TV roundup:True Detective SE3/The Virtues


True Detective/Season3 (HBO)
The Virtues (Channel4)

前回のTVRUに続き、「男はつらいよ」テレビ・ドラマのご紹介。たまたま今年オン・エアされただけで制作会社も米英に渡っていて一切関連はないんですが、「Mindhunter」同様どちらも魅せられる/見せる秀作で心に残ったので、書いておこうと思います。興味を殺いでしまう類いのネタバレなしを目指して、がんばりまーす。


<オープニング・クレジット>

まずはHBOに4年ぶりにリターンしてくれた「True Detective」の第3シーズン。「True Detective」のシーズン1は本ブログでも取り上げましたが、実はシーズン2も観ていたものの、こちらは書き損ねてました。で、「True Detective」はシーズン1の評価&インパクトがすさまじかった反動もあって、シーズン2というのはかなりこきおろされ批判された賛否両論ドラマだったりします。受け手側の期待値が高過ぎた、ということでしょうかね。

でも、自分はシーズン2は割と楽しんだので、当時のネット等での反応・評判には「そこまでそっぽ向けなくたっていいじゃん……?」という印象だった。書き損ねていたのは、何が理由だったか覚えてません。が、少なくとも自分は「ラスト&マーティを出せ!」的な、シーズン1との連携を求める思いは抱かなかった。そもそも「True Detective」はタイトルこそ同じだけど、シーズンごとに主役やストーリー、設定が変わる「単発ミニ・シリーズ」〜アンソロジーというコンセプトなので、マーヴェル・シネマティック・ユニヴァースではあるまいし、まったく違う話に変わっても別にオッケーなんです。

確かに、カリフォルニアに舞台を移したシーズン2は、メインの捜査官を2人から3人に増やしたのは野心的だったとはいえ、逆に各人の抱えているトラウマの掘り下げが中途半端になりがちだったし、ストーリーも破綻気味だった上に「カリフォルニア・ノワール」を目指したからか(?)、エルロイ、ポランスキー(「チャイナタウン」)、フリードキン(「LA大走査線/狼たちの街」)、デイヴィッド・リンチ(「ツイン・ピークス」、「マルホランド・ドライヴ」etc)あたりへの意識というか、気負いが多過ぎという印象はあった。いちおうメイン役であるコリン・ファレルの演じるレイはともかく、残る主要キャラたち(レイチェル・マカダムスのアニー、テイラー・キッチュのポール、そしてヴィンス・ヴォーンのフランク)の造型が浅いのでエモーションの面でいまひとつのめり込めず、ゆえにストーリーの展開に無理を感じてしまう面も気になった。何より、いい女優さんのケリー・ライリーの使い方がどうしようもなかったのには、落胆を越えてうっすら怒りすら(笑)感じましたし。

それでも、いい瞬間は色々とあったし(メインのテーマ・ソングがレナード・コーエンなのは渋いぜっ)、何より、00年代に入って以降優れた仕事が続いていて、10年代にはヨルゴス・ランティモスと出会い更に勢いを増しているコリン・ファレル、彼の実は繊細な演技をたっぷり楽しめるので、それだけでも自分的には全然御の字。また、シーズン2でもっとも「ミスキャスト」と批判を集めたヴィンス・ヴォーンは、力み過ぎで作品のトーンを読み違えていた印象で、確かに「True Detective」では光り損ねていました――が、「Bone Tomahawk」でB級ジャンル映画好きを仰天させたS・クレイグ・ザーラー監督と組んだ「Brawl in Cell Block 99」での演技はすご〜く良かった。ので、あれはたまたま作品と相性が悪かった、ということなのでしょう。


<「Brawl…」の予告編。ドン・ジョンソンにウド・キアーも出てるので、B級好きな方はぜひぜひ>

そんなわけで、「True Detective」の脚本家/クリエイターであるニック・ピツォラットにしても、シーズン1の天国から地獄に突き落とされたようなこのシーズン2の「失敗」は、おそらくかなり痛かったんでしょうね。作品を観ればなんとなく分かるけど、根に持って考え込んで「ああしていれば、こうしていれば……」と悩むタイプの作家さんなんだと思います。というわけで、2014、2015と畳み掛けてきた「True Detective」にもちょっとギャップが生じて、この間に戦略の練り直しや色んなソウル・サーチングがおこなわれ、今回はベテランのデイヴィッド・ミルチが脚本に参加することになったのではないかと。とりあえず、HBOがこのフランチャイズを見捨てなかったのは偉い!と思うし、かつ、この第3シーズンはシーズン1に迫る濃い内容になったと思う。

その「仕切り直し」がもっとも強く反映されているのは、シーズン3の基本設定だろう。舞台はアーカンソーのオザーク圏に設定されていて、カリフォルニアから再びアメリカ南部(シーズン1はルイジアナ)に。「ムーンライト」「グリーンブック」で大ブレイクのマハーシャラ・アリといまやベテラン:スティーヴン・ドーフが主役級のふたりの捜査官を演じて看板を背負っているし、現在と過去とを行き来する構成もシーズン1を踏襲。シーズン1でヴューワーを熱狂させた「尋問シーン」も、そのヴァリエーションも含めて再登場することになった。ある意味このシーズン3は、ファンたちに対する「we heard you!」のジェスチャーでもあるのではないかと。シーズン1のファンに対するイースター・エッグまで隠されてますしね。

てなわけで、シーズンの最初のエピソードは「ああ、さすがの『True Detective』も、外野の声は無視できなかったんだな」な〜んて感じてたんですが、ジクジク考え込むタチのピツォラットらしく(?)、単なる二番煎じではなく、タイムラインの往復というこの仕掛けを更に複雑にしているのは意地を感じる。物語のきっかけになる迷宮入りの児童失踪事件が起きた1980年、その再捜査がおこなわれた1990年にフラッシュバックし、そして現在(2015年)のストーリーが進行するという具合で、3ディケイドをまたいでいてかなり複雑。しかもそのジャンプぶりも激しくて、細かくあちこちに敷かれている伏線はぼんやり観てると見落とすので、1話につき2回は観た方が、深く味わえると思います。


<予告編>

撮影、プロダクション・デザイン、編集etc、総合的にハイ・クオリティなのはHBO作品なのである意味当然。なんですが、やはりこのドラマの醍醐味は力強いキャラクターに引っ張られて話が展開していくところ。ある悲劇の捜査に駆り出され、その謎にオブセッション/罪の意識を抱かされ、30年以上にわたりこだわってきた(元)捜査官=主役ウェイン・へイズを演じたマハーシャラ・アリは、ヴェトナム戦争従軍経験を経て州警察に入った男盛りの時期から老年期までを見事に演じ分けているし、エピソードを重ねるごとにその複雑なキャラと人生行路、老いの衰退ぶりの悲しさが観る側にも浸透してくる。ひとりの人間の30代から60代までを一気に俯瞰するのは現実的には無理なんだけど、それを可能にするのがメイク(あるいは若い時期を他の役者に演じさせるとか)他でごまかせる映画・ドラマのすごさだ――とはいえ、彼のトランスフォーメイションぶりは実に自然でニュアンスに富んでいて、説得力があった。

ぶっちゃけ、観る前は「今もっともホットなアカデミー賞男優出演」が売りなんだな……と思っていたし、事実アリの演技にはうならされましたが、いやー、ウェインの相棒であるローランド・ウェスト役のスティーヴン・ドーフの名助演ぶりが実は秀逸だった。米南部という歴史・社会的に複雑なエリアの温度を白人の側から体現する役どころでもあるんだけど、最初のうちは「優秀な相棒捜査官の足を引っ張る悪玉なんじゃないの?」と警戒心を抱かされるくらい、どこか胡散臭い/でも憎めない玉虫色なキャラを好演。ウェインというキャラの複雑さと心の奥に隠してきた様々な秘密は映像や行動、会話を通じて割ときちんと描かれているんだけど、ローランドのそれは「匂わせる」程度で、そのぶん行間を埋めるのは観る者であり、想像力を掻き立てられる。役者としての見せ場(かっこいいモノローグの場面とか、エモーショナルな爆発とか)は少ない役だったかもしれないけど、ドーフは全編を通して渋く効果的な通低音を鳴らしていた。

「True Detective」でずっと批判の対象になってきた要素のひとつ:女性キャラの描写も、今回はパワー・アップしている。1980年の事件を通じてウェインと出会い、やがて妻になる教師/作家アメリア(カルメン・イジョゴ)の存在は、恋愛・結婚生活といったウェインの私人としての内面の鏡であると同時に、彼の男としてのプライドを容赦なく暴きもする。現在=2015年のストーリーは「歴史的な実犯罪を再検証するドキュメンタリー」映画向けの取材に応じ、事件を回顧するウェインとしてフレーミングされているんだけど、この取材役が女性というのも、ウェインのマスキュリニティに対するコメントだろう。ネタバレになるので詳述は避けますが、シーズン3の女性キャラに関して言えば「True Detective」は誰なのか?というテーゼを発してくれたので、これは進化だと思う。

