Bill Callahan, Sufjan Stevens

Bill Callahan

Sufjan Stevens

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5月9日 Bill Callahan@Barbican Centre
5月12日 Sufan Stevens@Royal Festival Hall

なんだかんだで時間が経ち、もう100年近く前のネタになってしまった感もありますが。以下の書き出しにある「気候が良くなってきて」なんて状況は軽~く通り越して、昨今はひんやりした9月の陽気・・・という現状は無視して、まずは男性ソロ・アクトのライヴ記を2題。

5月の第2週は、ギグ・ラッシュだった。週末にAnimal CollectiveのATPが控えていたのはもちろん、バービカンでBill Callahan、ユニオン・チャペルでJosh T Pearson、そしてSufjan Stevens@ロイヤル・フェスティヴァル・ホール。気候が良くなってきて、6月以降本格化していき、近年は9月半ばまで続くフェスや各種イベント、それに付随するツアー、ウォームアップ・ギグ・・・というわけで、夏のイギリスは、本当にライヴが多い。つうか多すぎです。もうちょっとバラけてくれたらいいんですけど。
ビルもスフィアンもロンドンでの人気は非常に高く、双方とも発売と同時にチケット予約にトライしたものの、しょぼい席しかゲットできなくて、かなりがっくり。RFHを2日間売り切ってみせたスフィアンのチケットに至っては、3階席のドン後方という悲惨な有様だったけれど、それでもメゲずに行ってよかった!と心底思える、素晴らしい内容だった。今年前半のマイ・ベスト・ライヴです。

ビル・キャラハンをフェス以外の単独公演で観るのは、実は久しぶりだったりする(ロンドン公演は毎回即売り切れるので、行き損ねたってのもありますが)。それもあって、ライヴに行く前に旧作を聴き返していたところ、スモッグ時代も含め、この人1枚として駄作を作ってこなかったな・・・と改めて感じいってしまった。彼との出会い=ディスクユニオン神保町店で、「Julius Caesar」輸入盤を手にしたのはまだつい昨日のことのように覚えている――「アシッド・フォーク」という形容が使われていて、ジャンデックなんかと一緒に並べられていた。ジャケの不気味さもあいまって、かなり恐々と買ったので記憶に強く残っている――20年近いレコーディング・キャリアを持つ昨今のソロ・アーティストで、
このレベルのクリエイティヴなクオリティを維持している人は、実は案外少ない。
今回のショウは、最新作にして今年のマイ・ベスト・アルバムの1枚=「Apocalypse」リリースに伴って行われた。過去2作ほどのレイドバック気味なポップ志向とは異なり、そぎ落とされた音作りのブルース/カントリー・ソウル・バラッドを聴かせる上に、収録曲はたったの7曲。したがって1曲の尺は割りと長いのだが、タイトで的確なアレンジとフロウの良さでそう感じさせない。一聴シンプルなリフから、諦め、希望、うっすらとした悲しみ、埃のようにかすかなユーモアなど、普段見過ごされがちな思いが静かに立ち昇る。オーバー・アクションで、ドラマチックに誇張された今風の表現からすれば、この人の楽曲は極めて地味なのかもしれない。しかし、耳をそばだてて聴くに値する言葉と音楽は、滔々と流れている。

編成は、「Apocalypse」レコーディングにも参加しているニール・モーガン(ドラムス&パーカッション/ジョアンナ・ニューサムのツアー・メンバーでもある)、マット・キンジー(スライド・ギター)を伴ってのトリオ。アコギを抱えて登場したビルは、リネンっぽいアイヴォリーのスーツに淡いグレイのシャツ姿。パナマ帽でも被せたい、ややマイアミ入ったダンディな雰囲気だったが、何より目を奪われたのが髪だった。まだ40代半ばのはずなのに、ごま塩の、しかも確実に「塩」率が高いグレイである。
とはいえ佇まいや動きは年齢相応で、直立開脚の立ち位置から前後にカクカクとステップを踏み、インスト部ではマイクの周りを周回する。その謎めいたエキセントリックな動きと笑いを誘うぎこちないモーションは、白スーツとあいまって、なんだか「Stop Making Sense」の頃のデイヴィッド・バーンのようでもあった。ビルを初めて生で観たのはこれまたロンドン、1997年のことで、会場はソーホーのノートル・ダム・ホール(今はもうありません)。自分も含めお客は20人くらいしかおらず(笑)、あの頃のビルの直立不動・完全なる無表情の演奏と相まって、色んな意味で居心地が悪いギグだった。それを思うと、パフォーマーとしてずいぶん変化したものである。感慨深い。

