TV and Film Roundup: 冬春の陣

TV&Film Roundup:2023〜24年

*前回のポストで裏庭の巣箱に鳥が来た話を書きましたが、マイホーム化は順調に進んでいる模様。最初はスズメかと思っていましたが、スズメより小さいので、おそらくミソサザイと思われます。

朝はしばし鳥の観察をしている今日この頃。日が長くなってきたおかげで、朝6時にはもうウォッチできます。その時間帯だとクロウタドリとコマドリが元気に捕食している。お隣の住人がピーナツを庭に置いたので、コマドリが貪り食っていた。道理で、ゴルフボールのように丸々肥っているわけだ……。でも、近所の黒猫が侵入してくるや、大慌てで散開していた。

ミソサザイが動き出すのはもう少し後(7時〜9時)で、元気に巣箱と庭の向こうの雑木林を行ったり来たりしている。巣材なのか、あるいはお母さん鳥のエサなのかは不明ですが、何やらかいがいしく巣箱に持ち込んでいる。大体、非常にうららかでよく通るさえずり(身体は小さいのに、音量はかなりのもの)の後に活動が始まるので、「お母さんが『朝ご飯持って来てちょうだい!』とお父さんに号令をかけているのかな?」と、勝手に想像してます。

というわけで、今回は昨年末から現在にかけて観たドラマや映画の感想を一気にお届け。面白いものもあれば不発もあり、と様々な上に長いのですが、備忘録的に。映画に関しては、ジョナサン・グレイザーの『The Zone of Interest』を除き、知人が貸してくれたメモリー・スティックが大いに役立ちました。はい、要するに違法DLした映画の又借りってことです。ごめんなさ〜い……。

●●テレビ篇●●

Slow Horses: Season 3 (Apple TV)/Dave (FX)/Men Up (BBC)/Mr. Bates VS The Post Office (ITV)/True Detective: Night Country (HBO)/Grime Kids (BBC)

*駄馬の疾走は止まらない

『The Bear』と並び、近年スタートし継続中のドラマ・シリーズの中で最も楽しんでいるのが『Slow Horses』。昨年末に放映された最新シーズンは期待に違わぬ出来!というか、これまででベストだと思う。最大の要因はやっぱり、英諜報部MI5の「落ちこぼれ/窓際族部署」ことスロー・ホーセズ部隊のアンサンブル・キャスト各自のキャラ設定&背景が定着し、ピタリとハマったことで、ドラマ内の独自のグルーヴ、いわば「阿吽の呼吸」を作り上げたからだと思う。いったんこれが確立すると、ストーリーも円滑な歯車群のように回って気持ちよく入り込めるし、逆に「このキャラはこう動くはず」という観る側の読みを外すサプライズも大きくなって、それも快感(『Slow Horses』は、人気がありそうなキャラもあっさり消す大胆さがあって、筆者はそこも好き)。

シリーズ開幕は名のある主役看板俳優(ここではギャリー・オールドマン)が引っ張るケースが多いけど、回を重ねるごとに助演陣(特に若い役者)が味を発揮し、活躍の場面が増えるのは嬉しいもの。ギャリーの演じるジャクソン・ラムは要所を締め、手に汗握るアクション〜セット・ピースの見せ場やプロットの主動向は他の若いキャストが担当……という構造が固まった気がする。そこで一番活躍するのは、やはりジャック・ロウデン演じる準主役=カートライトとはいえ、今シーズンは女性陣――ラムの秘書的存在であるスタンディッシュはプロットのカギになる&おとなしい見た目の下に潜む強さを大発揮し、ラムの上官であるタヴェルナー&ティアニーの権力争い、そして部下であるルイーザとシャーリーも様々なスキル(と失態)で見せる――が大活躍でとても楽しかった(一方で、うざいけど憎めないハッカー員のロディや兵器マニアのマーカスもコメディ・リリーフとして超いい味!)。あと、各キャラを地固めるための描写、たとえば「ラムの生活力のないだらしなさ」etcも執拗ではなくさりげないものになっていて、そのさじ加減も良い。

話の発端はかなりおおっぴらに「ル・カレ」的だった今回。ゆえにそそられるし、過去の陰謀が現在に波及していくドミノ倒しなドラマツルギー/構成/テンポ配分も上手い。プロットの穴とかはいくらでもあるんだけど、どんどん畳み掛けていくので、あまり気にならないのもそのせいでしょう。ともあれ、過去――それこそ、冷戦期のそれまで含む――が今の危機に繫がる、という設定はシーズン2でも使われていた。で、第1シーズンから暗示され、遠くからじりじり迫ってくる雨雲のようにのしかかっていた「過去の暗部」が、いよいよ表に引きずり出されるのが次のシーズンみたいです。うぉ〜〜っ、気になる。このシーズン3とシーズン4は立て続けに制作されたらしいので、もう完パケしてるんでしょ、早く観せて!と、祈っている次第。

*てなもんやラッパー記

お次の『Dave』は、気軽に観れる米産シットコム。タイトルに冠されたデイヴことデイヴ・バードはリル・ディッキー(=粗チン)の芸名を持つラッパーで、彼の下克上をドキュ/フィクション的に描く内容。ドナルド・グローヴァーの『Atlanta』の白人版みたいなもんです。「YouTubeラッパーの主人公がブレイクしていくまで」という大筋はある&メインのキャラたちは固定しているものの、1話が30分程度と短く、基本的には読み切り連載形式。

