとも自らの立ち位置や状況、その言い分を公にすることができた。しかし彼のような社会的な弱者の多くは、こんな風に運が良くはないはず。OJシンプソンみたいに金持ちで、高額ギャラの辣腕弁護チームを雇える人は、ごく僅かだろうし。

とてもシニカルに言えば、地方検事側は検挙率を上げて自らの評判•名声をアップさせたいだろうし、法廷が指名した弁護士も(仕事の多さもあって)事務的に事件を捌く方向に動くことがある。大義名分である「正義」や「真実」の追求ではなく、ベルトコンベヤーに乗って「犯罪者を作り出し、処理する」流れ作業めいた図式がある、とすら言える。もちろん、スティーヴン•エイヴァリーの事件は実に複雑で特殊な例ではある。だが、ロクな捜査や弁護の機会も与えられず、法の難しいからくりや司法のデリケートな力関係がよく把握できないままにあれよあれよと有罪を言い渡され、社会の割れ目の底にまで落ちて行ってしまう/突き落とされてしまう人もいるんじゃないだろうか。

*********************************************************************

その「あなたにも起きるかもしれない」というテーマは、「The Night Of」にも強くこだましている。本作は米ケーブル•テレビの老舗HBOの単発ミニ•シリーズで、去年の夏にオンエアされ反響を呼んだ実に秀逸な力作。主演のパキスタン系イギリス人俳優であるリズ•アーメッドは「Jason Bourne」、そして「Rogue One」とこのドラマに前後して話題の出演作が続々と公開され、「Nightcrawler」で良かったのはジェイクだけじゃなかったよね〜!と嬉しくなった抜擢という意味でも、「Four Lions」好きとしても、とても嬉しい作品だった。

「The Night Of」は、タイトル通り、「その次の日(the day after)」ならぬ、「(何かが起きた)或る晩」を主軸に据えたドラマ。その「一夜」は、主人公ナズと、彼がゆきずりの関係を持った女性アンドレアの運命を大きく変える数時間を含んでいる。

ちなみに、この作品には元ネタがある。英BBCが2008〜09年にかけて発表した「Criminal Justice」というドラマ•シリーズ2本がそれで、「The Night Of」はその第1シリーズを下敷きにしている。この第1シリーズは今や人気者のベン•ウィショーの出世作でもあるので、ウィショー好きな方はチェックいただきたいところ。かつ、オリジナルから8年も経った後に生まれた翻案ドラマにも関わらず、「The Night Of」もエッセンスそのものはかなり守っているので、イギリス産のドラマをアメリカに移して作り直すとこうなる、というひとつの例として、比較するのも興味深いんじゃないかと思う。

<ベン•ウィショー主演のオリジナル版「Criminal Justice Series1」の第一話>

その英=米の比較•違いに関する話は後に回すとして、まずは「The Night Of」の概要を。お話は、ニューヨーク:クィーンズで親と暮らすごく普通の大学生ナジーア(ことナズ)•カーンが、知人のパーティに顔を出すべく、ある晩タクシー運転手である父親の仕事車両を無断で拝借し、夜のマンハッタンに繰り出すところから始まる。移民家族ゆえに門限やパーティ等々への規制も厳しく、それでもちょっとは羽目を外したい――年頃の若い男性が、両親が寝静まった後にこっそり車を借用してどこかに出かけ、仲間とつるんでお酒や女の子とのやりとりを楽しんだ後、早朝に家に帰ってベッドに潜り込んで素知らぬフリ……なんてのは、人畜無害なエスケープ。程度の差こそあれ、外泊他で親にちょっとしたウソをつくくらい、誰もが若い頃には何度か経験する話だと思う。

しかしこの「軽い出来心/日常からの一時的な離脱」は、ナズをとんでもなく重く暗い旅路に引きずり込んでいく。道に迷ってタクシーを流していたところに飛び込んできたのが、アンドレアというキュートでミステリアスなゴス系ギャル。彼女の奔放で世慣れた魅力についフラッとなったナズは、深夜のドライヴとドラッグ、そして彼女のアパートでのセックスへと流れていく。しかし慣れないドラッグとアルコールで前後不覚になっていたナズが目を覚ますと、アンドレアは血まみれの死体になってベッドに横たわっていた。