最新作でも白眉の名曲「Riding For The Feeling」からスタート、という痺れる展開。暗い舞台にピン・スポットで3人が浮かび上がる抑えた舞台演出と同様、歌のドラマは徐々にせり上がってくる。ビルの優雅ですらあるバリトン・ヴォイスの深みとメロディの包容力には引き込まれるし、リヴァーブでしたたるウェットなスライド・ギターも豊かな余韻を残していく。その、「人生の秋」を思わせるおっとりしたトーンは「Too Many Birds」(この晩のセットは、7割がこの曲を収録した「Sometime I Wish~」および「Apocalypse」全曲から構成されていた)のスウィング感とペーソスとに自然に繋がっていくが、強烈にゆがんだギター・ソロをミドルに置くことで原曲の美を崩していく様は、やはりただのシンガー・ソングライターのライヴではないなと思わせる。この緊張感は、ビルのハーモニカがうめき、ニールの素手でのドラム演奏もヒート・アップ、3人とは思えないほどパワフルなサウンドの渦を作り出してみせた「America!」でも抜群に光っていた。
口笛を伴い、英フォークの牧歌性が麗しい「Free’s」。「Eid Ma Clack Shaw」や「Let Me See The Colt」での50年代的ノワール~カントリー&ウェスタン味。初期レナード・コーエンを思わせる「Drover」のメランコリー、マウンテン・ミュージックめいた明るいトーンが吹き抜ける「Rococo Zephyr」・・・と、近年ビルの広げてきた音楽性の幅はじっくり味わえた。と同時に、キーボードもストリングスも伴わない簡素なアンサンブルだけに、基本的にモノクロでミニマルなフレームに色を添える役を一手に担っていたエレキがいちいち泣きすぎで(デイヴ・ギルモアか?)、セット後半ではくどく感じられる場面も。
ビル・キャラハンの唯一無二な歌声とトーン・コントロール/フレージング、歌いまわし、歌詞のある種超然としたニュアンスは、それだけでもかなりの存在感を放つ。たぶんマイク1本と1曲だけで、この人はそこらのソングライターのアルバム1枚分くらいは聴かせることができるだろう。その意味で、生でのバッキングとのバランス、とりわけメロディ楽器であるエレキとのそれには慎重を要するのかな、と思った。バンドもいいんだけど、ビルのソロでのショウを無性に観たくなってしまった。

アンコール1曲目は「Apocalypse」最終曲の「One Fine Morning」で、アルバム・ショウとしての側面を穏やかな情感で締めくくってくれた・・・と思ったのも束の間、オーラスは意外や「Bathysphere」。キャット・パワーのカヴァーでも知られるこのトラックでは、一転、不安な空気を簡潔に醸し出していった。そんな黒とも白とも言い切れない=一筋縄ではいかないアーティスト性が、彼を感情のもやや微妙な陰影、矛盾やゆらぎ、うつろいといったグレイ・ゾーンを捉える、モダン・アメリカのマイスターにしているのかもしれない。