もうひとり特筆したいのは、事件の犠牲者である子供たちの父親トムを演じたスクート・マクネイリー。典型的なプア・ホワイト役なんだけど、愛する子供を失った悲しみはもちろん、生まれ育ったコンサバで閉鎖的なコミュニティの抑圧の多い環境に苦しみ、そこから抜け出せないままの「忘れられた人々」の辛さをがっちり感じさせる、印象的なキャラだった。同じくミズーリ側のオザークが舞台だったデブラ・グラニックの力作「ウィンターズ・ボーン」に出て来ても全然おかしくないぞ。

こうした磁力の強いキャラたちが事件によって様々な形で影響され、彼らの35年後にどう余波を残しているか、そして記憶とは何か……が主眼の作品であり、そのぶん警察/推理ドラマの「謎解き」やドンパチ、ヴァオレンスの側面はあまり強力ではない。シーズン1でキャリー・ジョージ・フクナガのやってのけた「長回しアクション・シーン」は評判よかったのでシーズン2でも取り入れられてたけど、飛び道具も、何度も使えばマンネリになるわけで、シーズン3では無理にそれを入れ込もうとしなかった決断も潔し(それでも、手に汗握るおっかないシークエンスはちゃんとありますが)。また、サザン・ゴシック味は健在とはいえ、シーズン1で一部のマニアを熱狂させたコズミックでぶっ飛んだ哲学(笑)の側面は後退している。そこを恋しく思う人もいるかもしれないけど、むしろ今回の地に足の着いた、地味だけどそのぶんリアルで悲しい余韻がズーンと寄せてくる今回の結末の方が自分は好みだったし、シリーズとして大人になったな、と。

なのでピツォラットにはこれからもがんばって欲しいんだけど、このシーズン3では原案・脚本・プロデュースのみならず自ら監督までこなしていて、すごい力の入れようです。「我が子」であるこのシリーズへの愛情ゆえですね。ただ、もうちょっと手綱をゆるめてもいいんじゃないか……と感じたのは、このシーズン3ではジェレミー・ソーニエが2話で監督を担当していて、ソーニエの映画「Blue Ruin」と「Green Room」はどちらも非常に良かったので、せっかくだから彼にもっと担当してもらいたかったな、と。


<ソーニエの出世作「Blue Ruin」予告編>

調べてみたら、ピツォラットは自らの小説「Galveston」映画化の際に脚本を提供したものの、「出来上がった映画は自分の思い描いていたものとは違う」ということで実名でのクレジット記載を拒否したらしいし、こだわりの人ですな。力のある若手の監督さんに活躍の場を与えるのもドラマ界の大事な役目だと思うので、もうちょい、肩の力抜いてくれてもいいのでは(でも、ピツォラットがタランティーノ型を目指してるなら、今後ますます自分でメガホン取る可能性はある)。

「True Detective」はシーズン3である意味原点回帰したと思うし、評価も高いので安心しました。その初心で大事なのは、やはり、南部育ちのピツォラットのかの地の風土や歴史、社会に対する理解と感性とを反映させたストーリー作りなのではないかと思う(シーズン2ではカリフォルニアという爛れた土地にチャレンジしていたけど、これまで何千回と犯罪映画の舞台になってきた場所だけにクリシェ感が否めなかった、というのはややマイナスだったと思う)。

「True Detective」シーズン1&3の根っこにある「とり逃した犯人」「未解決事件」のしこりというのは、リチャード・プライスが「ハリー・ブラント」名義で発表した力作「The Whites」――「白い奴ら」というのは、証拠不十分他で検挙できずにその後も悪行を続けている犯罪者のことで、どの警官/刑事にも一種のトラウマとしてつきまとう存在のことだそうです――のプロット面でのエンジン部でもあったけど、あの小説がパワフルだったのは、ニューヨーク生まれでニューヨークを描き続けてきたリチャード・プライスの筆の冴えも大きかった。何も「自分の知っていることだけ書けばいい」と言いたいわけじゃないんですが、別の世界に跳躍する前に、自らのアイデンティティを形成した土地を舞台にじっくり物語を作るのは、大事なんじゃないかな。

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自らのアイデンティティをベースに物語を……という話から、実に都合よく(笑)、作品の多くに自伝的な要素の含まれるクリエイターとして知られるシェーン・メドウズの久々のテレビ作品「The Virtues」(4話完結のミニ・シリーズ。尺はトータル約3時間半)に話を移します。同じくチャンネル4向けの「This Is England ‘90」が2015年発表だったので、あら、よく考えたらこちらも実に4年ぶりの新作なんですね。


<予告編。ちょっと、実際よりも劇的過ぎだなー>

ストーン・ローゼズの再結成ドキュ公開の頃(2013年)、メドウズは次作映画の構想も語っていたので、このやや長い沈黙は少々不思議でもあった。なぜブランク期間を迎えたかの事情・理由は「The Virtues」向けのプロモーション取材のひとつで明かされたんですが、このインタヴューが 
非常にヘヴィな内容
だった(一応リンク貼ってありますが、少々ネタバレになってしまうので、前知識を避けておきたい方はジャンプしない方がいいかもしれません)。細かくは説明しませんが、セラピーを受けてトラウマと闘っていたそうで、「The Virtues」はそのつらい過程を経た上で生まれた作品……ということになります。

もっとも、脚本はテレビ版「This Is England」でもお馴染みのジャック・ソーンとの共同なので、非常に大雑把に言えば「ある男性と彼の抱えるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の克服」という基本設定を軸に、家族の絆、贖罪/再生、ヴァイオレンス等、様々なモチーフと魅力的なキャラクターたちが埋め込まれている。自身の体験をベースにしたこの作品に取り組むのは、ある意味トラウマと恥とを追体験し明かすことでもあるだけに、おそらくメドウズ本人にとっても苦しかったんじゃないかと思う――この作品を「自己憐憫」と誤解されるのは、彼がもっとも避けたいことなのだろうし。その葛藤や混乱もにじむ作りゆえに、ドラマとしては「TIE」ほど自信たっぷりな達人によりシンフォニー的作品ではなく、むしろ手探りでゴツゴツしている。ユーモアも、ぐっと減っている。だがその誠実さ、そして言葉だけでは言い表せない複雑な物語と感情とを観る側の洞察力・共感力に委ねて「感じ」させるストーリー・テリング(その意味で、このドラマは「Dead Man’s Shoes」に近いと思う)に、相変わらず見事なキャスティングとが相まって、素晴らしい作品になっている。

シェーン・メドウズ作品をいくつかご覧になったことのある方は、彼の役者の使い方の上手さ・インプロの技はご存知だろう。演じた役と、役者とが切っても切れない関係になる。ずぶの素人を出演させることもあるという意味では、ケン・ローチのアプローチが一番近いかな? メドウズはザ・テレヴィジョン・ワークショップというチャリティ団体を通じて新しい才能の育成に貢献していて、イギリスのTV/映画界では非常に損をしがちな地方出身の普通の子たちをバックアップしてきた(「TIE」がそのいい例で、ここからブレイクのきっかけを掴んだ面々にヴィッキー・マクルーア、ジョー・ギルガン、ジャック・オコネルら)。

日本やアメリカだと、「名と顔の知れたイギリス人役者」と言えば――今だとベネディクト・カンバーバッチやトム・ヒドルストン、エディ・レドメインあたりになるんじゃないかと思うけど、彼らはほとんどが首都圏生まれでポッシュ、アート/メディア系な家で育ち、伝統ある演劇学校とかに通った人たち=いわゆるエリートなんですよね。別に、それはそれで需要があるんだから仕方ないし、彼らの演技力を否定するつもりじゃないです。けど、イギリスの地方出身の労働者〜下層中流の子たちにとってメディア界が「狭き門」になっている要因のひとつとして、コネの多いこうしたエリートたちの存在は否定しきれないと思う。頭脳流出ではないけれど、母国でチャンスがないのでアメリカに渡って成功を収めるイギリス人役者が少なくないのには、こういう事情も多少関わっているわけで。

人種/性/ジェンダー/階級間のアンバランスが様々な場面でクローズアップされている現状に応じて英メディア界も多様化を余儀なくされていて、改革を求める声は強まってきてます。とはいえこの状況にメドウズはずいぶん前から気を吐いてきたし、近年サマンサ・モートンが演技だけではなく監督の側に回っているのも、「自分たちで需要を切り開く」の思いがあるからだろう。王室と貴族とシェイクスピアのドラマばっかじゃないですしね、イギリスは。

すんません、ちょっと脱線しました〜:というわけで「The Virtues」に戻りまして、これまたキャラクターが主要推進力であるこのドラマの要になる主役ジョーゼフを演じたのは、メドウズ好きにはおなじみのスティーヴン・グレアム。「TIE」のコンボ、と言った方が分かりやすいかもしれません。人懐っこい顔つき&コミカルな親しみやすさの中にヴァイオレンスを秘めたその「スウィッチの切り替わりぶり」は、それこそアクター版ビット・ブルとでも言うか、イギリスのジェイムズ・ガンドルフィーニと言うか。そのコンボ役以来優れた性格俳優としての評価を固めてきた彼ですが、「ここぞ」という場面でアンプリファイされるのを除き、基本的に抑えめ/受け身の演技でジョーゼフを演じ切った、その没入ぶりはすごいです。