偶然出会った可愛い女の子と、一夜のアドヴェンチャーを共にする――そんな一種の「アーバンな夢物語」めいた「天国」から、文字通り「地獄」へ急転直下。死体にパニクって逃げ出すものの運転事故で警察に摘発されたナズは、不利な状況の数々に退路を塞がれたたちまち事件の容疑者に。彼の足下に成す術もなく広がっていく亀裂の数々とそのディテールを、ドラマは追っていく。

逮捕され尋問を受けるナズは、警察と司法側のそれぞれの思惑に揺さぶられる。凶器、指紋、ベッドに残った精液、不振な挙動etcの圧倒的な状況証拠の数々を前に検挙をチラつかせ、自白を引き出そうとする警察。対して黙秘を貫き、刑期をどこまで縮められるか割り出した上で検察側と「駆け引き」するのが「得策だ」と説得する弁護士。ナズ本人の「記憶がないし、目が覚めたら彼女は死んでいた。それが自分の『真実』だ」という声は、究極的には「勝ち負け」の世界である検察/弁護サイドのゲームのロジックに掻き消されていく。

言い換えれば、理解し納得できるストーリー•ラインや動機、ニートな結末を求める人間の自然な欲求を前に、ナズの「何があったか分からない、でも自分は彼女を殺してはいない」というブラックボックスな主張は、不都合でとりとめがつかなく厄介。それでも法という名の固い箱にこの事件を収めて「処理する」には、「女性に暴行し、その上で惨殺した」という捜査側なり弁護側の明快なナラティヴに(たとえ不本意であっても)彼が協力することが求められる、ということ。

この作品では、拘置所に毎晩通って逮捕者に名刺をバラまきクライアントを探す弁護士と、彼を必要悪と認めている警察側との一種の「馴れ合い」とも言える共存関係や、被告が無罪を主張し裁判にもつれこむとお金がかかるので地方検事は喜ばない(ので、ウソでも有罪を認めて情状酌量してもらえば、「よしよし」とばかりに刑期が減らされる)……といった裏事情も登場する。敵であるはずの検察と弁護士とが、お互いの情報や戦略を図り合う場面も出て来る。

そう考えれば、「The Night Of」のナズとアンドレアは、既にプレイヤーの決まっているゲームに放り込まれ、彼らがその一試合で勝つか、あるいは負けるか?を決するコマ=歩兵にも見えて来る。しかし歩兵が死んでも、投獄されても、その「大きなゲーム」は繰り返される。歯車が欠けても、機構そのものは動き続ける。法が負けることもあれば、勝つこともあるだろう。しかしそのゲームの根本にある「正義の追求」という大義よりも、「システムが機能すること、そしてそのメカニズムを維持すること」そのものがプレイヤーたちの存在意義、あるいはメインの目的になってしまうと――っていうか、犯罪者がいなければ、警察も司法も弁護士も、仕事がなくなって嗚呼大変!でしょうしね――「負けることが勝つこと」という転倒も、時に生じる。今回の対戦では涙を呑んで負けてあげたけど、そのぶん、次のゲームで貸しがあるからよろしくね〜というのは、たとえば取引のある会社間のやりとりでも普通に生まれる、持ちつ持たれつな「さじ加減」感覚じゃないだろうか。

いささかシニカルな書き方になってしまいましたが:そんな一種のルーティンに慣れてしまった警察/司法のスタンスを背景に据えたところで、本作はナズというユニークな存在が投げかける波紋とそこから生じる変化を描いていく。身に覚えのない有罪を認め、「法的な取り引き」に応じることにどうしても納得できないナズは、あくまで自分にとっての真実=無罪を主張するいばらの道を選ぶ。

その、ある意味お利口ではない=無垢な/無謀とも言える決断は、しかしポジとネガの両面を彼にもたらす。ポジ効果は、「冷血で残虐な殺人者」という犯人のプロファイルにどうにも合致しない好青年ナズ――前歴はなくウブで、勤勉実直な家庭に育った頭のいい大学生――の「不可解さ」ゆえに確信が持てず、検挙に躊躇してきた事件主任のベテラン刑事&検事、およびベテラン弁護士らを奮い立たせる点。長らく犯罪者に接してきた面々のカンと嗅覚とに「シロ」と映るナズと彼の無実の主張は、彼らの中にあったシニシズムの壁に割れ目を走らせ、事件がじっくりと審理されるプロセスを引き出すことになる。