ニューロティックなユダヤ系アメリカ人のコメディの流れを汲むので、そこがキツい時もある(セックスねたがしつこい!)。ステレオタイプなキャラ造型や、安直で大味なアメリカ的ギャグが鼻につくのもしばしば。でも、ドラマとしては人間関係がメインとはいえ、お笑いラッパーがヴァイラル人気のおかげでメジャー・レーベルと契約し、アルバムを作り、ツアーに出る……という背景なので、垢抜けない新人アクトがセレブ状況を初体験し、色々なパニックに陥る展開は――さんざん脚色された風刺調とはいえ――ちょっとだけ「業界の裏側」を味わわせてくれる。

この味を増すのが実在の人物のカメオ出演の数々で、ラッパーを筆頭に、セレブやブラッド・ピット他の著名アクターも顔を出す。何せメイン・キャストのひとりがオッド・フューチャーのタコことトラヴィス・ベネットですし(しかも彼、コミックのタイミングがお見事)。リック・ルービンねた等、内輪ギャグ=自己耽溺に陥る面もあるけど、アメリカの名声って、こんなにいい加減でバブリーなのね……と笑って流すぶんには、楽しかった。

*実話ドラマ

続く2本、『Men Up』と『Mr. Bates VS The Post Office』は、一気に地味&ローカルなイギリス産。どちらも実話に基づいたドラマながら、ノリはまったく違う。前者は「魔法の青い錠剤」ことヴァイアグラ開発の臨床試験をフィクション混じりに描く。対して、後者は今も続いている、英郵便局スキャンダルの内情を明かす社会派。

『Men Up』というタイトルは、「Man Up=男らしくしろや!」みたいな意味合いのフレーズとの駄洒落だが、勃起(立て!)とも重なる。で、インポも勃起できるヴァイアグラの起源は、実は心臓病〜血管障害向けの薬剤の開発の副産物だったらしい。血の流れが良くなるわけです。この背景を軸に、ドラマは1994年にウェールズのスワンジーでおこなわれた臨床実験を、男性被験者5人を対象に描いていく。

この5人は、秘匿義務があるので架空の人物であり、「実話」ではない。だが彼らを通じ、ポスト・インダストリアルな田舎の失業問題、メンヘ、中毒、同性愛への偏見、なかなか腹を割って悩みを打ち明けられない等、男性と「男らしさ」に絡むたくさんの要素が浮き彫りになる。また、「男はパフォームしなくちゃならない」という神話に、男たち自身もがんじがらめになっている様が浮かぶ――たとえばセックスの際に「勃たない」と男じゃない、と。英語に「sexual performance」と言う表現があるけど、見せびらかし=パフォーマンス=勃起するか/しないかは、視覚面での重要なバロメーターらしい。女の場合は、内面で動くので見えにくく、そこらへんはもっと複雑ですが。

ヴァイアグラの恩恵にあずかり、男たちの人生は様々に変化していく(大半はコミカルで明るくポジティヴだが、そればかりではない)。そこらへんは実際に観てもらうしかないとはいえ、個人的には、このドラマがウェールズで撮影され、キャストの多くもウェールズ人である点が大きかった。『GoT』でも有数の嫌われ役:ラムゼイ・ボルトンを演じたユーワン・リオンをはじめ、ローカルな才能を集めてがんばっている。あと、英劇作家デニス・ポッターを想起させるダンス・シークエンスもあって、ニヤリとさせられた。わりかしストレートなこのドラマの中では、勇気ある選択として/ポッターへのオマージュとして、これはナイスだった。

『Mr. Bates〜』は――実は、最後まで観ていない。なのでレヴューする資格はないんですが、放送後に社会的な大反響を巻き起こしたドラマで、これをきっかけに実際に政界が動き出した点は書いておきたい。イギリスのメディアも「久々に、テレビが世相を動かした!」と大いに盛り上がった。糾弾されたのは90年代末から2015年まで続いた郵便事業のトラブルとスキャンダル。富士通が作った勘定ソフトウェア「ホライズン」にグリッチがあり、そのおかげでたくさんの郵便委託業者が被害に遭った。中には、自殺した者もいる。

イギリスでは郵便は「Royal Mail」という名称なので、国営サーヴィスと感じてしまうが、実際は民営化されている。委託業=フランチャイズが増え、ロンドンでも、お菓子や飲み物や雑貨も販売するコンビニが郵便業務――手紙・小包他の郵送はもちろん、各種払い込みや貯金等のサーヴィスもある――を兼任するケースは多い。だが、『Mr. Bates〜』が主に追うのは地方の業者で、過疎化が進む田舎や地方で細々と(小売りもやりながら)コミュニティのためにがんばっている人々。システム・ミスのせいで会計に誤差が生じ、彼らは赤字を埋めるために私費を投じ借金にあえぎ、挙げ句の果てに契約を打ち切られることも。ホライズンのヘルプラインに連絡しても埒が明かず、被害は様々なレベルで拡大。やがてロイヤル・メイルから窃盗の濡れ衣をかけられ、彼らは起訴され有罪判決を受ける。

こうした中で立ち上がるのが、ドラマのタイトルにも使われているアラン・ベイツ氏(名優トビー・ジョーンズ)。彼自身、このコンピュータ・システムのバグや故障の犠牲になった人物で、2009年にホライズンの問題を指摘したコンピュータ雑誌の報道を目にし、被害者グループの代表になる。数々のクレームが寄せられていたものの、ロイヤル・メイル側は「ホライズンは正常稼働している。端末固有の問題で、他に影響はありません」の対応で、同様のトラブルに苦悩していた面々はお互いの存在すら知らなかった。そのヨコの繫がりをベイツとキャンペーン・グループは結びつけ、圧力をかけていき、8年後に最高裁に集団訴訟を持ち込み勝訴。過去のえん罪も覆されていき、その捜査や損害賠償の対応は現在も続いている。