ストーリーは、離婚相手の再婚で愛する息子に別れを告げることになり、その悲しみが引き金になってジョーゼフはPTSDを起こしアル中を再発。引っかかっている幼少期トラウマの謎(というか、自分では理解していない/抑圧してきた暗部)に導かれるように彼が生まれ故郷アイルランドに必死の覚悟で戻り、家族と再会する……というところから始まる。家族と言っても、妹のみ。子供の頃に両親と生き別れたために、彼は孤児院に引き取られ、彼の妹は養子に入った、という設定です。

この設定から、トラウマがどんなものかは大体察しがつくかもしれません。が、メドウズはそう簡単にジョーゼフに答えを見つけさせないし、随所に挿入される過去のフラッシュバックも断片的かつ時系列が乱れたVHSヴィデオ的に粒子の粗い映像ゆえに、観る側も様々な憶測を重ねながら、ジョーゼフと共にパズルのピースを少しずつ埋めていくしかない。その意味では一種の謎解きであり、「自分のルーツ探し」でもあるんだけど、その過程で物語に関わってくるアイルランドで彼を迎え入れる妹とその家族が実にあたたかく人間的なので、ジョーゼフの抱えた苦悩とストーリーの重さは緩和されている。

ある意味、スティーヴン・グレアムの演技をたっぷり観れるだけでも自分は満足だったと思う。しかしさすがメドウズで、舞台がアイルランドに移ったところで、役者力が更にアップするんですよー。まず、ジョーゼフの妹アナを実に自然に演じているのが、「TIE88」でロルをいたわる看護婦役を演じたヘレン・ビーハン。彼女は実際に看護婦さんだそうで、パブでたまたま大好きな監督=シェーン・メドウズに出くわし、「私を出して!」と(たぶん冗談半分で)売り込みをかけたところ、本当に「TIE88」に出演することになった、という人。なんていうんですかねー、たぶん、吹き替えだとよく分からなくなっちゃうと思うんですが、アイルランド訛りって、独特なリズムと抑揚/転がり、情感があって、自分は大好きなんです(というか、イギリスの地方アクセントは多彩で面白い〜。スティーヴン・グレアムも今回はランカシャー訛り丸出しで自然に演じてますし)。なんで、それが聞けるだけでも耳が嬉しいんですが、30年ぶりに突然姿を現した――ってうか、死んだとばかり思っていた兄ジョーゼフと再会し、当惑し、不器用に、でも必死に彼を受け止めようとする彼女の慈愛に満ちた姿は、ジョーゼフに最初の「救い」をもたらす。

だが、ヘレン・ビーハン以上にうならされた、このドラマで自分的に一番の「めっけもの」だったのが、アナの夫の妹デイナを演じるニーヴ・アルガー。寄ってくるしつこいボーイフレンドをあっさり叩きのめす鮮烈で爆笑な登場シーンからして「トムボーイ」の典型でかっこいいし、タフ&ラフな中にジェンダー・フルイドな色気も備えた彼女は、少々厄介な、でも子供たちからは慕われるお姉さん/叔母存在。「TIE」でヴィッキー・マクルーアの演じたロルがだぶってつい惚れてしまったのはもちろんですが、厄介さを抱えているゆえにファミリーの中ではある意味「黒い羊」でもある彼女は、同じようにはみだし者であるジョーゼフに惹かれていく。スティーヴン・グレアムって、決して一般的な意味での「美男」じゃないと思うんですけど、人間的な魅力をめっちゃ感じさせる。そこに、自らもトラウマを抱えたデイナが引き寄せられていく展開は、美男美女が軽やかに惚れた腫れたを展開する普通のドラマとは違って、きれいごとばかりではないリアルさと説得力があってじーんとしました。

パワフルな演技――他の助演役者たちも一貫していい演技を見せているので、ミニ・シリーズながら、このタイトなアンサンブル・キャストは評価すべきだと思う――と映像に支えられ、物語は徐々にジョーゼフの心の奥底に隠してあった秘密に迫っていく。そのミステリーの解明、そしてその理解がどこに向かっていくかは、「観てのお楽しみ」ということで、書きません(ごめんなさい:でも、ヒントはこのドラマのタイトル「徳」に集約されていると思います)。ただ、ジョーゼフだけではなく、デイナの抱える苦悩も第3話以降徐々に明らかになっていき、彼女のドラマもパラレルを描いて並行していくので、そこはお見逃しなく。他のエピソードが45分程度だったのに対し、最終話の第4話だけは30分増しの75分なんだけど、ストイックでデリケートな描写が続いた後だけに、この最終話はいちいち「何が起こるか?」という緊張感が走り、マジにずーっと手に汗握りっ放しでした。人間って、何をやるか分からないからこそスリリングなんですね、きっと。この作品を作ったことで、たぶん、シェーン・メドウズはひとつのディーモン/クリエイターにとっての障壁を乗り越えてくれたと思う。次の作品も、期待しています!

あと、「The Virtues」で話題になったのは、PJハーヴェイがオリジナル音楽を提供したこと。なんでもPJの方からシェーン・メドウズに打診があったそうで、これはもうクリエイター冥利に尽きますね〜。ただ、個人的には――PJハーヴェイも、シェーン・メドウズもファンなんで、この報を聞いた時は小躍りしましたが――毎回エンディングで流れる「The Crowded Cell」は強烈なトラックで、正直そこだけパカッと浮いちゃう感覚が残った。


<PJ節が炸裂していますが、本編とマッチしていたか?は、自分はちょいと疑問っす>

シェーン・メドウズって実は選曲のセンスは意外とセンチメンタルで(笑:ローゼズ好きだから当然かも)、アンビエントな楽曲やインスト、あるいは時代背景を演出するためのヒット曲使用はともかく、「歌」を使う場面ではフォーク系が多くて(「Dead Man’s Shoes」ではスモッグ、ボニー・プリンス・ビリー他が使われててナイス!)、この楽曲はドラマの中で流れる他の音楽とも相まって、ちょっと違和感があった。これが映画だったら、たぶんエンド・クレジットで流れる=包括的な主題歌としてインパクトが生まれたと思うんだけど、毎回流されたので、さすがにややトゥーマッチ。むしろ最終回のエンディングで、ドーンと解き放って欲しかったっす(こうるさい注文ですんません)。

ともあれ:ドラマとして関連は一切のない独立した作品ですよ、とちゃんと断っておきますが――この作品を、「TIE」でのシェーン・メドウズのオルター・エゴに当たるショーン少年がギャングたちに出会う前の「前日談」と仮定して観ることも可能だと思うし、そうやって観ると、庇護やロール・モデルを求めるショ―ンの心理とマチズモに対するアンビバレンスが、単なる「父親代わりを求める思い」とはまた違った風に見えてくるんじゃないかと思う。

日本もそうかもしれませんが、近年、イギリスでは「男ももっと自分の感情や苦悩を隠さずに表に出そうよ」という風潮が高まっている。どうも男性心理には、「泣き言を言うと女々しい」とか「男なんだから歯を食いしばれ」的な、ジェンダー・バインディングがあるらしい。黙って耐える/我慢するのが花、という考え方でしょうか。それはそれで一種の男の美学なんでしょうけども、そうやって社会・因習的な無言の抑圧や通念に気圧されてしまい、メンタル面もそうですが、体調が悪くても「男は我慢」で、なかなか病院に行かない人もいるらしくて。自殺者数統計も、イギリスでは男性の方が女性よりも常に多い。通りを歩いていると「あなたは45歳以上の黒人男性ですか? 前立腺がんの検査を受けましょう」なんてポスターも見かけるようになった。弱いところを見せられない――もしかしたら、怪我したり具合が悪いと生き残れない=まだ狩猟民族だった頃の本能が人間の中にもまだ若干残ってるからかもしれませんが――というのは、人命を脅かす野獣をほぼ駆逐し、戦争もまず起こらないラッキーな国に暮らす現代男性にとってはプレッシャーになってもいるのかな、と。

「男に限らず女だって、みんなつらいんじゃ」と突っ込まれればその通りですし、今流行りの「マスキュリニティの危機」を騒ぎたいわけではありません。ただ、先のポストで触れた「Mindhunter」にしても、「True Detective」、「The Virtues」にしても、主人公を始めとする男性キャラたちは心の奥に色んなものを抱え込んでいて、そのせいで人間関係がこじれたり理解されにくい孤独者になってしまったり、大変だなあ、と。女性を主役にした映画/ドラマをもっと!という当然の要求が高まっている中、こういう男中心なドラマを観るのは野暮なのかもしれませんが、別の性をちょっとずつ理解する作業を通じて、自分の性を理解していくことにもなるんじゃないかと思います(というわけで、男性諸氏も、クレバーな女性映画を観て研究してください)。