ネガ効果は、裁判にもつれ込んだために、ナズが悪名高いライカーズ刑務所に勾留される点。ニューヨーク市最大の刑務所であるこの矯正施設は、近年囚人の扱いや所内の腐敗が報じられてもいる。もちろん本作はフィクションなので、「現実」にどこまで近いか?は判断しがたい。が、刑務所暮らしはもちろん初めてで、所内の暗黙の掟やヒエラルキーにまったく疎いナズは、さながらジャングルに放り込まれた手も足も出ない子供。様々な出会いや体験、強烈な教訓を通じ、彼が作品冒頭で見せていた無垢さをひとつ、またひとつ……と失い、絶望のうちにタフな表層をまとっていく展開は、「いじめられた弱者が、知恵と勇気で這い上がっていく」型の監獄もの作品のクールさと同時に、苦い悲しみを残す。

その意味で、リズ•アーメッドのキャスティングは見事だったな、と。もともと繊細な美形である彼は、夢と希望にあふれた無邪気な子鹿が、運命的な「あの晩」を境に、裁判や刑務所での生存劇を経て逞しい角を生やした牡鹿に変貌していく様を体現。もちろん筋トレや剃髪といった「ヴィジュアル面での変化」も作用しているとはいえ、オリジナルの英国版で同じ役をこなしたベン•ウィショーが「使用前/使用後」の変容を演じるのに内面演技にフォーカスしていたのに較べ、リズ•アーメッドは血統のいい子羊にも潜在的に宿っている「悪の芽」が、生き残りを賭けたタフな環境の中で萌芽していく(萌芽せざるを得ない)辛さと怖さをありありと感じさせた。プリズンもので言えば、その脆さと危険性の共存は「Un prophète」のタハール•ラヒム、「Starred Up」のジャック•オコネルを思い起こさせる。

<本作関連のプロモでチャット番組に出演した際のリズ•アーメッド。米メディアではまだなじみが薄いと思われる「ブラウン•フェイス」をリペゼンしてます&最後にはラップも披露>

キャスティングで言えば、「The Night Of」は、妙な味のある弁護士:ジョン•ストーン役のジョン•タトゥーロも非常にナイスだった。このキャラは――いわゆる「すれからし」とでも言うのでしょうか?――法廷という「シアター」のからくりを隅々まで知り尽くしているがゆえに一本釣りではなく底引き網業=デイリーな犯罪弁護専門で、マスコミに注目されるような「グレードの高い大事件」とは縁のない三流と思われている人。「Better Call Saul」のソール•グッドマン、あるいはブラックジャックめいた、白黒混じった=善悪の境界線が曖昧なアウトサイダーなキャラ……なんだけど、ナズの存在に触れ、彼を通じて一種の「希望」を見出し、人間性を取り戻していくのが見物だ。

元々この役をやるはずだったジェイムス•ガンドルフィーニが急死したために、企画は一時期頓挫。最終的に、彼の友人でもあったジョン•タトゥーロに白羽の矢が当たった(ゆえに、本作のエグゼクティヴ•プロデューサーとしてガンドルフィーニもクレジットされている)という裏話もあったそうだが、亡き友人の遺志を継ぐ演技は彼の久々の当たり役じゃないか?と思う。英国版でこの役を演じた俳優:コン•オニールも悪者なのか善人なのか、簡単には尻尾を掴ませない両方の味を持つ達者な人だけど、世慣れた皮肉屋なのか、それともまだ正義に対するパッションがちょっとは残っているのか? 信用できるのか、こいつ?と、玉虫色の微妙さでハラハラさせてくれた。