選挙の年に、このようなシステマチックで長い年月にわたった腐敗を明るみにし、政治批判をおこなうドラマをぶつけるのは勇気が要る。お堅いBBCではなく、娯楽志向の民放ITVが作ったんだから大したもの。というわけで筆者も観てみたのだが……ごめん、ストーリーは引き込まれざるを得ない強いものながら、ドラマとしてハマれなかった。多数のPOV、そしてこの事件のタイムスパンの長さ&複雑さゆえに、作劇を明解にし、善悪のギャップをくっきり描く=「誰にでも分かりやすく」描き、不正を訴えることが第一義なのだと思う。しかし説明的な描写やオーバーな演技が多く、第一話だけでも観ていてグッタリ。筆者は第二話でギブアップし、各種報道や『Private Eye』を読んで事件を理解する方向にシフトしました。なので、これはドキュメンタリーとして観る方が自分の性には合っていそうな話だと思ったが、エモーションを増幅できるドラマ仕立てだと、一般への訴求力が高くなるという強みは確かにある。また、「テレビ・ドラマが世論を動かした」と話題になったことで、今後もこのような「地味で真面目な社会派のお話」がお茶の間に侵入する機会が増えるのではないか、との声も上がっている。その意味で、このドラマはひとつの転換点になるかもしれない。

*ボタンの掛け違い

大昔にもこのブログで書いたが、2014年からスタートしたHBOのフランチャイズ『True Detective』はフォローしているシリーズのひとつ。とはいえ散発型なので、「忘れた頃にやって来る」感じ? で、まさに久々のフランチャイズ復活となったのが、この第4シーズンの『Night Country』。大まかな枠組みとしては捜査官2名のチームが主役を張る仕組みのドラマなんですが、今回は初のダブル女性捜査官登板、かのジョディ・フォスターと元プロボクサーのカーリー・レイスが目玉だ。

これまでルイジアナ、カリフォルニア、カンザスと暑いエリアが舞台になってきたが、今回はアラスカ。物語が始まるのはクリスマス期なので、「夜の国」のタイトル通り、画面は常に雪と吐く息の白さ、寒々とした長い夜の暗さが支配する。スカンジ・スリラーのノリです。この、地味で、大トラブルはあまり起きないスモール・タウンに未曾有の事件が降り掛かる。町外れにあるナゾの観測所で、隔離された形で長年暮らしてきた研究員たちが失踪。その解明に当たるのが、地元警察署のダンヴァース署長(フォスター)と州警察官ナヴァロ(レイス)。両者の間には、過去の事件にまつわる因縁ゆえの緊張感/確執もある。

前提はなかなか魅力的だが、やはり「極寒の地の研究所で研究員たちが説明不可能な死を遂げる」の設定は、ジョン・カーペンターの『The Thing』およびラヴクラフト(特に『狂気山脈』)に直結する。『True Detective』第1シーズンのオカルト色への回帰だなと思ったし、それはそれでありなんだけど、なぜ今さら?とも感じる。それでも見進めていったのだが、うーむ……。

超常的な「掘り起こしてはいけないもの」を掘り起こしてしまったゆえの惨劇なんだろうな、というのは察しがつくし(このドラマも最後まで観ていないので、筆者の勘違いかもしれませんが)、となるとロジカルな解決はまずない。それを承知で見続けるにはキャラたちの魅力が大事なんだけど、個人的に、フォスターの「仕事魔で、男並みに荒っぽい、バッドアスな署長」の演技はやや大げさ過ぎた。映画的な演技というのか、『Fargo』のフランセス・マクドーマンドみたいな現実感がないというか。あるいは、『True Detective』のトレードマークである「事件に取り憑かれた男」像をそのまま女性に置き換えた感がある。

彼女は上司と不倫するのでセックス場面も出て来るが、これほどムードのないセックスもなかなかお目にかからない(その相手を演じるのが、筆者の苦手なクリストファー・エクルストン、というのも個人的に大きなマイナス要因です)。それは「女だってセックスが好き」という主張なのかもしれないけど、これまた、男捜査官の行動を鏡に映しただけではないかと感じた。まあ、HBOはケーブル局なので、セックス描写の露骨さは売りのひとつなんでしょうが。

『True Detective』は、これまで「女性キャラの描き方が弱点」と批判されてきたし、筆者もそれには同意。なので、今回は過去3シーズンのクリエイターであるニック・ピツォラットが退き、メイン2名を演じるのは女性、しかもショウランナーも女性(メキシコ人の監督イッサ・ロペス。プロデュースにはバリー・ジェンキンスも参加)というのはひとつのアンサーなわけだが、既に決まっている枠組みに女性を押し込んだ印象? ジョディ演じる署長が、若い男性捜査官と一緒に推理を押し進めていく地味な場面等は素敵だったが、そうした「間合い」よりも様々な問題――エコ、貧富格差、ジェンダー、人種、家族――をてんこ盛りにしていく感じで、焦点が落ち着かない。

あと、音楽の使い方も神経を逆撫でされた。ビリー・アイリッシュの〝bury a friend〟がイントロに使われる主題歌で、これには「え、5年後の今に、これほど使い古された曲を使うんですか?」と感じた。それだけならまあいいんですが(監督のロペスは「この曲が作品の大インスピレーションだ」と語っているので、思い入れが強いのだろう)、劇中に、唐突に「細く物悲しい声の、ムーディで今風な女性フォークトロニカ・ポップ(ポスト・ビリー・アイリッシュ調のそれ)」が何度も挿入されるのは……キツかった。挿入歌がムードを高めることは多いけど、筆者には集中力を殺ぐ結果になって、残念ながら逆効果。というか、途中からはもう、音楽が始まるたび、「やめて〜〜!」と叫びたくなるほどだった。ドラマも「プレイリスト」を作らなくちゃいけない時代なのかもしれないけど、オリジナルのスコア、もしくはいっそ音楽なしでもいいんじゃないかと。