しつこく最後に:スティーヴン・グレアムは、「The Virtues」の少し前に「Line of Duty」最新第5シリーズにも出演して話題をかっさらったので、役者としてノってますねー(嬉)。英ドラマオタな方なら気づくでしょうが、「Line of Duty」はヴィッキー・マクルーアが主演のひとりでもあるので、「コンボとロル復活!」と喜んだのは言うまでもありません(ただし、それは余りにメタなファン・サーヴィスだからでしょうか、両者がドラマの中で絡むことはありませんでした)。


<スティーヴン・グレアム、5秒目あたりから登場>

スティーヴン・グレアムは、ヒット作「Peaky Blinders」の作者:スティーヴン・ナイトと「Taboo」というカルト・ドラマ(「Peaky Blinders」以上にゴシックでぶっ飛んでて最高!)で組んでそこでも良かったんですが、なんと今年の年末にBBCが送るディケンズの「クリスマス・キャロル」にも出演。「『クリスマス・キャロル』なんて、もう何回翻案されてんだよ〜」と思わずにいられませんが、キャストにガイ・ピアースにトム・ハーディ、アンディ・サーキスまで並んでいて、しかも音楽はハウシュカが担当するみたい。年末ドラマらしくかなり豪華で、ダークでヴィクトリアンな内容になりそうな予感が!(ワクワク)。
あと、デイナ役で光っていたニーヴ・アルガーも、テレビだけではなく映画界にも進出していて、「Calm With Horses」ではコズモ・ジャーヴィス(近年の秀作「Lady Macbeth」で素敵でした)、バリー・コーガン(今一番目を離せない役者のひとり……と言いつつ、「Killing of a Sacred Deer」をまだ観れていない自分が情けない〜)と共演。


<バリー・コーガン、やっぱ異様に存在感あるな>

シアーシャ・ローナンほど万人受けしないかもしれないけど、大きく育って欲しい女優さんです。

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The Multi Story Orchestra@Bold Tendencies,15Septmber/2019


The Multi Story Orchestra

すごい勢いで日に日にジェントリフィケーションの進むペッカムですが、その推進力のひとつになっている立体駐車場=Multi Storey Car Parkでおこなわれたクラシックのコンサートに行ってきました。演奏は学校、フェスといった多彩な場所にクラシック体験を持ち込むミュージシャン集団:マルチ・ストーリー・オーケストラ、演目はヴィヴァルディの有名な「四季」です。

と言っても、この晩のスコアはマックス・リクターによって「作曲し直された」ヴァージョン。初演は2012年で、「Recomposed By Max Richter Vivaldi: The Four Seasons」として作品化されてもいます。リクターは近頃は映画スコア界で引っ張りだこで、「Ad Astra」にも参加しているそう。

会場そばの壁には色んなフライヤー。イベントが目白押しな最近のペッカムです

屋上を目指して駐車場の階段を上ります。しかしピンク色に塗りつぶされてて目がチカチカしますね

ずいぶん前にもこの駐車場でネオ・クラシックのコンサートは何度か観ましたが、行くのは実は久々だった。このスペースはコンサートだけではなくアート展やパフォーマンス他も開催される多目的エリアで、確か一番最初に行ったのは最上階にあるフランクズ・カフェで屋上からの景色を眺めつつ飲む……というのがお目当てだった。その頃から人気スポットだったとはいえ、日本で言えば浜辺の「夏の家」というか、屋外なので夏しか営業しないカフェには良い意味でどこかゲリラ的なノリがあった――んだけど、いやー、スペースとして立派に成長して、ちゃんとリストバンド引き換え所まで設置されてました。

パフォーマンス・スペースの入り口の目印はこれ。しかし、巨大携帯スクリーンの集積体にしか見えないなー

この日はアート・フェスと被っていたらしく、そちらのお客さんもかなりいたし、日曜なのでルーフトップの長めを楽しみに来た子供連れも多し。車を使ったアート・インスタレーション(?)みたいなものもおこなわれてました。ともあれパフォーマンス・スペースに移動し、学校の古いベンチのような座席スペースに陣取る。ハープとハープシコードも含む弦楽オケは約20名で、若いミュージシャンばかりなのでいでたちも実にカジュアル。この駐車場は駅の脇に建っているので演奏中も電車の発着音がもろに流れ込んでくるんだけど、ヴァイオリンのお兄ちゃんがそのたびに苦笑していたのは可笑しかった。

「四季」と言えば確か小学校の音楽の時間にも聴かされたし、特に賑々しい「春」は定番曲じゃないかと思うけど、リクターのスコアは印象的なモチーフやメロディを部分的に使うという方向性なので、クラシックに詳しくない筆者のような人間も経験不足に臆することなく、演奏を楽しめた。やはり、あれだけの数の楽器が一瞬の呼吸の乱れもなく美しいハーモニーを奏でる様は、生で観るとダイナミックでいいものですね。秋の夕方で涼しくなっていたとはいえ、コンダクター氏は、40分強のパフォーマンス後には汗だくになってました。

躍動感と熱気に満ちた「春」の盛り上がりも良かったが、「秋」のヴィオラが醸し出すアーサー・ラッセルな雰囲気にいちばんうっとしりたし、ヴァイオリンの響きがほぼアンビエントに近かった「冬」の静謐なトーンも、とても素敵でした。最後はリード・ヴァイオリニストの女性が代表で花束を受け取り、コンダクター氏と何度もお辞儀に現れて喝采を浴びていた。が、ああして間近で見守っていると、全パートの演奏者たちが繫がり合い互いの音に耳を傾け反響し合うことで、トータルなサウンドが編み上がっていくのがよく分かった。ので――リード・ヴァイオリニスト女性はソロ演奏も含めて花形だったとはいえ――自分はオケの全員に向かって(オットセイのように)ばしゃばしゃ拍手を送った次第。歩いて家に帰ったんだけど、月が綺麗で、そういえば十五夜だなと思い出した。お団子、食べたくなった。

終演後はもう暗かった。夜景が綺麗だったのでせっかくだからと撮影にチャレンジ……しましたが、ブレまくりですな。すんません

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Beat of My Own Drum :132.Terry Reid


日本はまだ暑い〜、と知人からメールをもらいましたが、ロンドンはもう完全に秋です。涼しいを越えて、うっすら寒い感じです。
風邪ひかないようにしなくちゃ。

こういう時期にはゆったりできる音楽に自然に手が伸びます。ステレオラブの「Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night」なんかは、ジャケットの色味も含めて秋っぽいですねー。ヴァン・モリソンの「Astral Weeks」とかも、この時期に似合う。

そんな「初秋のアルバム」でよく聴くのがテリー・リードの「River」です。テリー・リードは、ブリティッシュ・ロック・ファンたちには「ジミー・ペイジにロバート・プラントを紹介したシンガー」として知られているかと思います。そのエピソードからも察せるかもしれませんが、コネはたくさんあって実力もあるのに(ストーンズやクリーム、グレアム・ナッシュ他、付き合ったロック界の大御所は山ほどいる人)、なぜか運が悪くてビッグ・タイムを逃してきたタイプ。

そうしたゴタゴタもあってあんまりたくさんアルバム出してません&当時は売れなかったらしいですが、歌い手&作曲家としてはすごいです(ギターも上手い)。で、1973年のカルト名作「River」から1曲……と思ったんですが、その3年後に出た「Seed of Memory」も良いので、今日はそちらから。「Seed of Memory」は、ジャケットが非常にダサいので(この髪型はないでしょ:笑)、つい引いてしまうかもしれませんが、中身は保証します。フォーク/ロック/カントリー/ソウルを吸収してて(レゲエ・ビートの曲もあるぞ!)、ニール・ヤングが好きな方ならまず大丈夫かと。イギリス人で、あの時期にここまでアメリカのウェストコースト・ロック味をモノにしていた人って、実は珍しいんじゃないかなぁ〜。ともあれ:興味を持たれた方は、ぜひ、「River」にもチャレンジしてみてください。

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日々の雑観:ウィルコでウィルコ(ちょっと違うか…)


もうじきニュー・アルバム「Ode To Joy」発売のウィルコ。それを祝って英音楽雑誌「UNCUT」の付録CDとして、様々なアーティスト/バンドがウィルコの曲を自選しカヴァーする、という企画盤が登場しました。ジェフと様々な形で縁のある人たちが参加したインディ系のも自分の好みで嬉しい(カート・ヴァイル、パーケイ・コーツ、ホィットニー、ケイト・ル・ボン等々)。

カヴァー・ストーリーはジミー・ペイジ独占取材。「Jimmy Page:The Anthology」という2冊目の写真メインの自伝が出るんだそうです。

基本的におまけに弱い自分でもあるので、買いに行かずにいられませんでした。

でも近所の小さいスーパーは雑誌売り場が狭くてさすがに「UNCUT」までは置いてない。ので、本屋さんの入ってるショッピング・センターまでよっこらしょと繰り出した次第。