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ビルのライヴが行われたバービカン・センターは、スフィアン・スティーヴンスの単独ショウを最後に観た会場でもあった。それから実に5年ぶり、名作「The Age of Adz」を引っさげてのワールド・ツアーの一環であるスフィアン久々のロンドン公演は、スケールもステイタスもちょい上なロイヤル・フェスティヴァル・ホール(会場としては、バービカンもRFHも音がいいのでどちらも私は好き)である。ビルもいよいよ、次回はここかしら?などと夢想しながらホールに向かったが、ここを2日間みっちり売り切ったコンテンポラリーなUSインディ・アクトと言えば、最近ではスフィアンとジョアンナ・ニューサムくらい。彼らに匹敵するリスペクトと集客磁力を持ついまどきのアーティストと言えば、あとはアントニーしかいないかもしれない。
そのジョアンナのライヴは、ステージ裏(=普通だと幕が下りてる「背」)まで開放し、座席スペースを作ってお客さんを入れるほどの特例級な人気だった。スフィアンのショウもチケット発売初日にほぼ売り切れのすごい勢いだったので、もしかしたら同じくギャラリー360度の展開になるか・・・?と思いきや、ショウの演出上、それはなかった。
その演出というのが、とにかく目玉が飛び出るほどファンタスティックだった。先述したように、自分のチケットは超さむ~い三階席。思わずオペラグラスが恋しくなるほど、ステージは遥か彼方である。しかし、そのポジションからよく見えたのが、一階席上空の天井に吊り下げられたネットに詰まった風船群。フレーミング・リップスも真っ青の量で、どうやら派手なライヴになりそう。スフィアンのライヴは過去に4回しか観たことがないが、コスチュームはともかく、こういう「仕掛け」にお目にかかるのは初だ。

その風船はお約束という感じでフィナーレ近くに観客の頭上に落ちていったのだが、ライヴの映像/視覚効果も含むステージ・デザインがすごかった。「The Age of Adz」のインスピレーションのひとつであり、アルバム・カヴァーにもフィーチャーされているアウトサイダー・アーティスト:プロフェット・ロイヤル・ロバートソンの絵画がバンドの背後=ステージ後方のスクリーンに映写されるのだが、ただの静止画ではなく、これがアニメーション。音楽やリズムに合わせ、摩天楼やSF調のマシン、空想上の怪物――作風としては、ダニエル・ジョンストンにレトロなお化け屋敷や蝋人形のノリを足した感じ?――他、様々なキャラが動き、重なり、現れ消える光景は、シュールで不気味でユーモラスで、目が離せない。CGなんだろうけど、絵そのものがローファイというギャップに、「Mighty Boosh」のノエル・フィールディングのアニメを思い起こしもした。
しかし、もっとも驚かされたのが3G視覚効果。どういうカラクリなのか、その実際のところはテクノロジーに疎いのでよく分からんが(もしかしたら、演劇界やイリュージョン系のショウなんかでは既に使われてる手なのかもしれないです・・・)、ステージと客席との間に下ろされる半透明の幕/スクリーンを通してレイザーっぽい照明、あるいは映像が映されると、それが立体的に「飛び出して」見える仕組みだった。3D映画の原理の応用なのかしらん??・・・とまあ、こう書いてみてもあまり感動は伝わらないだろうとは思うし、下手な説明より、実際に体験してもらうのが一番だとは思う。しかし、いわゆる「ロック・コンサート」からかけ離れた別世界感、「わーお!」と口をあんぐり開けるしかない初体験のファンタジックなイメージには、どうしようもなく胸が躍ってしまった。

このブラボーに感嘆な感覚は、今年のコーチェラでの①アニマル・コレクティヴの怒涛のサイケデリック映像効果、そして②コーチェラ:メイン・ステージを飾った「光の彫刻」を体験した時の、ゾクゾクするような興奮・感動に通じるものがあった。
ライヴ・パフォーマンスに余計な仕掛けや小道具は必要ない、という考え方も分かる。実際、弾き語りだけで声と音、演者のカリスマ以外にステージには何もない・・・という、いわば骨と皮だけの古典的なライヴも素晴らしいと思う。しかし、一部のアーティストにとって、自らのワイドなヴィジョンを少しでもトータルに近く具体化するために、音だけではなく目も援用するのは当然の成り行き。そんなマルチな感性を持つ音楽家と、彼らに賛同した先鋭的なヴィジュアル・クリエイターとの喜ばしき共闘=実験的なコラボレーションを、ライヴというスペシャルなイベントのシチュエーションで体験できるのは、今の世代の音楽ファンにしか味わえない喜びじゃないだろうか。
テクノロジーの進化がモダン・ミュージックの発展に大きく貢献してきたのを考えれば、映像界の新たな技術とのこうした積極的なシンクロ/他メディアとの交配にはもっと色んなアーティストに取り組んでもらいたい。そこからもたらされる新たな成果やヴィジョンはどんなものだろう?とワクワクしてしまうのだ。ビョークの新作なんかもそうだけど、テクノロジーと音楽の新たな地平を探る試みに、ミュージシャンもますます敏感になっているのかもしれない。