というわけで、4話まで観て筆者はダウンしました。見返すことはあるのかなぁ? そこそこ期待していたので、残念です&これで『True Detective』のフランチャイズも終わりかもしれない。

*ブラック・ブリティッシュの新波

ドラマの最後に紹介するのは、若者向けのドラマ『Grime Kids』。ワイリーのクルーであるDJターゲットの書いた、グライムの勃興から成功までをたどった同名ノンフィクション本にインスパイアされた翻案ドラマです。

舞台は2001年、東ロンドンのボウ地区。メインのキャラは5人の学友で、18歳で義務教育を終えた「最後の夏休み」を一緒に楽しもうとする――と書くと、ちょっと『Stand By Me』っぽい男の子の成人儀式譚ですが、彼らが発見するのは死体ではなく、海賊ラジオで幅を利かせていたグライム=ガラージ、ドラムンベース、ヒップホップのハイブリッド音楽。発見というか、彼らの日常で鳴っていた音楽だが、5人は力を合わせて「グライム・クルー」を結成し、コンテストに勝ち進むのを目指す。

グライムに詳しい人ならきっと、劇中で鳴る音楽もピンと来て面白さが倍増するんでしょうが、残念ながら筆者は詳しくない。あと、高層団地にアンテナを仮設し海賊ラジオの設営ぶり(&違法なので逮捕劇もある)とか、ビートやリリックをめぐる競争もなかなか熾烈(主人公の子たちが自作ビートを使わざるを得なくなり、大急ぎでダブプレートを一枚作る展開はなかなか面白い)。それでも、5人の少年――MC向きな騒がしい子から音楽好きなDJ/ビートメイカー系、おとなしいけどマネージャーを買って出る子まで、仲間内のバランスがそのままクルーに発展する――が、生き生きと夏のロンドンと音楽の冒険を満喫しようとする基本の構図は共感できる。と共に、グライムのスピットとせわしないビートが、あの頃のロンドンの若者たちにとってどれだけ「リアル」だったかも少し分かった。

このドラマはBBCの若者向けチャンネル=BBC Threeの制作で、プロダクション値は決して高くない。かつ、ブラック・ブリティッシュの抱える様々な問題――世代間のギャップ、ヘヴィな家庭不和、女性差別――を詰め込み過ぎた感もある。だが、それに負けないくらいキッズの笑顔も家族愛も恋愛も描かれるし、「夏」のノリでいっぱいな、ハレーションを起こしそうなくらいポップな画面作り(赤・青・黄やグリーンが目にはじける!)や幻想的なペッツバール・レンズの利用は、苦悩を抱えつつも彼ら5人の目が濁っていないことを感じさせる。

このサニーでキャンディ・カラーなノリは映画『Rye Lane』にも共通するが、『Grime Kids』とのもうひとつの共通点は、ブラック・ブリティッシュのトラウマに執着していないところだ。先述したように『Grime Kids』は複雑な家庭問題を扱い、「甘く楽しい」ばかりではない。かつ、メインの5人衆のひとりが地元のボスから恩義を借り、仲よしになってブランドものの衣服や小遣いをもらうところから、徐々にドラッグのディーラーとして仕込まれていく描写もある。ギャングものではよくある設定なんだけど、ここではその展開が救いのないダウンワード・スパイルになる手前で踏みとどまっていて、その意味で嬉しかった――ドラッグ売買に絡んで犠牲になる側を描く悲惨なドラマは多いけど、そのステレオタイプを破ってくれたので。

●●映画篇●●

(アルファベット順):American Fiction/Anatomy of a Fall/The Holdovers/Oppenheimer/Poor Things/Saltburn/The Zone of Interest

アカデミー賞も発表され、ひととおり「23年映画」は総括された。今回の賞レースはひいきの監督(ジョナサン・グレイザー&クリストファー・ノーラン)、そしてアート〜インディ系作品が多くノミネートされたので例年よりも自分は盛り上がった。それに、パンデミックのダメージやストの影響から立ち直るべく映画界全体が一致団結で努力し連帯したし、プロモやSNSでの連動効果も大きかった印象。『Barbie』みたいなモンスター・ヒットも登場したし(でも、観てません)、ヴァイラルな話題に乗って『Saltburn』まで観ちゃった。それだけ、筆者のアテンション・バジェットはトレンドに流されやすいってことでしょう。ともあれ、珍しくアウォード系は大体観たので、雑感をあれこれ。

*中年教授対決

これは『American Fiction』と『The Holdovers』。どちらも優れた、しかし助演系の味出し俳優=ジェフリー・ライトとポール・ジアマッティが主演で、シニカルで気難しく、仕事関係の人々から煙たがられ、文学面でのフラストレーションを抱えている教授、という設定。ストーリーも舞台になる時代(前者は現在、後者は70年代)/場所もまったく違うが、頭の固いふたりのおじさんは様々な出会いや体験を通じて変化していく。