最近のベストセラー/新刊コーナー。キャメロン本、売れてるのか……

そこで思い出したのが、このセンターにイギリスの量販雑貨店ウィルコが入ってるな、ということ。

生活雑貨全を般扱ってて、オリジナル商品も置いてるので、まあ「なんちゃってIKEA」みたいなお店ってとこでしょうか(家具とか、大型商品は扱ってませんけど)。綴りが「WILKO」=ウィルコ・ジョンソンの方のウィルコで、違います。

心なしか、お店のロゴまで新作のバンド・ロゴにちょい似です。

ちなみに、こっちでウェブ検索すると、「wilco」だけだと「wilkoの間違いではありませんか?」というメッセージが出るので(おいおい!)、サーチ・タームには「wilco band」と入れます。

というわけで、なんかウィルコ二乗の一日でした、という話。早くCD聴きたいっす。

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日々の雑感:夏の終わりに


秋分の日です。ロンドンも朝晩は長袖です。

特にこれといったポストではないですが、夏の思い出写真をあれこれと貼っておこうかなと。ランダムな絵日記みたいなものです。
こういうのって、インスタグラムを使えばいいんでしょうね、きっと……。

近所に少し前にオープンした公園。駅のプラットフォーム脇の細長い空き地が、手間ひまかけてガーデンになりました。ヒマワリも嬉しそう。

隣人の飼い猫エド君。いつもアウトドア派で(特に夏場はほぼ外でゴロゴロしている)、誰にでもなつくので近所のちょっとしたアイドルです。しかし、やはりお顔を見ると、ちょっと老けてきましたね。

同じ隣人の飼っているもう一匹、デリック君。まだヤングなので体型も毛並みもツヤツヤです。でも、恐がりなのであまり接近できません。もうちょっとなついて欲しいなー

猫三連発、こちらは知人の飼い猫ミスター・チョップス。ひっそり隠れていたところを激写しました。

知人の愛犬スタンリー。知人は引っ越してしまったので、もう会えません。いいキャラの犬(ダックスフンドとスタッフォードシャー他のミックス。めっちゃ個性的)だったので寂しいっす。

園芸上手な知人のミニトマトと、下に写ってるのはブルーベリー。自家栽培なので美味しいです。

少し歩きますが、フォレスト・ヒルの近くにある保護森林エリアにて。ちょっと分かりにくいけど、小さな沼の小島。年季の入った大樹も保護されているエリアで、歩いているとちょっと「ホビット」な気分。

秋らしい夕焼け。夏が終わったなあと、しみじみした光景でした。

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お知らせ:WARPXXXーワープ30周年記念プレイリストだー


今回は、ビートインクさんからのお知らせです。
唯一無比の存在を誇るレーベル:ワープも今年で30年。大いに話題を読んだNTSのラジオジャック他、記念イベントがあれこれと行われてますが、ポップアップショップ、各種来日公演/DJセットといった日本独自企画の一環として音楽通が選ぶプレイリスト企画がスタートしたそうです。各人5曲ずつのセレクトで、歴史も長く作品も数多いワープだけに、こういうキュレーション/ガイド的なプレイリストはリスナーにはとても参考になるかと思います。自分の好きなアクトだけじゃなく、「こんな曲があったのか!」と発見も豊富ではないかと。
というわけで、以下、ビートインクさんのPRをコピペします。気になる方はチェックくださいませー。

にしても、日本版の<WXAXRXP>ステッカー、いいなあ。「ワープサーティー」のカタカナのノリが昔っぽくて、ワープ・パープルと合わさって90年代な気分。イギリスでも、DJとかが欲しがると思う。

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〈WARP RECORDS〉30周年記念!
あの人が選ぶ “MY WXAXRXP” プレイリスト企画スタート

第一弾は!!!
AOKI takamasa
荒内 佑 (cero)
石野卓球
@SHARP_JP
曽我部恵一
野田努
山㟢 廣和 (toe)
若林恵

先鋭的アーティストを数多く輩出し、衝撃的なMVやアートワークといったクリエイティブの分野においても音楽史に計り知れない功績を刻み続けているレーベル、〈WARP RECORDS〉が今年で30周年!!その偉大なる歴史を祝し、アーティストや著名人など識者たちがそれぞれのテーマで〈WARP〉楽曲をセレクトした“MY WXAXRXP”プレイリスト企画がスタート!

本企画第1弾!! AOKI takamasa、荒内 佑 (cero)、石野卓球、@SHARP_JP、曽我部恵一、野田努、山㟢 廣和 (toe)、若林恵が〈WARP〉の膨大なディスコグラフィーからそれぞれ5曲をセレクト!!

WARP30周年記念『WXAXRXP』特設サイトにて展開中!!
https://www.beatink.com/user_data/wxaxrxp.php#playlist

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TV roundup(久々):Mindhunter


Mindhunter/Season2 (NETFLIX)

久しぶりに、テレビねたです。

ネタがなかったわけではありません。面白い作品は色々あったし、「ゲーム・オブ・スローンズ」もちゃんと最後まで見届け、「Line of Duty」もフォロー。「Better Call Saul」も続きを観たいし、「The Good Place」に「Succession」、友人から「めちゃ怖くなった」と薦められた「The Great Hack」等々、まだ観れてない/ぜひ観てみたい作品も映画と同様に山ほどある。ただ、ここ2〜3年くらいのネットフリックスやアマゾンといったストリーミング・サーヴィス浸透の結果、鑑賞方法/スタイルが変化しただけではなく情報&作品氾濫状態になった感が強く、フォローするのが逆に億劫になって少々遠のいてしまった、というのはあるかもしれない。

テレビ持ってないので、友人宅に行った際にキャッチアップで観せてもらったり、DVDでごそっと観たり……という人間ではあります。そんな人間でも、やっぱマスコミで次から次へ「話題の新作、必見テレビ」が紹介され、記事だの宣伝ポスターだのを見かけ、知人からレコメンされると、「面白そうだなー、観たいな」とつい食指を動かされてしまう。ただし、実際に観るかどうかはまた別の話。時間がある時に限るし、何より今はニュースの方が目が離せない。逆に言えば、それだけ――とりわけドラマに関しては――テレビの「リアルタイム性」はさほど重要ではなくなっている、ということでもあるだろう。

かつてはビデオに録画しないと番組なりドラマなり映画は見返せなかったし、再放送かレンタル・ビデオが頼りの綱だった。今なら気に入った作品は好きな時に好きなだけリピートできて、「フローズン」を繰り返しお子さんと一緒に観た(見せられた)親御さんも多いと思う。劇場公開から間もなくオン・デマンドで観れる映画も多いし、全話一挙に投下されるいわゆる「ビンジ・ウォッチ」できる番組は地上波局のデジタル・チャンネルでも増えている。勝ち抜きコンテスト型のリアリティTVではない限り、「毎週、この日時」の特定の時間帯にアポを取ってテレビの前に陣取らなくてもいい時代なわけです。

HBOはまだ基本的に1週1話のスタイルをとってるようだけど、たとえば「GoT」の最終シーズンは放映が終わってからしばらく経って、まとめて観た。というのも、一喜一憂させられた前シーズンまでにいくつかの重要なストーリー曲線にはカタがついてしまったし、残るクライマックスは突き詰めれば最後の決戦のみ。誰が最後まで生き残るかとか王座に座るのは誰かとかは、実はある意味もうどうでもよくなっていた(笑)。せっかくの大フィナーレなんだし騒ぎが落ち着いたところでじっくりと味わいつつ、先入観なしに観たい……という思いの方が、「早く何が起きるか知りたい」「FOMO」よりも強かった。それにまあ、スポイラーってのも、意識して避けようと思えばいくらでも避けられるもんで。

気前のいい知人がありがたいことに「俺のネットフリックスのアカウント、空いてたら使ってくれていいよ」と言ってくれたんで、たま〜に使わせてもらうことがある。こないだ、ドラマを観ようと思って本人からオッケーをもらったものの、彼のお子さん3人が同時に既にログインしていて別個のデバイスで何か観ていて混み過ぎ(笑)、結局諦めた。と同時に、大昔のチャンネル権/リモコン争いなど起こり得ない、こうした各人バラバラな鑑賞環境が相手だと、「次々に新作を送り出すと同時に過去カタログも充実させる(=子供からじじばばまで誰にでもヒットするブッフェ式)」のがひとつのアプローチなんだな、と思った。

先だって公開された「ストレンジャー・シングス」シーズン3は、プロダクト・プレイスメント=すなわち企業タイアップが多いことで一部に批判されていた(報道によれば収益1500万ドルとか)。コカ・コーラ、バーガー・キングetcが画面に登場し、H&Mがファッション・ラインまで展開したらしいけど、映画やドラマではブランドやメーカーはおおっぴらに画面に出て来ないもので、店名やロゴやドレードマークは(観ている側に「それ」とは分かっても)隠されていたりレッテルが見えないアングルで撮影されていたり、架空のブランドが作られることもある(タランティーノのレッド・アップル他)。一部のヴューワーが違和感を抱いたのも無理はない。自分も、ボンド映画を観ていてソニー携帯がこれみよがしに画面に登場すると「えっ?」と思う(普通、国際スパイの使う高級なスマートフォンと言えばiPhoneだろうと思いますよね)。まあ、ボンドはアストン・マーチンからオメガまで「ラグジャリー企業広告」映画とも言えるので不思議はないとはいえ、ソニー映画ではよくVAIOが出てくる気がするし(笑)、色んな映画のバーやクラブ場面で高級ブランドの酒壜がたまにレッテルを前に向けて不格好/不自然に割り込んでくると笑わされてしまう。