ついでにもうひとつキャスティングについて触れると、リズの「保護者/教育係」になる刑務所の影の実力者:フレディ•ナイト役で、マイケル•ケネス•ウィリアムスが登板しているのも実に嬉しい。この人は様々な映画出演でも知られているとはいえ、いまだに「代名詞」とされる役と言えばHBOの名作「The Wire」で演じたカリスマティックかつ複雑な陰影に満ちた義賊ギャング:オマーだろう。

<「オマーの野郎が来たぞー、用心!」――というわけで、「悪い奴ら」から利益をかすめ取り、コミュニティに還元していくアーバン•レジェンドことオマー•リトルの印象的な登場シーン。このキャラはゲイで、その意味でも――ギャングスタでゲイと言えばロニー•クレイしか浮かばなかった程度の自分には――かなり衝撃的でした>

その意味で、彼の起用は一種の「ステレオタイプ」なのかもしれない。けれど、彼が登場するだけで画面とストーリーにリアルな重みとマジックの電気が宿るのは間違いない。英国版ではこのキャラは名優:故ピート•ポスルウェイト(世話役/知性)とデイヴィッド•へアウッド(保護者/権力)の2名が演じているんだけど、似ているようで微妙に異なる両者のキャラ&スタンスをひとりに統合しても破綻のない、うならされる演技だった。

リズの運命は、果たして……? というわけですが、ストーリーの展開とエンディングについては、ここではこれ以上明かさないでおこうと思います。日本で放送されるかはどうかは分からないけれど、警察•司法の動き、法廷の駆け引き、刑務所のサスペンス、そして何よりキャラたちがそれぞれに潜る経験とトランスフォーメイションの数々と、テンションの高いドラマに彩られたこの作品は見応えがある。犯罪がドラマのエンジンである作品の多くがそうであるように、女性キャラたちの描かれ方には若干の不満や「えー、それってアリ?」と感じる面も含まれるとはいえ――根幹のテーマはずっしり重い。機会があったらぜひ、実際に「手に汗握りながら」観ていただきたいです。

最後に、英国版「Criminal Justice」と「The Night Of」の比較も軽くしておきます。先にも触れたように、要になる役柄に演技力の確かなアクターたちを据えたキャスティングはどちらも甲乙つけがたい――が、まずもってオリジナルは5話なのに対しアメリカ版翻案は8話と、尺の違いはやはり大きい(かつ、結末にも異なるひねりが加わっている)。US版を観た後に、さかのぼってUK版を観たクチなのでそんな感想が浮かぶのかもしれない。が、短いぶんBBC作は駆け足気味で、キャラたちを充分に膨らませる余地がないのはもったいなかったな〜、と。

アメリカ版はリズの家族の受難(貧しい家庭ゆえに、両親は弁護費用の工面に四苦八苦する)をより立体的に描いていて母親像も肉付けされているし、捜査の過程や法廷劇の複雑さも丁寧にフォローされていて飲み込みやすい。刑事デニス•ボックスと弁護士ジョン•ストーンの人間的な内面も掘り下げられているので、ただ「クセと味のあるキャラ」というだけではなく、彼らがなぜナズに「賭けたく」なるのか、その動機がオーガニックに伝わってくる。

また、撮影や演出、プロダクションといったトータルな面でも「The Night Of」の質の高さに軍配を上げる。これは夜の場面やニューヨークの街路、ひんやりした画面といったトーンや質感に対する個人的な好みもあるだろうし、8年前のドラマがやや古臭く見えるのは当然……とはいえ、カメラのフレーミングや動き、照明、編集、音楽の使い方といった細かな点も含めて「The Night Of」は映画的=「絵で観せる」ことでストーリーを綴っていくのに対し、BBC版はやはり演技とダイアローグ重視なテレビ•ドラマ然としている。

一方で、エピソードを延ばすべくHBO版に加わったプロットには未消化に終わったものもあるし、キャストの中ではもっとも有名なジョン•タトゥーロの登場場面を増やすべく(?)、彼のキャラを広げ過ぎ&いじり過ぎでは?と感じる「ちょっと贅肉」と思える箇所もあった。また、アンドレアの殺され方がもっと残虐だったり、刑務所内でのいじめや暴力描写もぐっと凄惨、セックス•シーンも増えている=平たく言えばエログロやサスペンス値が高められているのは、イギリス•ドラマの節度をそのまま持ち込むと、アメリカでは「パンチが弱い」のかな?とも。ストーリーやテーマといった核は同じ2作ながら、公共電波であるBBCと基本的に「大人向けの有料局」であるHBOの体質の差が出た、とも言える。