とはいえ、肝心なのは音楽。そこに本質を伴わないと、テクノロジーのメッキは空疎な輝きに堕してしまうだろう。その意味で、この晩のショウのオープニングが「Seven Swans」だったのは素晴らしかった。例のスクリーンに螺鈿を思わせる光が揺らぎまたたき、暗いままのステージはまるで海底のよう。その光の粒が蛍の群れのように下降と上昇を繰り返す幻想的な光景の奥から、バンジョーのゆかしい響きが真珠のように零れ始める。この曲は彼のライヴでよくソロの弾き語りで披露されるが、スポット・ライトの中で紡がれるピンと張り詰めた弦と声のハーモニーは、それだけで陶然とさせられる。広い会場も、嘘のようにシンと静まり返っている。
が、星座のごとき光の網目と闇に視界を遮られて気づかなかったが、バンドは既にポジションについており、曲のブレイクで全員が一斉に音を叩き出す。それまでの静けさを蹴破るえぐい爆音の奔流は、心臓に悪かった・・・となりの席のお客も、椅子から数センチ飛び上がっていたほどだ。ドラムは2台、メンバー総勢11名というビッグ・バンド。照明が切り替わり、コスチュームに貼られた夜光塗料つきテープがオレンジ、黄、グリーン、ピンクと蛍光のボディ・ラインを浮かび上がらせる。スフィアンは彼らを「スター・ピープル」と称していたけど、自転車競技の選手のようなボディ・スーツ姿の本人に至っては、さながら映画「Tron」のキャラクターである。
バンドがスペイシーなインストに移行し、再びスフィアンひとりに照明が当たっての独奏部。その最後のあたりで背中にストラップされていた翼が一気に跳ね上がり、広がった。バタフライの羽根を背負っての演奏はおなじみだと思うが、この翼のサイズは文字通り白鳥、あるいはペガサスのそれで、息を呑むドラマチックな展開とSFと神話が入り混じったような光景――スフィアンはどこか神々しい美しさのある人なので、ピエール&ジルのモデルになってもおかしくないですよね――に、オーディエンスも嘆息と拍手を送るしかない。それを合図に、バンドはファンカデリックがノイズ・パンクをプレイするごときエンディングのジャムに突入!簡素なフォーク・チューンをベースに、摩訶不思議なスペース・オペラの塔が現出した。

この出だしの15分ほどでも「最高~」の念を抱いたが、割れんばかりの拍手が退いたところでスフィアンの挨拶。この人は曲の説明とかMCがいつも几帳面に丁寧で長いんだけど(笑)、この前口上によれば、これから始まるショウは「愛と死、黙示録について」のもの。いかめしいテーマとステージのカラフルな賑やかさとのギャップに、かすかな笑いのさざなみが生まれる。しかし、そこに加わった「今夜のエンターテインメントは僕自身です」との言葉は、「Adz」レコーディングの前にウィルス性の神経系の病を患い体調を崩し、一時期音楽から遠ざからざるを得なかったスフィアンがこうして無事に回復、再び人前でパフォーマンスできる喜びを伝えてきた。
その喜び/リニューアルされたエネルギーについて、彼は英新聞との取材で「今、第二の思春期を迎えてる感じ」と語ってもいたが、いよいよ始まった「Adz」および姉妹作「All Delighted People」編のライヴは、その言葉はまんざら回春の冗談ではなかったな・・・と実感させるもの。カット・アップされたR&B味が抜群な「Too Much」は、コーラスの女性シンガー2名(=ピンク・レディー風)を従え、彼女らとエアロビ×ストリート・ダンス×アイドル・グループといったノリの振り付けのダンス・ルーティンを展開しつつの熱唱。スフィアンも自らのフィジカルなパワーを満喫しているようで、すごく楽しそうである。ファンキィで動きの多いリズムとグルーヴにこっちもウキウキしてしまうし、ホーン・セクションを始めとするビッグ・バンドの演奏も、後半に向かいマニックに音の塊をビルド・アップしていく。
続くアルバムのタイトル・トラック「Age Of Adz」では、ジャケットを飾る魔人キャラのイラストがスクリーンを圧し、それをバックにコーラス・ギャルズがきゃらきゃらと新体操のリボンを繰り始める。思い起こしても、よく考えれば相当にフリーキーな世界観ですな。SF映画の荘厳なサントラを思わせるイントロを経て、盤で聴くより遥かに音が厚い、エピックでビッグ、かつ激しい波のように揺さぶるオーケストレイテッド・サウンドを達成。全身で浴びるように聴く、現代の聖歌である。