<ソニー、がんばってます>

しかしとある英記事によれば、「ストレンジャー・シングス」のこのタイアップはストリーム氾濫時代の一種のサヴァイヴァル術でもある、という。要するに、全話一気に投下されるために素早く消化されてしまう→→すなわちメディア地平におけるトップ話題としての滞空時間が短いいわば「打ち上げ花火」。なので、①まず広告でできるだけ稼いでおく②各種タイアップを通じて公開後も何らかの話題をキープする(作品そのものはネットフリックスでいつでも観れるので、未体験の視聴者の関心を促し続け長期戦のリーチを伸ばすのが大事)、という考え方らしい。色々と難しいもんですなぁ。

そんな「ストレンジャー・シングス」、シーズン2までは観たんだけど、シリーズ化したことで自分は逆に興味が薄れたかも。メイン・キャストの子供たちがみんな愛らしく、ドラマとリアル・ライフ双方での彼らの友情を応援したくなる……という磁力は間違いなく強力とはいえ、「スタンド・バイ・ミー」を経て、マイクとエルが主役のジョン・ヒューズ的青春学園ドラマならまだしも、いちおうSF/ホラー作品なので、やっぱミステリーとしての本筋は大事だと思う。で、この作品は2シーズンまでで基本構図がガッチリ固まっているので(=色んなハミ出しものたちが力を合わせて悪と戦う&トラブルを越えて親子が絆を確認し友情により疑似家族が形成される、の二本柱)――もちろん色んなひねりや趣向を様々に凝らしてファンを楽しませているだろうとは思うけど――お話としては回を重ねるごとにすり減ってきてしまうだろう。つーか、ホーキンスって街は何度超常現象や被害にさらされればいいんでしょうか? ツイン・ピークスは、地霊があったからまだ言い訳になるけども。

とまあ、「観てもいないのに何を言う」と突っ込まれればそれまでですし、今回もめでたく大ヒットして評価も高いので、自分の意見は少数派だろう。とはいえ第3弾ともなると「キャラ人気と80年代ブームに乗じてメタ度を増して、合わせてシリーズを水増し?」の印象が生まれるし、そうやって露出しまくって「当たり役」のパブリック・イメージが定着し過ぎるのは、まだこれから先の長い子役たちにもあまり良くないんじゃないかと……。

もともと、ダッファー・ブラザーズは「ストレジャー・シングス」をアンソロジーとして考案していたらしい。「トワイライト・ゾーン」的な、「不思議なお話」の集合体ですね。ということは、スティーヴン・キングが架空の街デリーを舞台に色んな作品を書いてきたように、場所は同じでシーズンごとにキャラや時代が変わり異なるお話を描く……という作りも可能だったのだと思う。実際シーズン1は、あれはあれで完結していたし――SFジュブナイルものと言えば日本にも古典「ねらわれた学園」や「時をかける少女」があるけど、ひろ子知世のアイドル人気に頼って続編は作られなかった。潔い。

でも、チャーミングな子役たちを中心にキャラ人気が突出してしまったことで、ファンの要請に応えるべく基本的に同じキャラたちのスレッドが続いているらしいのは、やっぱネットフリックスもそれだけ「自社発コンテンツ」を重視しているってことなんでしょう。近々ローンチが話題のディズニーTVを始め、ストリームに参入する会社が増えれば増えるほど、メニューに載せられる=配信権を維持できる映画やドラマのパイは減っていくんだろうし(それはヴューワーにとっては面倒だけども……)、いずれ頼りになるのはオリジナル作品だけってことになるんだろう。というわけで、早くもネットフリックスの旗艦番組になってしまった(?)「ストレンジャー・シングス」、プレッシャーはでかそうです。

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<シーズン1の予告編>

と、グダグダ書いてきましたが、そろそろ本題に移ります:今回のポストの主題はそのネットフリックスのオリジナル作「マインドハンター」の、主にシーズン2(この後、テレビねたを続けるつもり。「男はつらいよ」と感じてしまった3作について書くのですが、本投稿はその第1弾になります)。「マインドハンター」は、デイヴィッド・フィンチャーが「ハウス・オブ・カーズ」に続いて総合プロデューサー&数話で監督も務める話題作。主役はFBIに置かれた行動科学班なるユニットで、今ではよく知られるターム「シリアル・キラー(連続殺人犯)」および「犯罪者のプロファイリング」テクニックを開発したとされるこのユニットの成長・歩みを70年代後半から描いていく。

原作になっている本「Mindhunter: Inside the FBI’s serial crime unit」をマーク・オルシェイカーと共著したジョン・E・ダグラスは元FBI捜査官で、人質交渉スペシャリストを経てFBIアカデミーの行動科学班に配属され、教官仕事のかたわら、投獄された凶悪な連続殺人犯相手にインタヴューを行うことでプロファイリング向けの科学的リサーチを進めていく主人公=特別捜査官ホールデン・フォードのモデルになっている。彼は、ハンニバル・レクターでおなじみ:トマス・ハリスの人気作「レッド・ドラゴン」、「羊たちの沈黙」に登場するキャラ=ジャック・クロフォードのモデルと噂されてもいる。「マインドハンター」の書名は、「レッド・ドラゴン」映画化第1弾であるマイケル・マンの「マンハンター」をちょっと意識している……のかもしれない。

<音楽も含め、ムード満点だ!>

2017年に公開された「マインドハンター」第1シーズンは、若きルーキーのホールデン、彼とパートナーを組まされるベテラン捜査官ビル・テンチ、そして社会学教授ウェンディ・カーの三者が出会い、70年代後半はまだ目新しかった「複数(3人以上)を無差別に殺害し時期をおいて同様の犯行を続ける殺人者=連続殺人犯」という犯罪心理学概念とそのエニグマを追求するチームが成立するまで、が中心になっていた。印象に残ったのは、完璧主義で知られるフィンチャーらしい映像とディテールへのこだわり――メインの撮影はピッツバーグらしいけど、古臭い街並み、呆れるほどでかいピカピカなアメ車の美、スーツやファッション/髪型やインテリア等々、実にハンサムなドラマでどのカットをとっても絵になる♥♥――が高クオリティなのはもちろん、全体的に落ち着いたテンポでストーリーが展開していく点だった。

メイン・キャラというのは、シリーズ第1話で一気に「紹介/顔見せ」されることが多い。ゆえにドラマの開幕話は大抵わちゃわちゃしていて説明的な内容になることが多いんだけど、このシーズンでは3人全員が出そろうのが第3話と、実におっとりしたペース(ホールデン以外の2名が初めて画面に登場するシーンもさりげなくて、即座に「この人メイン・キャストでしょ」とは思わせないのもかっこいい〜)。脚本はもちろん編集が的確なのと、いわゆる「新人類」ホールデン&「兵役経験者」ビルのいわゆる「価値観も人格もでこぼこバディ・コップ」の形成プロセスや、両者が捜査に当たる事件がエピソード的に挟まれるのでダレることはない。しかし、60年代とヴェトナム/ウォーターゲイト後のアメリカ社会の推移、それに伴う(マンソンやサン・オブ・サムに象徴される)犯罪の性質の変容、フーヴァー引退後のFBIの組織的変化および新種の犯罪に立ち向かうニーズ……といった時代背景やストーリーの配された基本状況と雰囲気が、「詰め込み型」ではなく徐々に、自然に、観る側にも浸透してくるのは良い。

この点に関しては、フィンチャー自身が「『ゾディアック』での教訓を活かした」と述べている。なるほど「ゾディアック」はたぶん、同じく連続殺人犯が登場する「セブン」以上に「マインドハンター」と直結している(特にこのシーズン2では、「ゾディアック」でも非常に効いていた色彩設計=差し色で使われる黄色の禍々しさが踏襲されていたと思う)。筆者も「ゾディアック」は大好きだが、あの作品で唯一もったいなかったのは時代のジャンプぶり。20年以上の長いタイム・スパンを持つストーリーなので仕方ないとはいえ、早送りモンタージュ&ヒット曲のコラージュを挿入して「○○年後」に飛ぶ処理は、キャラクターや彼らのバックストーリーと変容も面白そうなだけに、ちと物足りなくなる。

調べてみたら、フィンチャーはこれまで発表してきた長編映画10本のうち実に8本が2時間越えしている「長っ尻」監督で、タランティーノといい勝負。それが災いして「冗長だなー」「このシーン、まだ終わらないのかなー」と観ていてくたびれる作品があるのもタランティーノ同様だけど、「ゾディアック」に関してはむしろ「このまま見続けたい」と感じる。その意味で、テレビという長尺フォーマットの良さ――平たく言えば「1シーズンで9〜10時間くらいの映画」なわけで――をフィンチャーが活かそうとしているのはクリエイターとして優れた判断だと思うし、「マインドハンター」は5シーズンで完結という予定で制作されているそうなので、その余裕はじっくりとした世界観&ムード作りとキャラ造型にポジに作用していると思う(とはいえ、ストリーム業界もせちがらくなってきているので、突如キャンセルされないことを祈ります)。