この「大人っぽさ」のもうひとつの要因は、「The Night Of」の監督スティーヴン•ザイリアンと共同で脚本を担当したリチャード•プライスの存在だ。リチャード•プライスは、脚本家というよりもニューヨークを舞台にした犯罪小説の数々で知られる人気小説家としての本業の方が有名かもしれない。とはいえ処女作「The Wanderers」をはじめ「Clockers」など映画化された作品も多いし、スコシージの「The Color Of Money」や先述の「The Wire」他でも脚本を担当した経験があり、映像界との縁は深い。

彼の小説は喚起力の高いストリートの光景やコミュニティ観察、人物描写に満ちているし、歯切れが良くドライな会話の叙述も実に見事。というわけでそもそも「映画/テレビ向き」な作家なんだけど、無実の罪で追いつめられるキャラというモチーフがかぶっている「Lush Life」をはじめ、もっかの最新長編である「The Whites」で警察をヴィヴィッドに描いた手腕など、このドラマは彼にとってはいわば「お手の物」の題材。それでもオリジナル版に対する敬意は払っていて、作品の「骨格」はちゃんと維持した翻案になっているのは紳士的で素敵だなと思う。

しかし随所に挿入されるリチャード•プライスらしい「味付け」は、「The Night Of」を単なる外国産ドラマのリメイク、あるいは借り物ではなく、モダンなアメリカン•ストーリーとしてきっちり立たせている。

たとえば、主人公をパキスタン移民に変えた点。これはオリジナル版の設定である「タクシー運転手の息子」というのが、今のニューヨークが舞台のドラマにおいて白人では不自然だから(=キャブ•ドライヴァーは主に移民系の仕事)、という現実を鑑みての判断だったという。ゆえに作者側の意図的な「変更」ではなかったとはいえ、この役をイスラム系に変えることで、奇しくも現在のパラノイアや差別の構図を浮かび上がらせることにもなっているのはタイムリーだ(それに合わせ、犠牲者の女性も原版のアフリカ系から、アメリカ版ではリッチでスポイルされた白人に変わっている。こうした「異人種間の犯罪」は、「異人種間の恋愛」同様、いまだに社会的に大きなタブーなのでしょう)。

アメリカ版のオリジナル要素としては、刑務所内でナズを鍛える師匠=フレディ•ナイトが、ジャングルで生き残るための哲学書としてジャック•ロンドンの「野生の呼び声」を持ち出すモチーフも印象深かった。こうした、一見ストーリーとは直接関係のない細かい積み重ねが、フレディのキャラに奥行きをもたらすのはもちろんのこと、彼とナズとの間に流れる共感•友情を観る側が理解する手がかりにもなる。

警官や囚人たちのダイアローグも活き活きしていて、「こんな感じなんだろうな」と思わせる(リチャード•プライスの小説で何度が登場した比喩表現が、そのまま台詞に使われているのにもついニンマリ♪してしまう)。イスラム系だけではなくアフリカン•アメリカン、チャイニーズ他の多彩なコミュニティ像も混じってくるし、クィーンズからハドソン川、アッパー•ウェストサイド、刑務所に裁判所と、貧富や階層の差が混在するニューヨークという大都市の様々な表情が映し出されるのもいい。

「ニューヨーク」というトポロジーを活かした点は、オリジナル版が「イギリスのどこかの街」(車で夜のブライトンに繰り出す場面が出てくるので、「ロンドン近圏〜イギリス南東部なのだろうな」と察しはつくが)というやや曖昧な設定だったのとは対照的だった。イギリスには「ストリート」が存在しないという意見があるけれど、ニューヨークの街路を隅々まで知り尽くしたベテラン作家の敏感な目と耳は、原作である「Criminal Justice」の普遍的な物語=「罪と罰」を描きながら、同時に「The Night Of」に豊かなニュアンス/地方色をもたらしてアメリカの文脈に置き換えている。こういう消化ぶりは、讃えたいです。