この時点で既にライヴの始まりから40分近く経っていて、デリケートな「Heirloom」で一息ついたところで、「身体の動きを取り入れようとした、スローなジャムです」のMCに続き「I Walked」。これまた原曲よりぐっとビートとヘンさ(笑)、ダンス&セクスィー度を増したライヴ・アレンジで、スフィアンの踊りまくりぶりはピークに。肉体、更には五官の回復がひとつのテーマだったという作品だけあって、ほとんどもう、ステージ上でのエクササイズの感すらあった。
30過ぎのいい年こいて、ティーン・アイドルみたいなダンスをマジな顔で繰り広げる――それは、傍目にはかなり滑稽だし、本人もその奇天烈さは認識していると思う。スフィアンは「親がリベラルでいい加減だっただけに、十代の自分はひたすら学業に励んで奨学金をとったり、超真面目な子供だった。その反動で、今、十代の頃に自分がやらなかったことをやってるのかも?」とライヴの途中で「第二の思春期」を説明して爆笑を誘っていたが、「目覚め」の遅かった人ならではの活気とノリには励まされたかも?
いや、若さって本当に素晴らしいものだけど、視野は狭かったりする。それゆえの無謀や無垢の美が存在するのも分かるけど、なんだって若いうちに体験すればいいってもんじゃないのは、ある程度の年齢に達すると気づくもの。スフィアンの場合はそれは病だったわけだけど、たとえば加齢など、避けようのない障壁=契機にぶつかってみて初めて、たとえば若いうちにはなんとも思わなかった日々の単純で当然な行為が、いかに素晴らしいものだったか分かったりもするわけで。その認識に立った上で新たに何かを始めたり、何かにトライすると、それが「まだできる」ありがたみとでもいうのか、個人の感じる「喜び」の度合いは大きくアップすると思う――普通の尺度からすれば、どんなに些細なものであっても。そんな風に感じるのは、自分もスフィアンのように比較的晩生なタイプだからかもしれませんが。