で、このドラマのいわば「客寄せパンダ」な要素と言えば、実在の連続殺人犯とのインタヴュー場面になるだろう(シーズン2では、ちょっと前に公開されたタランティーノの「ワンス・アポン〜」でもチャールズ・マンソンを演じたデイモン・ヘリマンがマンソン役で登場して話題でした)。犯罪心理のデータ・ベース作り/パターン分析のために凶悪犯に取材を試みる、というのは当時かなりラディカルな(突飛な?)メソッドだったようで、しかも「つべこべ言わずに銃にモノを言わせて事件解決」なマッチョでヴィジランテなノリが法を守る側にも強かった時代だけに、ドラマの中でも最初はなかなか周囲の理解を得られずチームが悪戦苦闘する様が何度か出て来る。

シーズン1でのホールデン&ビルは「本業の教官仕事をやりながら、その空き時間でやりくりせよ」という、いわば試験的トライアルの条件付きで、米各州を飛び回ってレクチャーをこなす合間を縫って凶悪犯とアポを取り(笑)インタヴューをやっていく。しかもカー教授との仕事場として彼らに与えられたのは、誰も寄り付かない物置みたいなFBIアカデミーの地下室。アンダードッグなわけです。

ドラマとしてのテンポもそうだけど、もうひとつ興味深いのが、この作品では「犯罪ドラマ」につきもののアクション・シーンや殺害場面がほぼオミットされている点だ。主人公が調査班だから当然っちゃ当然だが、基本的に彼らが動くのは「犯罪が起きた後」。なので、画面に出て来るのは遺体、死者の近影、犯罪現場や物的証拠、検挙書類の束といった「無言の声」であり、カーチェイスだとかドンパチのエキサイティングなシーンは滅多に現れない。その代わり、それら無言の声を説明する/代弁する/増幅するための、捜査陣の話し合いや聞き込み、犯罪者あるいは容疑者との尋問場面はたくさん出て来る。こういう場面って、台本と演技と編集がモノを言うんだけど、やー、緊張感ある。テーブルを挟んでコーヒーだのビールだのを飲みながら2、3人が談話する姿を絵にするのって、基本的に動きがないので難しい。しかしカット割り、画面構成/配置、役者の表情や細かいボディ・ランゲージの捉え方等で会話に肉付けし、強弱をつけていくフィンチャーは上手い。そういや英ドラマのヒット作「Line of Duty」も、毎シリーズで尋問シーンが名物になってるんですが、目には見えないサイコロジカルな戦いというのも、やりようによっては見応えがある。

さてさて:そんな負け犬チームが、犯人たちとの生のやりとりを通じて連続殺人のサイコロジーや生い立ち/背景/動機/犯罪のトリガーとなる要因を分析していき、その経験や知識をアドバイザーとして実際の犯罪捜査に適用し事件を解決していくことで、徐々にチームは認められ存在意義も証明されていく。そのビルドアップの模様を追う展開は、スタートアップぶりを描いた「ソーシャル・ネットワーク」でも醍醐味だった。かつ、ホールデン&ビルの「青二才/ベテラン」の師弟的組み合わせは、「セブン」のブラッド・ピット+モーガン・フリーマン、「ファイト・クラブ」のブラピ+エドワード・ノートン、「ゾディアック」のジェイク・ギレンホール+ロバート・ダウニー・Jrの構図もオーバーラップするし、フィンチャーは好きな構図なのかもしれない。

しかし「マインドハンター」が過去作と違うのは、ウェンディ・カー教授の存在だ。彼女はリベラルでアカデミアな「白い象牙の塔」の住人だった。しかし学術論文やセオリーだけではないフィールド・ワークで得た生の声という成果、そしてホールデン&ビルの直観的なアプローチに惹かれ、官僚主義や政治がドロドロと絡むFBIという面倒くさ〜い男世界に身を投ずるんだけど、その上同性愛者でもある。いまだに差別や誤解があるんだから、70年代アメリカのLGBTQ人が非常にマージナルな存在だったのは察しがつくと思う。彼女も自らのセクシャル・アイデンティティを伏せた上でFBIに入り込んでいくので、そこに様々な軋みは生じる。

だが嬉しいのは、ウェンディは完全にホールデン&ビルのブレーンとして配置されていて、彼女の知性と洞察力が彼らコンビの直観や嗅覚(および現場での腕力や経験値)に科学的な根拠基盤を与え、両者の仕事を奨励する立場にあるという図式だ。シーズン1でホールデンの推理/類推力に「彼は現代のシャーロック・ホームズ」との褒め言葉が贈られる場面があるけど、究極の「安楽椅子探偵」に当たるのは彼女。かつ、ホールデン(独身、ガールフレンドはいたりいなかったり)とビル(既婚者で子持ち)もそれぞれにプライヴェート・ライフ=内面生活があるので、美人でスタイリッシュなウェンディとの交流がありがちな「職場恋愛」に発展することなく、リスペクトも率直な批判もありの同僚としてナチュラルな三角形を形成している。それだけ3人とも目的に向かってフォーカスしている(オブセッシヴな?)「プロフェッショナル」ということだし、少なくともこのトライアングルの中では「男だから」「女だから」の違いは顔を出さない。

ゲイ・キャラクターの耐える心理的な足枷やフェミニズムの描写は現在の時代風潮にぴったりなわけだが、その他にも「今」を感じるのはこのチームの根底にある「コミュニケーション」「他者の理解」への欲求じゃないかと思う。シーズン1の序盤に、「自分は正しくて、間違っているのは他者だと考えている人間と接するには、まず彼らの話を聞く事。彼らを威圧しようとするな」という台詞が出て来る。これは人質をとって立てこもった犯罪者の説得方法に関する話とはいえ、政治や社会問題etcで意見が対立し、双方が頑として譲らない平行線な議論はしょっちゅう起きているし、中にはしびれを切らして「嘘つき」「フェイク・ニュース」と決めつけて対話をシャットダウン/ノン・プラットフォーミング/キャンセルしてしまう手合いも多い昨今。それゆえに意見や基本姿勢を同じくする者たちがフェイスブックとかに集まって、いわゆる「エコー・チェンバー」に籠城する……という、脳にノイズキャンセラーのヘッドフォンを被せてしまう図もどうかなと感じる身としては、この台詞はなかなか興味深い。根本的に間違った考えを指摘するのは重要だが、白黒はっきりしないグレーなゾーン、というのもある。そうした複雑な層を持つ議論の場合、「話が通じない!」と匙を投げてしまう前に、頭ごなしに否定する前に、相手の声をちゃんと聞くのは大事じゃないかと。

また、殺人犯の心理を探る中で「サイコパス」「ソシオパス」「ナルシシスト」というタームが何度か出て来るが、「自分には何も悪いところがないと思い込んでいるのがサイコパス。だからナルシシストはセラピーにかからないもの」「ニクソンはソシオパス」「ソシオパスじゃない限り大統領になれないよ」等々、台詞は実に鋭い。これらのタームがぴったり当てはまる人物がアメリカにでっかく腰を据えているのを思うと、たとえ「マインドハンター」の舞台は40年近く前であっても、現在とちゃんとリンクしているな、と。更には、もしかしてフィンチャーは、「アメリカン・サイコ」の翻案をいつかやりたいのかもな、と感じたりもして(もう映画化されてますが。あれは、クリスチャン・ベールがすごいので、それだけでもハードル高いんですけどねー)。

――そんなわけで、シーズン1で「物語/キャラ/ヴィジュアル/テンポ」の基盤を見事に固めた「マインドハンター」だけど、2年ぶりに登場したシーズン2は、その基盤を軸にしっかりと成長し枝葉を広げている。2年のギャップはあるもののストーリーはシーズン1のラストで起きた事件直後とその余波から始まるので、行動科学班の状況はまだ一進一退――ながら、彼らの実績に着目した支援者が登場することでチームの未来は開けてくる。そのぶん組織政治という駆け引きのドラマも増えていてそれはそれで面白いのだが、シーズン2の魅力のひとつは、(一応)主役格のホールデンにズームインしていた前シーズンに対して、ビルとウェンディの日常と内面により深く迫っている点にある。

両者は共に秀逸なキャラなので、これまでチラチラと垣間みれた、彼らのいる複雑な状況とそこで起きる様々な葛藤が掘り下げられているのは実に嬉しい。ホールデン/ビル/ウェンディそれぞれの私生活は、凶悪犯と間近で接し、陰惨な犯行を調査するというこの任務によって様々な影響を受けている。分かりやすいのがシーズン1のホールデンで、社会学を学ぶ頭の切れる学生ガールフレンドに惹かれつつ、一方で彼女の行動の動機や心理をあれこれ「深読み」せずにいられない(職業病?)姿やパラノイアが描かれていたが、これと同様の「仕事が日常を浸食する」の図は、ビル&ウェンディにも迫る。ミイラ取りがミイラになる……というのは犯罪サイコ・スリラーでは常套句で、マイケル・マンの「マンハンター」はもちろん、「ゾディアック」でもゾディアック・キラー探しに執着し過ぎたロバート・グレイスミスの家庭が崩壊する図が出て来る。「マインドハンター」はたぶん、そうした犯罪者と捜査側の微妙でスリリングな境界線を探っていくのだろう。

