Lawrence of Belgravia/25October2011@LFF:NFT2

久々に映画の話です。秋以降観たい映画が相次いで公開されているのだけど、自宅DVD鑑賞の楽さがチラつき、テレンス・マリックの「The Tree Of Life」(最高!)を除くと、ほとんど逃している。
と言いつつ、London Film Festival=ロンドン映画祭だけはなんとかキープした。出品作の多くが一般公開前~来年公開予定作品なので、一足早く話題作を体験するにはいい機会だし(と言っても、既に他国映画祭でプレミア済みの作品も多いけど)、毎年ラインナップが発表されるたびリスティングをチェックしている。
今年は絞りに絞って――外国映画や短編など、観たい上映に全部通ったらかなり懐に痛いので――マイケル・ファスベンダーとスティーヴ・マックイーンが「Hunger」に続き再び顔を合わせた「Shame」、パオロ・ソレンティーノの新作にして初の英語作品「This Must Be The Place」を狙った・・・んだけど、どっちも人気でチケットはすぐに完売! もっとも、どちらも確実に一般公開されるレベルの作品なので、あまり拘泥はしなかった。そこらへんはライヴのチケットとはちょっと訳が違います。

「Shame」は、ここ何年かで「病気」としての認識が定着した感もあるセックス中毒の男性が主人公の作品。エロやサイコロジー、病理ネタなど、そもそも窃視者のメディアである映画とは切っても切れないエクスプロイテーションが全般的に好きというのもあるけど、ポイントとしてはぶっちゃけ、マイケル・ファスベンダーが大きい。このドイツ/アイルランド系の俳優、画面を通して無責任に鑑賞し、何も考えずに愛でる対象――ペットやアイドルに近い?――と言う意味では、ここ最近でもっともグッとくる人。
様々な賞を受けているし、作家系の監督とも幅広く仕事しているので、演技力もお墨付きなのだろう。が、自分にしてみればこの人の顔と身体と動きとを見れれば満足なので、どんな内容の作品でも、実は構わなかったりする。
彼を認知した「Hunger」では、すさまじい減量といわゆる「役者冥利につきる」型の熱演、歴史と実在人物を描くストーリーの重さとが煙幕になって見えにくかったものの、現代劇「Fish Tank」で演じてみせたまったく異なるキャラ――モラルに欠ける、根本的に弱く、身勝手でシンパシーを抱きづらい、しかしだからこそリアルな男――に、彼のセックス・シンボルとしてのポテンシャルを感じた。女性監督アンドレア・アーノルドの作品だけあって、ヘテロ女性の欲望やファンタジーが、マイケル・ファスベンダーを通してストレートに画面に焼き付けられていた、とも言えるかな? 川で魚を捕まえるシークエンスとか、頻繁に登場するマイケルの上腕とその筋肉とか、ツボをつかれる瞬間は多数。男性監督の撮った作品とは、やはり視線や美学がちょっと違う気がする。

・・・なーんて書くと、男性諸氏は「女の執着、暑苦しそ~!」と引くかもしれない。けど、ゲイ監督のカメラが少年/青年/男性を追う時のネトッとしたエロさやフェティシズムに較べれば、女性の目線なんてまだサバサバしたもの。結局のところ女性というのは、「あるがまま」よりも「理想」を追いかける生き物だと思うので、映像もちょっとファッション雑誌のフォトシュートっぽい(と言っても、「Fish Tank」のストーリーそのものは激辛いですが)。とはいえ、伝統的に数が少ない商業系の女性映画監督の少なさ、プロデューサーから脚本から何から男性陣に牛耳られた(音楽業界以上にコンサバな)映画界の現状を考えれば、こういう視線が存在するのは大事だと思う。
ファスベンダーは、以降タランティーノ(「Inglourious Basterds」)、「Sin Nombre」が素晴らしかったキャリー・フクナガによる古典「Jane Eyre」への挑戦、来年公開のフロイトとユング絡みの話題作「A Dangerous Method」ではクローネンバーグ・・・と、各所から引っ張りだこだったりする。メジャーとアート・ハウス・シネマのギャップを埋められる存在という意味でも、コスチュームも現代もこなせる意味でも、また文句なしの美丈夫という意味でも、この人に80~90年代のダニエル・デイ-ルイス、あるいはジェレミー・アイアンズの後継者、との任を負わせたくもなるわけです。