ピアノとア・カペラに近い男女コーラス、クラシカルなメロディの混交が美しい「The Owl And Tanager」に続き、再び長いMC。インプロ・セッション音源のサンプリングを土台にし、これまでのフォーク・ソングライターのプロセスから離れようとした「Adz」という作品の成り立ちと背景をひとくさり語っていく。よりスペクトラルでスペイシャスなアプローチであり、カール・セーガンからロイヤル・ロバートソンに至るインスピレーション源について触れつつ、今夜のショウは3Dな体験にしたい、と表明。
白眉は「Vesivius」で、溶鉱炉を思わせる非常に熱そう~に見える赤い照明で満たされたステージに、古代の宗教儀式(アステカ文明?)を思わせるセットを使ったプリミティヴなダンスが展開。その激しさに拍車をかける演奏・歌のシンクロは見事だったし、一転、クール・ダウンしていくアウトロの優雅さとの対比には打たれた。生オートチューンが冴えまくるサラウンドなライヴ・サウンドで耳をかく乱した「I Want To Be Well」他を経て、本編ラストの「Impossible Soul」。アナログだとD面全部を占めるこの大作、繊細なヴォーカルと緻密なドラム・パターンの基盤に様々なサウンドが組み込まれ、異なるパートへ徐々にリレーされていく、組曲風の作りだ。
ダレずに聴けるインスト部の密度を味わいつつ、流れを切り替えるワイルドなギター・ソロの後、ステージ中央にダイヤモンドを思わせる謎の大オブジェが登場。3Dスクリーンを通し、オプチカルなきらめきを発し始める。そっちに目を奪われているうちにスフィアンは衣装替えしており、再び登場した時は銀のフォイルめいたローブにイカを思わせる巨大な被り物を頭に据えていて、邪宗の司祭とでもいう雰囲気だ(日本人の目から見ると、バルタン星人というか、やや特撮入った感じに見えてしまうのはご愛嬌・・・)。
やがて曲は大団円のチアフルなメイン・コーラスに流れ込み、例のコーラス・ギャルと共に再び踊りまくるスフィアン。場内も明るくなり、サンバを思わせるビートとカーニヴァルな雰囲気に、オーディエンスもヒートアップ、たまらず総立ちだ。手拍子の中、いつの間にかネイティヴ・アメリカンを思わせる羽根のヘッド・ギアを被り、長髪のヅラに80年代風サングラス、これまた夜光塗料つきチュールを何枚かヴェールのようにまとっているスフィアン。場違いな獅子舞、あるいは闘牛のように、コーラス女子とステージの隅から隅まで狂ったように駆け回り、はやし、踊っている。メタリックな紙ふぶきが雨のように降り注ぎ始め、そのシュールな光景の中、席を立ってステージ前に殺到した一階オーディエンスをリードに、「Boy,we can do much more together!」のポジティヴなコーラスが会場全体からリフレインされていく。
あっけに取られて笑うしかない、もはや狂乱としか言いようのない光景の中で、しかしスフィアンはバンマスであり、ヴォコーダーを駆使してのシャープなヴォーカルとダンスでさんざん盛り上げた後、平熱に戻ってのアコースティックな弾き語りのシメは「Boy,we made such a mess together…」のフレーズで、あまりにも優しい軟体着陸。その硬軟/陰影の完璧なバランスに、スタンディング・オヴェイションが鳴り止まなかったのは言うまでもない。

アンコールは、まず平服=Tシャツ&ジーンズに戻ったスフィアンが、ピアノの弾き語りで「Concerning the UFO Sighting Near Highland, Illinois」。彼のイギリスでのブレイクのきっかけになったアルバムからの曲だけに(アンコールはすべてこの作品から)、反応もとても良し&クリスマス・ソングを思わせるピュアなメロディに癒される。続く「John Wayne Gacy Jr.」はアコギの独演で、北風の吹きつけるわびしいカントリー・フォーク調が、なんとも美しかった。アンコール前のエレクトリックでフリーキー、サイファイでホラーで異教徒的に熱く混乱した空気からは大きく隔たった秩序と理性だが、スフィアンはその矛盾した両極を体現できる人だ。
アンコールのラストはバンドが復帰し、遂に!という感じで天上から舞い降り始めた風船群のゆるやかな落下にあわせ、「Chicago」。クワイア、ストリングス、ホーンと、この晩のビッグ・バンドのクラシックからジャズに至るポテンシャルを活かせるワイドな楽曲であるのはもちろん、多彩な要素と歴史を統合できるスフィアンの天与のメロディ・センスを改めて感じずにいられなかった。大きな手拍子で迎えたイギリスのオーディエンスもまた、感じていたと思う――あの場にいた、アメリカ音楽の肥沃な地層を今に切り開き翻訳していく、勇敢な音楽家の存在を。

終演は、なんと11時近く。3時間弱の長大なショウだったけれど、最初から最後まで、片時も耳と目が離せないライヴ・スペクタクルだった。スフィアンのライヴはいつだってプレシャスとはいえ、今回は特に、アーティスト側のオープンさと実験への意欲、そのアーティストの復帰を待ちわびていたオーディエンスとの幸せな邂逅が、よりスペシャルナ一期一会を生み出していた。故に、このハッピーでクレイジーでシュールな笑いに満ちたパフォーマンスがこの先もえんえん繰り返される、なんてことはないだろうが――こんなぶっ飛んだショウをしょっちゅうやっていたら、頭がおかしくなりかねないでしょう――スフィアンの広大な音宇宙のひとつの末端を垣間見れたかな、とは思っている。

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Mariko Sakamoto について

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