もうひとつ、シーズン2に見応えを増していたのは、このシーズンではモチーフとなる事件の数を絞り、そこに焦点を据えて立体的に描き出したからだと思う。主役のチームは基本的に、投獄された犯人相手にデータを収集し分析するのがメインの任務であり、捜査進行中の難事件には顧問/助言役として短期参加するパターンが多い。ゆえにシーズン1ではチームは少なくとも3つの事件の実捜査に当たることになったし、その結果は様々。連続殺人犯への取材プロセスを通じて彼らの犯行が浮き彫りになるのも含めて、ある意味各々の事件はエピソード的な扱いであって、チームが成長する足取りを捉えた短編アンソロジー、めいた印象すら残った。

対してシーズン2は、主眼になっていく進行中の連続殺人事件(実際に起きた事件)とその捜査に据え、そこにホールデン&ビルがずるずると絡んでいくことで生まれる変化やその余波を丁寧に追っていくスタイル。もうひとつ影を引く事件も起きるのだが(ネタバレになるので、詳細は書きません)、そちらはシーズン全体を通じて不穏なサブ・ベースをじくじくと奏で続け、主旋律にカウンターポイントを添えているのも良い。この連続殺人がメインになり、ストーリーを引っ張っていくのはシーズン後半とはいえ、そちらのドラマの方が面白くて引き込まれてしまい、シーズン前半のいわば「目玉」エピソードだった凶獣マンソンやサン・オブ・サムとの対面場面――それはそれでテンション高くてみものでしたが、やっぱ飛び道具ですね:シーズン1のエド・ケンパーほどインパクトなかった――の印象が薄れたほどだった。

「悪名高い殺人犯とのインタヴュー場面」という好奇心をそそられる設定に関して、フィンチャーは殺人犯をアンチ・ヒーロー=「理解されない(一種の)天才」のように賛美する描き方はしたくない、という旨の発言をしていた。ジョナサン・デミの「羊たちの沈黙」で、レクター博士とクラリスの対面場面は非常にドラマチックに、しかも美女と怪物というゴシック・ロマン的な図式のもとに描かれていた。しかし「マインドハンター」での凶悪犯との取材は無機質な面会ルームとテレコ相手の寒々とした状況でおこなわれるし、その実験ラボめいた環境のもと、サイコパスたちのいびつな心理――ナルシシズム、人心を操作する邪悪なマニピュレートぶり、犯行を自慢するエキシビショニストな性向、エゴイスティックな冷血さ――などが冷静に腑分けされる。天才でもなく怪物でもない、犯罪者の陳腐さや人間的な限界を等身大で描くことで、フィンチャーはある意味、神話/偶像を壊そうとしている、と言えるだろう。

<「もっと寄って〜!」。ホプキンス、芝居が濃い(笑)>

それを踏まえた上で、シーズン2は、殺人犯ではなく被害者の側にスポットを当てている。ここでの被害者は、非情な連続殺人の犠牲になった子供たちはもちろん、我が子を失った母親たちと殺人者の影に怯え、手をこまねく警察に怒るコミュニティだ。殺人事件を扱ったドラマでは、狩人と標的、すなわち警察と犯罪者は細かに描かれるが、犠牲者や遺族は得てして「背景」的に扱われることが多いと思う。だがこのシーズン2ではアトランタの貧しい黒人コミュニティ、KKKの影、アメリカ南部のデリケートな歴史・政治状況に揉まれてその狭間に落ちた、社会的な犠牲者と言える哀れな子供たちと、その親の悲しみ・絶望がストイックに(そのぶん余韻が強く)描かれていてパワフル。アトランタと言えば今ではドナルド・グローヴァー/チャイルディッシュ・ガンビーノのヒット・ドラマ「アトランタ」がおなじみかもですけど、彼はまた「This is America」を歌ったわけで。ブラック・ライヴス・マターの思いは、40年近く経った現在も変わっていないことになる。

<アトランタのナウ>

というわけで、長々と書いてますが:要は「マインドハンター」面白いぞ〜、ということです。シリアル・キラーという呼び文句が一番強いドラマだろうし(筆者もそれにつられたクチ)、タブーとされる極端な人物の心理の内面を知的に探るという構図はたしかに強力。でもそれはきっと、タブーではなくても知り得ない人間の入り組んだ心理――友だちや肉親といったとても近くて常に繫がっていると思っている存在でも、彼らに「理解に苦しむ」行動をとられることとか、「このメール/テキスト/ツィートの真意って何?」と判断に悩むことって、たまにありますよね? まあ、多くの場合は疑心暗鬼や行間の読み過ぎだったりしますが――に右往左往させられる我々のモダンでパラノイドな欲求にもアピールするのだと思う。「Mindhunter」=精神/心のハンターというタイトルは、ある意味、誰にでも当てはまることなのだろう。他者はもちろん、自分自身の内面も含めて。

ゆえに、「マインドハンター」では色んなパラレルが出て来る。先述したように、犯罪者と捜査側の心理的なシンクロ/紙一重のあやうい境界線もあるし(「セブン」、「ファイト・クラブ」、「ゾディアック」でも、この二重性はモチーフだった。「ソーシャル・ネットワーク」も、ザッカーバーグの理想と現実の矛盾を思えば、スレスレの線だろう)、反体制と体制、FBIにおける違法/合法といった、相対するはずの存在の差も微妙に揺れ、時にだぶるから面白い。たとえば、シーズン1の時点ではまだ駆け出しだったチームが参加するパーティと言えば、「ローカルな警察署で、事件解決を祝ってプラスチックのカップのビールで乾杯」なノリだったけど、シーズン2では格が上がってFBIのお偉方が集まるパーティにも招かれる。そのひとつのゴルフ・クラブの場面はマネーと特権、序列の匂いがプンプンで、ゴルフの大好きな某人物を思い出して笑ってしまった次第。

また、シーズン1では凶悪犯のトリガーとして「母親」に何度か焦点が当たっていて、これはすなわちノーマ・ベイツ的な「残酷で抑圧型の母(による害)」ということになる。この点は、スリラーやホラーの典型過ぎるなあ、母だけじゃなくて父にだって責任あるやろ、ちょっと安直じゃない?と引っかかっていたんだけど、シーズン2に登場する母親たちの多くはその逆の保護者であり留守宅を守るファイターであり、葛藤し模索する存在であり――「母性」という単語の象徴する、大雑把で時に都合のいいイメージに集約し切れない複雑な姿が描かれているのにも、個人的にはうならされた。こうした親子の絆、家庭とは何か?といったテーマは多面性は今後のシリーズでも様々な角度から掘り下げられていくだろうし、楽しみっす。

あと、最後の付け足しみたくなっちゃってすみませんが、「マインドハンター」で他にも楽しいのは、監督の起用ぶりと音楽の使い方のシャープさです。エピソード数が多いのでさすがにフィンチャーも全話監督を担当できないらしくて、シーズン1ではドキュメンタリー「セナ」や「エイミー」で知られるアシフ・カパディア、「コペンハーゲン」の脚本他で注目を集めトマス・ヴィンターベアとのコラボでも知られるトビアス・リンホルムが、シーズン2では「ジャッキー・コーガン」のアンドリュー・ドミニク、モダン・ノワールな作風で知られるカール・フランクリンが参加と、国際色豊かで世代も幅広い。この調子で、ジョン・ヒルコートとジョン・マクノートンにも登板して欲しい……というのは、さすがに無理でしょうかね〜。

音楽に関しては、時代色やエモーション/状況/心の温度を補佐するべく、ポップ・ソング(オールディーズからハード・ロック、ニュー・ウェイヴまで様々)が効果的にあしらわれていて、選曲へのこだわりにはうならされます。フィンチャー、さすが音楽好き。特筆ものという意味では、シーズン2第1話のオープニング&エンディングはゾクゾクするチョイスで「上手いっ!」とのけぞらされたし、同シーズンの最終話ではテーマ曲が変奏されていたのも――連続ドラマのアイキャッチでもあるテーマ曲をいじるって、普通やらないと思う――ストーリーの意味としっかりリンクしていて「納得!」でした。

あと、だめ押しでもうひとつ。シーズン1からチラチラと描写が続いている、カンザス州のヒゲ&ハゲの眼鏡のおっさんが起こしている怪しい動向の数々。この事件は、もしかしたら、「マインドハンター」がシーズン5まで予定されている、その理由かもしれないな、と気づきました(思い込みかもしれないけど)。気になる方は、キーワードは「BTK killer」ですので、事件の概要を自主チェックしてみてくださいませ。

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