そのあくまで個人的で過剰な期待は、「(彼が出ているなら)どんな内容の作品でも構わない」という点にも露わかもしれない(ダニエルもジェレミーも、彼らがキャスティングされてるだけで「その映画、観たい!」と思わされたもの)。何だかんだ言って観ちゃったもんな、「X-Men:First Class」。SFは昔から好きなジャンルで、近年再興されたDCやマーヴェルのアメコミ映画はひいきな俳優(クリスチャン・ベール、ロバート・ダウニー・ジュニア、エドワード・ノートンetc)も混じるので結構マメに観てる方だけど、「~First Class」、その手の映画の中では自分的なランキングは三流だった。
それでも、マイケル・ファスベンダー(マグネト)とジェームス・マケヴォイ(プロフェッサー・エックス)のホモエロティックすれすれの友情を眺めるだけでも2時間以上の尺を耐えられたし(エックスが車椅子生活を強いられる負傷を負う、ラスト近くの浜辺のシーンの会話とか、もー爆笑しっぱなし)、成長株:ニコラス・ホルトのフリーク混じった美貌も堪能。タイプキャストをばっくり打ち破ってケヴィン・ベーコンが悪役だったのも、「Iron Man」でのジェフ・ブリッジスばりにナイスなひねりだった。

「~First Class」は既に公開済みの「X Men」シリーズの序章という設定。続編が頭打ちなら、その前(=ヒーロー/アンチ・ヒーローのオリジンを探る)を・・・という、ハリウッドの悪あがきとも受け取れるけど、ウォルヴァリン:ヒュー・ジャックマンの顔が基本的に苦手なので(でも、「The Prestige」での彼は悪くなかった)、実は「X Men」フランチャイズの前作群は観ていない。でも、パトリック・スチュワートとイアン・マッケレンが脳裏にチラつかずに済んだのは、逆に良かったかも?
そういや、ちょっと前に英メディアで「どっちがホット?対決」としてマイケル・ファスベンダーとライアン・ゴズリングが俎上に上がっていた(その結果は僅差でゴズリング勝ち)。どちらもここ数年でめきめき頭角を現してきた、2010~2012年にかけて出演作も多数の主役級俳優なので、なるほど納得。ライアン・ゴズリングは「Half Nelson」、「Blue Valentine」までしか観ていなくて、「Drive」未見なんですけど、この人も出演作のチョイスがナイスで気になるアクターです・・・もっとも、彼の顔そのものはあまり好みではなかったりする。ニコラス・ケイジばりに長すぎ&唇が薄すぎで、要素が顔の中心に集中しているのも、うーん。この系統の顔なら、エドワード・ノートンの方が好き。
ただ、全体としてスタイリッシュで「雰囲気」のある人ではあると思うし、ピンナップ/フォトジェニックというより、自分にとっては画面で動き、喋るところを観る方が遥かに魅力的な人なので、実は映画俳優の王道なのかも?? 声がイマイチなマイケル・ファスベンダー(アイルランド訛りの役柄とか、聞いてて苦笑してしまう)に較べて、ライアンの方が耳にいい質感で響きが心地いいのは確かなので、自分にとっての両者の対決はまだ様子見。ライアンが肉体派のアクション映画で主役を張り、マイケルがヒップスターなインディ映画あるいはコメディで才能を証明するまで待ちます――どっちも、別にオブセッシヴに追っているぞっこん好きな俳優ではないので、あくまで余興ですけども。