カテゴリー: TV | タグ: ,

Beat of My Own Drum: 98.Elliott Smith (Either/Or)


発売20周年を記念して、エリオット•スミスの傑作サード「Either/Or」が拡張版エディションとして再登場するそうです。

詳細はリリース元:Kill Rock Starsのプレス•リリースを参照いただければと思いますが、3月10日リリース予定のこの作品は①ラリー•クレイン監修の元にリマスタリングされたオリジナル•アルバム、そして②貴重なライヴ音源やボーナス•トラックを収めたディスク2から成る2枚組。楽しみです。

カテゴリー: beat of my own drum, hall of dudes, music | タグ: | 2件のコメント

Beat of My Own Drum: 97.The Necessaries


2月にザ•フィーリーズの6年ぶりの新作「In Betweenが発表される運びになりました。こちらは日本でも3月に流通するそうなので嬉しい話です&ファンの方はお楽しみに!

この朗報にちなんで、今回はフィーリーズ好きならきっと心に引っかかるであろうトラックを。ザ•ネセサリーズの編集盤アルバムから、こちら。

<オリジナルのデビュー作はサイアーから1981年に発表。この画像に映っている「Event Horizon」はファーストの内容に一部手を加えた後発盤な内容ながら、アルバム•ジャケットのデザインが実に「この時期」っぽくて捨てがたい魅力があります。かつ、フィーリーズの1枚目のジャケと地(空?)続きな印象すら>

ザ•ネセサリーズは元モダン•ラヴァーズのアーニー•ブルックスを軸とするポスト•パンク•バンドなので、フィーリーズとの音楽的なシンクロも不思議はないかもしれない。しかしこのバンド、本当の目玉はアーサー•ラッセルがキーボード他で参加していた点だろう。冒頭の彼のヴォーカル(&バッキング•コーラス)およびキーボード•プレイが実に素晴らしいこのトラックも、ついでにどうぞ。

ネセサリーズを突如脱退したアーサー•ラッセルは、しかし既にロック/ポップを越えてディスコに向かっていた。82年にはこの楽曲を発表と、この人のクリエイティヴィティは速過ぎますね。脱帽…。

<フランソワ•ケヴォーキアンのミックスでどうぞ!>

カテゴリー: beat of my own drum, music

Beat of My Own Drum: 96.The Triffids


カテゴリー: beat of my own drum, music

お知らせ:ele-king vol.19


今回は業務報告です:本日発売の紙版ele-kingの年末号に寄稿させていただいています。
興味のある方はこちらのリンクをチェックくださいませ&書店で見かけたら手に取ってみてください。巻頭取材はブライアン•イーノ、同誌のセレクトした年間ベスト作品も掲載されているそうなので、読み応えはたっぷりかと。

カテゴリー: book, film, music

ヴァイナル革命イン•ザ•UK(ってほんと?)


img_4804

某スーパーのアナログ•コーナーはこんな感じ

某スーパーのアナログ•コーナーはこんな感じ

「イギリスにおいて、アナログ盤の売り上げが初めてデジタル•ダウンロードの売り上げを上回った」――という報道が数日前にありまして。

いまや英音楽チャートには「レコード盤の売り上げカウント部門」まで別個に存在する時代。そのニュースに触れて「ヴァイナル•リヴァイヴァルはまだ続いているんだな〜」とレコード派の人間としては嬉しかったんですけど、その後のフォローアップ的な、あるいは反論めいた記事をいくつか読んでみて、ちょいと複雑な気分になった。

まずひとつは、この統計がとある時期に絞ったものである点。イギリスにおけるアナログ盤の年間売り上げはここ数年上昇が続いているので、普及•浸透度が高まっている、というのは、まあ間違いない。しかしここでニュースになっている数字はいわゆる「ブラック•フライデー」に乗っかったクリスマス商戦を軸とする時期のもので、「おじいちゃんお父さん世代へのプレゼント」としてレコードがヴォーグになっている、という風に解釈•分析することもできる。