とはいえ、共通するのはそれくらい。『American〜』はブラック・アメリカンのモダンな悩みを様々な角度から、サタイア多めに描いたコメディ。冒頭で、ライトの演じるセロニアス・エリソン教授――あだ名は「モンク」ですが、セロニアス・モンクとラルフ・エリソンが合体した名前は、それだけでもプレッシャーだろうなぁ――は米文学講義でフラナリー・オコナーの短編を論じている。学生のひとり(ビリー・アイリッシュみたいな、緑に染めた髪の「WOKE」系白人女子)が短編の題名に使われたNワードに異議を唱えるが、モンクは彼女を「スノーフレーク」とばかりにシャットダウンする。これには爆笑してしまったが、以降、モンクの私生活/家族関係での大小様々な波乱を横糸に、職業面で彼のぶつかる「人種的なステレオタイプの障壁」の風刺――たとえば、彼の書く本が売れないのは「『ブラックさ』が足りないからだ」とエージェントに揶揄される――が縦糸で織り込まれる。

ファミリー・ドラマは基本的にさりげないタッチで描かれ、そのぶんじわじわ沁みてくる。対する、彼の作家としてのドラマは、「リベラルな白人」が無意識に抱えているバイアスをシャープに描き出していく。そのバイアスを、まずは逆手に取って大笑いするものの、やがて接収され、がんじがらめになってしまうモンクの七転八倒ぶりは、観てのお楽しみ。しかし、そんなことを書いてる自分も「バナナ」な人間なので、この映画は色んな意味で教訓になりました&笑ってるだけじゃいかんな、と。でも、そうした面を教訓臭くなく、コメディとして見せてくれたことには感謝です。

『The Holdovers』は、ジアマッティとアレクザンダー・ペイン監督の『Sideways』以来=約20年ぶりとなるコラボ。『Sideways』でジアマッティの演じたマイルスは小説家を目指す教師で、『The Holdovers』のポールは論文発表を夢見る寄宿学校の古株教授。どちらも難儀な性格とコンプレックスを抱え、プライヴェートは破綻している(特にポールは、アカデミア以外に友は酒くらいの、寂しい人物だ)。『Sideways』は結婚目前の親友とのワイン・カウンティ旅行をきっかけに主人公が殻を破り、遂には新たなロマンスに目覚める様を描いた。『The Holdovers』の主人公も人々との触れ合いを通じて殻を破るが、役回りは父親的な存在で(ロマンスの可能性も示唆されるが、現実はそう甘くない)ビタースウィートな味わい。ある意味『Sideways』のその後、と自分は捉えている。

『Sideways』が陽光あふれるカリフォルニア州で展開したロード・ムーヴィーだったのに対し、『The Holdovers』は1970年のニュー・イングランド、クリスマス休暇期の雪に覆われた名門男子寄宿校がメインの舞台だ。題名の「持ち越し」は諸般の事情で休暇中に帰省できず居残りになった生徒のことで、授業が厳しく生徒たちに嫌われ、学校側も手を焼く堅物のポールは5人の少年の監督官/世話役に任命される。しかし、最終的に居残りの生徒は15歳のアンガス(ドミニク・セサ)ひとりだけになり、両者と寄宿校の料理主任の黒人女性メアリー(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)の3人は広い校内で奇妙な共同生活を送る羽目になる。

頑固で人付き合い下手なポールと、頭がよいぶん生意気なアンガスは始めのうち反発し合う。しかしメアリーが「相手はまだ子供なんだから」的に間を取り持つ形で、置いてきぼりになった3人――教育と論文執筆だけが生き甲斐のポールは世界から置いてきぼりだし、アンガスは再婚したばかりの実母から邪魔者扱いされ、未亡人のメアリーは最愛のひとり息子を失ったばかりで孤独だ――は徐々に一時的な疑似家族を形成していく。とはいえ過剰にベタベタしたそれではなく、お互いを尊重しつつ、守り合っていくのがナイス。

その「ボンディング」の過程は基本的にコミカルに描写されるが、合間合間に三者三様の悲しみが浮かび上がる。中でも、息子に良い教育を与えるために名門校の料理人の職に就き、無事に入学させたものの、金持ちの白人子息生徒――上院議員の子供、ヘリコプターで迎えに来る親等――とは異なり、徴兵を免れることなくヴェトナムで命を落とした息子を悼むメアリーの心痛は、彼女の忍耐強い立ち居振る舞いや無言の表情、暮らしぶりといった繊細な描写なぶん余計に胸が詰まる。そんな彼女を、「(白人を助けてくれる)魔法の黒人」のバリエーションと捉えることも可能かもしれない。だが、キング牧師がヴェトナム戦争を「白人の起こした戦争で、闘うのは黒人」と批判したことを思えば、メアリーは当時のアメリカの貧富/人種の不平等が作り出した大きな痛みと損失の象徴だろう。

ややエキセントリックな異世代間の交流、70年代の設定(ロケハンが見事。古い建物がしっかり残ってるなあ、ニュー・イングランドは!)や衣装(肘パッチ付きのツィード:笑)、そして寒そうな画面も含め、『Harold and Maude』を彷彿させる昔風のアメリカのドラマ映画が満喫できる。オーソドックスながら、こういう地味ながら安定感のある作りでじーんと来る作品も、いいものです(ちなみにこの作品、脚本に対して盗作疑惑が浮上。今後の展開を見守るしかないですが、微妙な気分ではあります……)

*寄宿校対決

『The Holdovers』はアメリカ東海岸=アイヴィー・リーグ系男子寄宿校の様相を垣間見せてくれた。これは「体験した人にしか分からない」閉じた世界のひとつであり、やはり興味をそそられるけど、昨年こっちで話題になった『Saltburn』は、イギリスのオックスフォード大学+貴族社会という、ダブルに閉じた世界で展開する。大好きなバリー・コーガンが主演なので、彼を観るだけでもOKかな、と思い見始めたんですが……いやー、これは色んな意味で「舐めてる」映画だと思う(コーガンは既に『Eternals』という駄作にも出演しているので、キャリアのためにも、そろそろ作品を選ぶ頃合いだろう)。