「This Must Be The Place」は、ショーン・ペンが主演。その役柄は、隠遁気味で干上がったロック・スターで、見た目はロバート・スミスそのもの(笑)の根暗なゴスながら、亡き父親のルーツを探るべく、アメリカに潜むナチを追っていく・・・という筋書きだ。

観てもいないのにあれこれ書くべきじゃないかもしれない。けど、音楽(「Speaking In Tongues」収録曲にちなんだ映画のタイトルに恥じることなく、デイヴィッド・バーンもカメオ出演)とロード・ムーヴィが混じった内容、ナイスなキャスティング(フランセス・マクドーマンド他)に、軽い興奮を覚えるのは自分だけではないだろう。また、監督のパオロ・ソレンティーノは、汎モダン・ヨーロピアンな感性と洗練された視覚センスにうならされてきた人なので(「The Consequence of Love」、「Il Divo」は必見)、彼の初アメリカ映画というだけでも、見る価値は十分ではないかと思う。

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とまあ、観れなかった作品についてあーだこーだと長く書きましたが、やっとこ本題に移って:ロンドン映画祭の一環で観れた「Lawrence of Belgravia」。「アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia)」に引っ掛けたこのタイトルだけでピン!と来る人はあまり多くないだろうが、フェルト~デニム~ゴー・カート・モーツァルトで知られるカルト・スター:ローレンスを扱った音楽ドキュメンタリーです。
場内は、ラフトレ・トートを提げた若者やベル&セバスチャンTシャツのおっさんなど、さすがにインディ・ファン風情が多い。お客の9割が男性というのも、音楽ギークの実情を物語っていて興味深い光景でしたね(レコード屋の内部とちょっと似てる)。ちなみに、この上映は人気が高く、急遽追加日程も発表されたとか。
監督である元イースト・ヴィレッジのポール・ケリーも出席し、上映前に挨拶が行われた。現在はグラフィック・デザイン他で活躍している彼だが、昔の面影がちゃんと残ってる(髪型おんなじ!)のは、ちょっと泣けました。「~Belgravia」の撮影そのものは2005年からスタートしていて、企画者サイドにその都度映像をショウケースしつつオン/オフで製作を継続(2008年に一部が公開済み)、6年後の完成〜公開にこぎつけたという。

音楽やバンドはもはやドキュメンタリー映画の定番テーマで、最近だけでもスプリングスティーン、フー・ファイターズ、パール・ジャム、ジョージ・ハリスンらの作品が思い浮かぶ。しかし、ポール・ケリーは音楽ドキュメンタリーの常套手段であるトーキング・ヘッズ形式(家族、友人、関係者らの証言や述懐が多数挿入される)ではなく、ローレンス•ヘイワード当人の言葉でライフ・ストーリーを語らせ、彼の日常を追うスタイルを選んだ。
主役が既に世を去っている場合は、オーラル・ドキュメンタリーにならざるを得ないだろう。でも、アーティストが健在であってもいわゆる「TVインタヴュー」然とした様式的な語り場面を使うマンネリ気味な作品は多いので、この作品の、よりシネマ・ヴェリテ的なアプローチはなかなか新鮮。その意味で、(題材も音楽性もまったく違うとはいえ)対象へのリスペクトとシンパシー、そして友情が動機になっていた、キャメロン・クロウのパール・ジャム作品にあるインティメイトさに案外通じるものがあった。