あと、こちらにリンクする記事にも詳しく述べられているけれど、アナログ盤はまずもって単価が高い。ここで例に引かれているケイト•ブッシュのライヴ盤は、アナログだと52ポンド、デジタルだと12ポンドと、4倍以上(!)の値段格差があるそうだ。そう考えると、「売り上げ収益」と「売れたユニット(作品)数」のふたつは、どちらも数字でありながら、イコールで結びつけるのには無理が生じる。

この文章の冒頭に引っ張ったニュースの見出しだけ読むと、イメージとして「そうか〜、今のイギリスではレコード買いが盛んなんだ」という印象を受けるんじゃないだろうか。しかし、それはある意味数字のマジック。グライムからポップまで幅広く、様々な新譜がレコードという媒体で購入されているのではなく、一部の高価なアイテムがマーケットを引っ張っている、というのに近いだろう。

ケイト•ブッシュの新作というの自体、そもそも「おじちゃんお父さん世代」をターゲットにした格好のギフト•アイテムだ。かつ、若者はダウンロードからストリーミングに移行している……という要素も加味すれば、いわゆる「ヴァイナル•リヴァイヴァル」はどこまでほんとなの?との疑念も湧く。いや、実際に起きているんだけど、それを主導しているのは、一部のコレクターや金銭的に余裕のある層ではないか?と。あんまり民主的には思えない。

そのイメージに輪をかけるのが、上記のリンク記事の主旨とも言える、「弱小のインディ•レーベルはアナログ•ブームの恩恵を受けていない」という側面。これはレコード•ストア•デイでも近年よく指摘されていることなんだけど、メジャー•レーベルや「二軍メジャー」に近い大手インディが人気アイテムをプッシュするせいで、旧作カタログやスター•アクトを持たない歴史の浅い/小規模のインディ勢はせっかくアナログをプレスしても売りさばきにくい、という構図があるらしい。

ぶっちゃけ、その意見には被害妄想もやや混じっているのでは?とも感じる。というのも:いくらレコード派な自分にしても「何がなんでも、すべてをアナログで持っていたい」とまでは思わないから。ヴァイナルで買って聴きたいとまで思わされる作品と、CDやストリームで充分、と判断できる作品との間にはミゾがある。そのミゾ〜分水嶺は聴き手それぞれの感性や思い入れ次第なので違いがある=曖昧でなかなか数値化しにくいわけだし、ゆえにブームに乗っかってどの作品もとりあえずアナログ盤を、とギャンブルに出るのは違うんじゃないかと。

以前、再発レーベルが「リクエストにお応えしてオーダーメイド的にプレスします」という企画をやっていて、長らく廃盤でCD化すらされていなかった、でも大好きな作品を買うことができで嬉しかったのを思い出す。その意味で、新人や若手を抱える小規模レーベルは(面倒くさいだろうけども)まず作品をリリースし、その上で「このアルバムが好きなのでアナログで買いたい」という一定数のプレッジを募り、そこで希望枚数を見極めた上でヴァイナル化する方が安全なんじゃないだろうか。日本の業界努力=レコード探検隊とか秘宝館を見習いましょう。

なーんて偉そうに書いたけど:実情は知らないので、あくまで「外野の意見」です。上記の記事を書いた方は実際にレーベル経営者なので、そっちのリアルで切実な声は無視しないでくださいね&インディ•レーベルの未来のためにも、なるべく身銭は切りたい。それ以前に、「レコード•ストア•デイ」という名称(イギリスではレコード屋は「レコード•ショップ」と呼ばれます)、そして「ブラック•フライデー」といったアメリカ的な消費/マーケティングな概念自体、イギリスではやっぱりどこか異物感があるので、もうちょっと自前でオーガニックな方向にシフト•チェンジしてくれればいいなあと。上記の記事にもあったけど、「年に1度か2度のお祭りに参加」としてではなく、もっと普通に、日常的にレコード屋に足を運んでほしい、ということです。