大まかな筋書きは、ぶっちゃけ、イヴリン・ウォーの『Brideshead Revisited』とパトリシア・ハイスミスの『The Talented Mr. Ripley』のブレンド。コーガン演じるオリヴァーは、成り上がり/寄生虫のトム・リプリーと貴族に魅せられるチャールズ・ライダーの中間的なキャラで、2006年にオックスフォードで知己を得たポッシュで美男な同級生フィーリックスと仲よしになり、彼の自宅にして超豪邸であるソルトバーンと、有閑社会に取り入っていく。しかし一見純朴そうで、上流人から「哀れな下々の子」とペット扱いされるオリヴァーは嘘をつき、策謀を仕掛ける。

この展開だけでも、『The Servant』といった転覆劇のモダナイズなのだろうと察しがつく。だが、周到にあれこれ陰謀をめぐらせる割りにオリヴァーの動機があっちこっちに推移するのは――彼が「頼りにならないナレーター」であるのを差し引いても――『Saltburn』が過去の様々な転覆劇の混ぜこぜなパッチワークだからじゃないかと思う。フィーリックスに抱く愛情と嫉妬の混じる情念はリプリーだが、リプリーのサイコな冷酷さには欠ける。ライダーが華麗な豪邸と貴族に注ぐロマン――『Brideshead』は「失われつつある文化」へのはなむけだった――ではなく、オリヴァーは結局は、自己満足な充足&資産目当てと映る。動機がナゾでもいいのだが、『The Servant』の風刺、あるいはブルジョワを根本から変えてしまう『Theorem』のアレゴリー性はない。

ゆえに筆者には、エメラルド・フェネル監督が、ありもののプロットに自らの体験――彼女自身上流の出身でオックスフォード卒だ――をミックスし、今風にポップ・カルチャーを適宜ちりばめた(劇中に使われる楽曲は彼女が学生時代に好きだった曲じゃないかと思われる)、一種の「私の青春メモワール」のように思える。自己耽溺じゃないですか、それは? 

いや、もしかしたらこれは、「貧者にいいように手玉に取られる貴族のバカさ」を皮肉ろうという、インサイダーである彼女なりの自嘲気味の「上流批判」なのだろうか? だが、世襲制の貴族が間抜けで退屈で、ヌーヴォー・リッチ族がセンスに欠ける空疎な連中なのは言われなくてもみんな知っている。映画の中で、ロザムンド・パイクの演じるレディ・エルズペスは「パルプの〝コモン・ピープル〟で歌われる女の子のモデルって、あなたじゃないの?ってみんなに言われるけど、違うのよねー」という主旨の台詞を言う。これは貴族の自意識のなさを嘲笑したいのだろうが、監督自身も自意識がないなと感じずにいられない、それくらいシラけるジョークだった(「金持ちを叩け!」というノリは『Succession』以来トレンドだが、『Succession』はちゃんと風刺の対象と作家とが分離している)。

自分はロートルに過ぎず、本作は「こんなショッキングな映画は初めて!」と若者に大受けし、TikTokも盛り上がった。だが、カントリー・ハウスの豪華なインテリアや贅沢な暮らしぶり・広い敷地の美麗な映像にため息をつかせ、それとは対照的な目を剥くようなエグい場面の数々でショックを与えるこの作品は、「金」「セックス」「暴力」という最もベーシックな欲望をくすぐる意図――「あなたたちが観たいのはこれでしょ、ほらどうぞ!」と言わんばかり――がミエミエ。「観客を舐めんなよ」と感じてしまうわけです。このノリは、フェネルがプロデュースしライターとしても参加したTVシリーズ『Killing Eve』、ひいてはフェネルの友だちであるフィービー・ウォラー・ブリッジの作品に、いつも漂うものでもある。彼女たちはジェンダー・バランスの悪い映画・ドラマ界でがんばっている人たちなのだが……「女でもタブーは破れますよ」と自慢げで、その、男と張り合う(=つまり、既存の枠組みに留まっている)狭苦しさが、筆者は苦手だ。

*倒れる男たち

とはいえ、『Barbie』をはじめ女性作家の進出は続いている。各方面から絶賛された『Anatomy of a Fall』のジュスティーヌ・トリエも、そんなひとりと言える。雪山のシャレーから男性が転落死し、検察側は、事件発生時に現場にいた唯一の人間である彼の妻サンドラを殺人犯として起訴する――というプロットの『Anatomy』も、女性/男性の(一般的な)力関係を逆転させている意味で「タブー破り」だ(しかもサンドラは母親でもある)。だがこの作品、「これみよがし」な暴力やセックスの画面描写はないし(音声、あるいはニュアンスで示唆されるが)、説明的なフラッシュバック場面も一回しか登場しない。ミヒャエル・ハネケ的な欧州映画のストイックな伝統が心地好い。

映画のタイトルや宣伝スチルからも、プレミンジャーの『Anatomy of a Murder』が浮かぶ。また、ドイツ人(=外国人)で人気作家で、オープン&雄弁な「人間」であるサンドラが、法廷やメディア/世相の考える「女性」像にそぐわず勘ぐられる面はワイルダーの『Witness for the Prosecution』も彷彿する。無実を訴える彼女に様々な角度から疑惑がぶつけられる様は残酷だ(かつ、勝訴のためには陪審員の「エモーション」をいかに味方につけるかが大事、というプロセスも描かれる)。プロシージュアル/法廷劇としても楽しめるわけだが、この心理スリラーのキモは、もっと身近で(そのぶん)もっと分かりにくく白黒つかない「ナゾ」である家族や夫婦関係のあやだ。ゆえに観る人によってオチの理解は異なるだろうし、余韻も残る。フランス人のトリエの感性の方が、フェネルよりも好きです(音楽面でも、50セントの〝PIMP〟の使い方は『Saltburn』のフロー・ライダーよりはるかに効果的。あと、元サヴェージズのベスも脇役で出演してます)。

『Anatomy』を観て、パク・チャヌクの『Decision To Leave』を思い出した。あれも男性の転落死事件がきっかけで、中国人の妻に容疑がかかるところから始まる映画だった(とはいえあちらは、ヒッチコック風のオブセッションの物語なのだが)……なんて考えていたら、ヨルゴス・ランティモスの『Poor Things』でも男たちがよくぶっ倒れる。死にはしないが、主人公ベラ・バクスターを「所有」しようとする男たちは階段でこけ、麻酔薬や酒でつぶれ、殴り倒され、気絶してひっくり返る。作品序盤のモノクロ+魚眼レンズ使用と相まって古いスラップスティック喜劇やサイレント映画を思い起こすし、ベラに振り回される彼らは滑稽な小道具のようだ。

ウェス・アンダーソンばりに緻密にデザインされたスチームパンクな幻想世界を舞台にしたこのファンタジー作品は、自殺した女性の屍体に彼女の胎児の脳を移植し生き返らされたベラ(エマ・ストーン)のビルドゥングスロマン。「子供の無垢な魂を宿した麗しい肉体の女性」を創造した外科医「ゴッド」ウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)の伴侶となることが前提だったので、いわば『Bride of Frankenstein』であり、かつ助手の医学生マックス(ラミー・ユセフ)が彼女に恋するあたりはバーナード・ショウの『Pygmalion』的と言える。しかしこの人体実験=研究対象を独占すべく屋敷に閉じ込める両者の思惑は、ベラがみるみるうちに成長し、自我とセックスに目覚めることで瓦解。プレイボーイのダンカン(マーク・ラファロ)に誘惑/誘拐されて彼女は屋敷から出奔し、リスボン、アレキサンドリア、パリを周遊し世界を味わい(牡蠣からエッグタルトから酒まで)、見聞を広げていく。そのあれこれは、観ていただくのが一番でしょう。

書いているだけでもめまいがしそうなこのプロット、原作者はスコットランド現代文学のキー・パーソンのひとりで、画家としても知られるアラスター・グレイ。本のメイン舞台のグラスゴーは映画ではロンドンに置き換えられている(デフォーが下手なスコットランド訛りで喋るのは、グレイへのオマージュなんだろう)。残念ながら筆者はグレイの著作を読んだことはないが、彼のメタフィクションな処女長編『Lanark』はカルト人気を誇る一冊(600ページの大著!)で、本屋の「店員のイチオシ」コーナーで何度か見かけたので記憶に残っていた。

というわけで、父・求婚者・愛人・夫といった様々な「男たち」をバッタバッタとなぎ倒し、ベラは自己啓蒙を果たす――というのは、たぶん女性の自立のメタファーなのだろう。だが、女としてこの映画を観ると、あれこれ引っかかる。白紙状態のベラは、最初のうちは社会的な「慣習」や「恥」の概念を持たず、ジェンダー意識もない子供だ。片言の幼児語でしゃべり、癇癪を起こし、身体をうまく使えず歩くのにも苦労するその姿は、頭では「彼女の中身は子供なのだ」と分かっていても、サーカスの見世物のようで、人間として痛ましい(筆者には笑えない)。

ベラはすぐ思春期に達し、自慰の喜びに目覚め、性欲と食欲を満たすことにしばし夢中になる。でも、社会のルールを知らないはずのベラは、なぜ脇毛は綺麗に剃っているのだろう(陰毛は残ってますけど)。初潮もいつの間にか起こっていたみたいだし、更に言えば、地味にマスターベーションしていたところから、男を初体験して一発でアクメに達するのも、「本当かいな?」と感じた。彼女はニンフォという設定なので、性的発達が速い……ということかもしれないし、すぐにエクスタシーを得る女性もいるんだろうけど、現実的とは言いがたい。まあ、この作品は明らかに「ファンタジー」なので――豚の頭を持つニワトリといったあり得ない「創造家畜」や、蒸気馬車や未来的なケーブル・カーが登場し、アナクロです――、ベラに現実を当てはめるのはお門違いかもしれない。だが筆者には、彼女は「男性のファンタジー」の中の住人のように思える(スパイク・ジョーンズの『her』すらだぶる)。

ベラが幽閉の身から脱出すると世界はカラーに変わり、彼女のファッションもふわふわしたパステルカラーがメインの、薄着のショートパンツに変化する。だが哲学や社会主義に目覚め、イギリスに戻る頃までに、衣類は黒服や重々しいドレスに変化。そう簡単に「貫通」できなくなった=女の強さを視覚的に象徴しているし、実際、彼女は様々な意味で解放され、「勝った」と言えるのだが――ベラが去った後に、その喪失感を埋めるべくゴッドウィンとマックスが作ったもうひとりの「子供女」は、残念ながらそうはいかない。情緒が欠如した彼女はまさに大きな身体の子供で、やっとキャッチボールをやれるようになって祝福されるが、この屋敷の唯一の女性である看護婦は「この子の方が(ベラよりも)大人しいから良い」と、ラチェッドのように評する。虚ろな目で、そそるように口を半開きにして庭をうろうろする哀れな可愛いお人形さんのような彼女は、解放してもらえるのだろうか?

*タイムリー過ぎて重い2本

大変冗長になりました(ここまで読んでくださった方、本当にありがとう!)。なので最後は、『Oppenheimer』と『The Zone of Interest』でなるべく簡潔&真面目に締めようかと。確認したところ、日本公開は先なのでスポイラーも控えます。

スーパーヒーローやSF大作の印象が強いが、『Oppenheimer』は『Dukirk』に続く、クリストファー・ノーランの第二次大戦もの2本目。とはいえ史実に基づき、しかも実在の人物を扱ったという意味では初(かつ、20年以上の付き合いであるワーナーではなくスタジオはユニバーサル)。「原子爆弾の父」として知られる理論物理学者ロバート・オッペンハイマーは、後に赤狩りで追放される等、複雑で数奇で謎の多い人生を歩んだ。ゆえに各種ドキュメンタリーやテレビ・ドラマも作られてきたし、「ノーランが、なぜ、今?」と感じたのは事実。バイオ映画なのだろうか、と思ったわけです。

だが『Oppenheimer』は紛うことなき「ノーラン映画」だ。パラレルで進むふたつの聴聞会を軸に、オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の人生のキーとなる箇所や重要人物との出会いはほぼ時系列に沿ってフォローされる。しかしモノクロとカラー映像のミックス、ノンリニアな構成や幻想的なシーン/シークエンスの大胆な挿入等、お得意のテクニックを駆使し、核の兵器利用をめぐる科学・政治・私情が複雑に入り組んだコンスピラシー&ミステリーがヴィヴィッドに描かれる。編集(秀逸!)、映像――特にモノクロ映像のディープ・フォーカスや質感は、50年代映画の王道感を今風にシャープにアップデートしている――も合わせ、現在最もパワフルな監督のひとりの手腕が冴える。

そうして「ノーラン映画」になったことで、重い主題の扱い方――スポイラーになるので詳述は避けます――に異論を唱えたくなる人もいるだろう(特に日本では)。また、「男の相克/オブセッション」に夢中で女性キャラはそっちのけ、というノーランのクセも相変わらずだ。だが、ロシアの動きで核の脅威が再び顕在化している今、そのオリジンとその後の展開を俯瞰で見直すことは、苦いが重要な教訓だと思う。本作の原作になったオッペンハイマーのバイオ本は『American Prometheus』という題名だ。「神から火を盗み、人間に与えたプロメテウス」というメタファーは映画の冒頭でも参照されるが、火をどう用いるかは、いつだって人間次第だ。

『The Zone of Interest』も、パレスチナ・イスラエル戦争で奇しくもタイムリーになってしまった映画と言える。「ホロコースト映画」ということになるが、アウシュヴィッツ強制収容所所長だったルドルフ・フェルディナンド・へスと彼の家族が中心になるこの映画は、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」を痛感させられる強烈な作品だ。恐怖はじりじり迫ってくるものの、目には見えない――というか、メインのキャラたちは、自主的に目隠ししている。

ぜひ実際に観ていただきたい――というか体験していただきたい――ので、詳述は避ける。だが、ノーラン映画が高予算・著名キャスト・贅を尽くした技術etcで「魅せた」としたら、この対照的に淡々と地味な作品は、丁寧なロケハン、周到なカメラ配置&編集、クローズアップや説明的な台詞回しに頼らない自然な演技や画面作り(ゆえに観客も画面の中にいて、登場人物のひとりとしてドラマを見守っている感覚が生じる)、象徴的な場面、音響デザインといった「密度の濃さ」で見せる。どちらが上か云々の話ではないし、どちらも根本は反戦映画であり、そのメッセージがいかに伝わるかが何よりも大事だ。しかし『The Zone〜』の方が、最初の衝撃の後にも色んなものがわだかまり続ける。筆者にとってはたぶん、『Oppenheimer』の巧妙なジグソー・パズルを読み解くよりも、こちらの方が面白い。

この映画には『Anatomy of a Fall』で主演のサンドラ・ヒュラーも出演しているが、2作での彼女の演技の音階の変えぶりは見事で、個人的にはエマ・ストーンよりも「女優賞」がふさわしいと思う。

今回取りあげた映画の中で、これだけは劇場で観た1本だった。一般公開の前に、場末のマルチプレックス館で一回限りの先行上映があって飛びついた次第(大音量で観れたのも含め、大正解だった)。高らかに宣伝されていたわけでもなく、夜の空きの時間に「こっそり」忍び込んだ興行っぽかったが、フタを開けるとなんとほぼ満員。小さい会場での上演だったのでお客は200人強だったとはいえ、寡作なグレイザーのカルト人気を感じて嬉しかった――というのもこの人、約四半世紀の間に4本しか長編を撮っていない。だが、その4本のどれも、ジャンルもテーマも異なる――『Sexy Beast』は英ギャングスター映画、『Birth』はニューヨーク上流社会を舞台に愛の怖さを超自然的に描き、『Under the Skin』の主人公はグラスゴーにやってきたエイリアン――ものの、毎回「ジャンル」を越えた映像表現や実験、ストーリーテリング、演技を引き出している。本作も、その唯一無二&駄作なしなキャリアの素晴らしい最新章だ。ノーランはキューブリックを崇拝しているが、彼とは別のレベルで、グレイザーもそこに迫っている気がする。

スコセッシの『Killers of Flower Moon』も絶対に観たいので、チャンスを待ちます。

Mariko Sakamoto について

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