作品は、ゴー・カート・モーツァルトの新作「On The Hotdog Streets」のレコーディング・プロセス~スタジオの模様~アルバム完成までを軸に、ライヴ活動、立ち退きに伴う引っ越し〜フラットの改装作業といった日常のスナップショットをカオティック&ランダムに交えつつ、折に触れて過去30年のローレンスの足跡を浮かび上がらせる・・・という展開だ。
子供時代の話(「自分の家族に何のコネクションも感じなかった。血が繋がってないんじゃないか?と思っていた」と言い切るほど、両親や生まれ故郷に違和感を抱いてた根っからのアウトサイダーだった)やバーミンガムのパンク・キッズだった頃の様子、過去のバンドのエピソードも時代を追って登場するが、たとえばフェルトのライヴなど、当時の映像やインタヴューは使われていない(それでも、当時の手コピなギグ・フライヤーやポスター、マーチャンの数々が映される場面は「おー」と思わされますが)。
それは、アーカイヴ映像の権利のクリアランスが困難といった実際的な障壁のせいかもしれない。が、作品の主眼は「ローレンスの現在」ということだろう。ポール・ケリー自身「ローレンスは常に前を見ている人」とコメントしていたように、80年代のカルトなギター・バンドへのノスタルジーではなく、現在進行形のストーリーということになる。映画の感想と共にその点を伝えたところ、過去の貴重な映像、あるいはレア映像を期待していたフェルト・マニアの友人は非常にがっかりしていたけれど・・・まあ、あの頃のローレンスのフラジャイルを絵に書いたような美青年ぶりとフェルトのメランコリーは、男であっても胸動かされる何かがあるから仕方ないよね。

たとえば「10年間に10枚のアルバムとシングルを出して解散した」フェルト、ナンバー・ワン・バンドを真剣に目指していたデニム、名高い潔癖症ぶり、メンバーから独裁者呼ばわりされるエゴなど、ローレンスにはいくつもの神話が付きまとってきた。というか、ミステリーや神話に包まれた過去のポップ・スター像への執着/憧れ、ポップ・カルチャーへの心酔が、アンディ・ウォーホル的な自己神話の創造にも繋がっているのだろう(「究極のヒーロー」として、ルー・リードの名前をあげていた)。
その、天然と作為とが長年の習慣の中で無意識に入り混じったと思しきエキセントリックぶりは、作品に強い磁場を生んでいる。たとえば、ローレンスのドライなユーモア&ちぐはぐさと相まって素晴らしいコミック・リリーフになっているフランス人ジャーナリストとの取材シーン。取材者側が「カルト伝説」を前に緊張し、近寄りがたさを感じているのが伝わってきて、自己神話の効力が伺える。マーク・E・スミスなんかもそうじゃないかと思うけど、「変人」との風評が先に立つ人というのは、その伝説性でメディアのくだらない矛先や生半可な分析を手玉にとり、ミステリーを維持しているのかもしれない。

地下鉄での移動を嫌う世俗の否定、「パトロンがつけばポップ・ヒットを出すのに」など、随所に顔を出すポップ・スター願望はオブセッション~誇大妄想のレベル。それに伴うのは強力なナルシシズムで、「イメージは大事。高価な服云々じゃなく、ボタンの位置とか、デザインにこだわる」とコメントしつつ、基本はシャビー・シックながら、なにげにYSLやヴィヴィアン・ウェストウッドを着ているのはプライドを感じます。
フラットに堆積した一見「ジャンクの山」には、しかし8歳の時に書いた創作劇のシナリオから、スポーツ・カードのコレクション(ジョージ・ベストのファンだったそう)、薬物のパラフェネリア、写真集、雑誌の切り抜き、ホームレス申請/ドラッグ検挙といった各種の法廷記録、古本、ノートブック他(先述のギグ・フライヤー等も、恐らくここから出てきたのだろう)、彼の歴史とインスピレーション、アイデンティティが詰まっている――と書くとロマンチックだが、それをポップ・スターになることだけを夢見て30年間生きてきた(浪費してきた?)人間の記録~夢の藻屑として捉えれば、うすら寒くもなる。
レコードやCDに関してはすべて賃貸保管庫に保存されていて、「フェルトのファースト・シングル以外は、別に高値で取引されてないよ」と、アーカイヴ管理者としての冷静な表情も見える。まんざら、幻想のバブルの中でだけ生きているわけではないのだ。レコードと言えば、「I’m against the 80’s」と歌い、70年代ポップを称揚してみせたローレンスはアナログ派。1枚のレコードを通して聴いてそこに没頭すること~別世界に連れて行かれる点を強調しつつ、イズリントンの中古レコード屋でスリーヴを繰り、「4000曲持ってる? だから何だってんだ」と、剣もほろろなのはナイスだった。

そんな彼の徹底した「俺様」ぶりと独自のロジック、美学への献身は、レアだからこそ熱心なファンを惹き付けもする。ベル&セバスチャン(=スチュアート・マードックはフェルトの大ファン)やセイント・エティエンヌといったシンパがゴー・カート・モーツァルトをライヴの前座に迎え、若手では(ドラムスやガールズではなく)秀逸な英トリオ:レッツ・レッスルと交流があるのもナイス。英音楽ライターの中で自分も一目置いているウィル・ホジキンソン、ピート・アスターとの語らい、ドミノ・ラジオ収録の光景フェルト・ファンジン出版記念イベントの模様など、ローレンスを信じるサポーター達の存在には少し胸が軽くなった。

しかし、フェルトが成功しなかった原因として「ジョン・ピールに嫌われたから」と自己分析してみせるくだりはかなり大胆だ。この上映日はたまたまジョン・ピールの命日でもあったんだけど、インディの守護聖人として神格化され、無条件に敬われている感すらある彼を悪く言う英音楽人、自分は初めて観たかも(笑)? しかも、JPの番組に送ったデビュー・シングル(オンエアはされた)を、「ケナすんだったら返してくれ」と手紙を書き、送り返してもらったというから驚異的である。普通は、「彼の番組で自分の曲をプレイしてもらえただけでも満足、マイ・バンド人生の頂点」ってもんですからね~。
それが本当にサクセスの妨げになったか否かは別として、ドラッグの爪痕が残る佇まいはもちろん、ギターを売り払い、さびれた公団に暮らしながらもレコーディングを続け、「ポップ・スターを目指す」ローレンスの決して楽でなさそうな日々は、ビター・スウィートな後味を残していく。いみじくも「自分は最初の〝ポップ・スター年金生活者〟になるかも」とジョークを飛ばしていたように――言うまでもなく、本物の成功したポップ・スターであれば年金に頼らずとも悠々生きていけるわけで、矛盾なんだけど――この人の場合、スターになるためにすべてを犠牲にする=夢をいつまでも追うのが生業であり、職業という感すらある。
と同時に、タイミングを逸する等々の不運続きで「IF?」の思いを抱かずにいられない、またファンからすれば不遇の天才であるローレンスのキャリアには、若干のセルフ・サボタージュも含まれているのではないか?なんて感じもする。もちろん、当人はマジで自らの正当性そしてスター性とを信じて音楽活動を続けているのだろうし、サボタージュなんて冗談じゃない、という話かもしれない。しかし、その夢がもしも本当に現実のものになってしまったら、彼は生きがいを失ってしまう――ローレンスがローレンスではなくなってしまう気がするのだ。うがち過ぎの見方かもしれないけど。
映画は、そんな風にある意味自らの作り出した檻に居残り続けてきた/そしてこれからも居残り続けるであろう、彼の姿をロンドンの冬空のもと、象徴的に捉えたシーンで幕を下ろす。なぜか悲壮感が漂ってこないのは、たとえ傍目には不幸で滑稽ですらあり、凡人の理解を超えた彼の生き様に、少なくとも妥協はないからだろう。エッジーとされるミュージシャンですら、それなりの成功や名声を手にすると、モデルか何かと結婚し、円満な家庭という名の炬燵の中にぬくぬく収まって(それが悪いとは思いませんが)いっちょ上がり・・・な今の世の中、ローレンスは孤軍奮闘を続けるのだ。

ちなみに、来年フェルトの写真集が出版されるそうなので、興味のある方はそちらもチェックください。

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Mariko Sakamoto について

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