そんなことをつらつらと考えながら、ちょい遠いのでたま〜にしか足を運ばない大型スーパーマーケットに行ったところ、ここでもレコードが売られていた。日常的……と言えば日常的なシチュエーションなんだけど、ラックに並んでいるのは当然のごとくヒット作や評価の定まったクラシック作ばかり(ビートルズ、ツェッペリン、フリートウッド•マック、ニルヴァーナ等々)。クリスマスに向けて七面鳥だのシャンペンだのをがやがや買い物している人々や買い物カートでごった返す売り場の中で、ここだけ奇妙に「時間が止まっている」感じがあった。しかも、決して安くない(=ある程度レコード買いに慣れた人なら、まず手を出さない価格設定)。誰が買うのだ?と、疑問の方が募った。

安売りで庶民に人気の別口なスーパーのチェーンでも、ここ最近30ポンドでポータブル•ターンテーブルが売りに出されている。スピーカー内蔵型で音もしょぼいチャチなやつだけど、子供が「音が出る奇妙なプラスチックのお皿」を試しに実践してみるには、あるいは「ターンテーブルはもう手放してしまった」老年世代がレコードと再会するぶんには、充分なのかもしれない。

こうした「いったん息絶えたメディアの再生」というノベルティ性は、ある程度の間は消費者の興味を惹くのだろう。けども、その新奇な魅力がいずれ薄れたところで、「音楽をレコードで聴く」といういささか面倒くさい(しかしスマホやヘッドフォンとは違う)リスニング•スタイルや美学そのものは、若い世代にどこまで定着しているものなんだろうか。この先はどうなるのかなぁ……と、なんかもやもやしながらスーパーを出て、しばし木枯らしに吹かれた。

カテゴリー: music

Beat of My Own Drum: 95.The Byrds


ちょっとした整理整頓をやっている今日このごろです。中年になるとやっぱりこう、脂肪やたるみといった身体的な累積はもちろんのこと、物質やメンタル面でも「様々な堆積」が生まれ/生じてしまう。記憶への固執というのも、そこには多く含まれていると思う。

ところが:歳をとることの良さのひとつとして気づいたのは(っていうか、そうやって自分の老いを納得させてるだけかもしれません)、「忘れたくない」としがみついていた特別な何かというのは、ザブザブ洗っても、土砂に埋もれて角が多少削られても、ちゃんと残っているものだ……と気づかされる点。ちょっと大袈裟に響くかもしれないけど、自分の血肉になっていれば忘れないんだな〜、と。

というわけでちょっと安心して、そうしたメモリーのもろもろを少しずつ解除し、空いた隙間に新たな理解や知識を埋め込んでいる次第。面白いもので、若い頃は「目に見えるもの」、すなわち好ましいと感じる様々な概念や美学を凝縮したプロダクト(たとえば香水とか。映画や音楽作品でもいい)を実際に手にし所有することでそれがひとつの自己表現になっているのだ……と思っていたもの。だけど、その背景にある概念を把握してしまえば――いくら表層やパッケージが変化しても関係ないんですよね。

そんなことを考えるきっかけになったのが、ザ•バーズ。整理整頓作業をやっている中で、20代の頃に買い、取り憑かれたように聴いたCD4枚組ボックスに行き当たり、これは処分すべきか否か?と、かなり悩んだのです。どっちの結論に至ったかはさておき、このボックスを当時の自分にとっては大枚をはたいて購入した甲斐があった!と思わせたトラックのひとつを(シングルとして発表されたので、オリジナル•アルバムには未収録)。

<何度聴いても色あせない曲です>

ザ•バーズはどの時期も愛すべき側面があるバンドなんだけど、ジーン•クラーク、デイヴィッド•クロスビー、グラム•パーソンズと、スタイル面での変化に伴いメンバーも変化し、途轍もないソングライターたちを一時的にではあれラインナップに組み込んでいた点はとてもユニークだと思う。フォーク•ロック然とした前期、カントリー〜ルーツ•ロックンロールに推移していく後期も好きだが、おそらくザ•バーズが「音楽集団」としては混沌としていた中期=「Younger Than Yesterday」と「The Notorious Byrd Brothers」の2作は、前掲のクロスビー作曲「Lady Friend」はもちろんのこと(「Triad」や「Everybody’s Been Burned」も必聴)、地味ちゃんなクリス•ヒルマンの貢献も冴えていて、やっぱり、もっとも好きな頃だったりします。

カテゴリー: beat of my own drum, music | タグ: