TV Roundup:秋の陣

TV Roundup: Justified, The Gallows Pole, Boiling Point, Blue Box, Planet Earth 3

寒さもつのってきて、一瞬ですが、もう雪(雹かもしれない)も降りました。というわけで久々のポストは、薄着で過ごせた時期がもはや嗚呼〜懐かしいよ〜!な夏あたりから最近にかけてのテレビねたです。ドラマからドキュメンタリーまでごた混ぜですが、あれこれ綴っていきます。


●Justified: City Primeval(FX)

パイロットのみで打ち切りというケースも珍しくない弱肉強食なテレビ・ドラマ界ですが、カルト人気を誇りつつも数シーズンで惜しまれつつ終了、というパターンも切ないもの。それでも「捨てる神あれば拾う神あり」、たとえば英産犯罪ドラマ『Top Boy』がオリジナルの2シリーズ終了から6年後にネットフリックス(とドレイク)経由でまさかの復活を果たしたりもする。

その意味で、オリジナルのOAは2010〜15年だからなんと8年ぶり――たぶんコロナの影響で制作が遅れたのもあったでしょうが――に『Justified』が復活と相成ったのは、非常に嬉しかった。以前も本ブログで触れたと思うが、筆者は『Justified』は完全に後追いのクチながら思い切りハマった。こうして放送終了後に徐々に「隠れた/知られざる逸品」の地位を獲得するドラマは、オン・デマンドやストリームが一般化した現在、増えているのだろう。

んなわけで『Justified』再び!の報に触れた時は小躍りしたものの、同時に「どうドラマを延命させるのだろう?」とも思った。というのも、このシリーズは単に「無惨な尻切れとんぼの打ち切り」なわけではなく、5シーズンにわたってエキセントリックなキャラとややこしい人間関係を育て、因縁やストーリー曲線も良い感じにふくらんだところで、それなりの「落ち」がついて終了した。しかも原作者エルモア・レナードは、『Justified』の主人公:レイラン・ギヴンスものは多く書いていない(他の小説にカメオで登場するケースはある)。レイランが主役を張る長編『Riding the Rap』すら、なんとシーズン1の1話で翻案・消化されてしまったくらいで……いやはやもったいない。

イギリスでストリーミングに落ちてくるまで時差があったので、スポイラーは極力避けてレヴュー等は見ないようにしていたが、原作不足問題の解消は副題にあった。「City Primeval」はレナードが1980年に発表した犯罪小説で、この筋書きやキャラを用いて、主役の刑事をレイランに変えたという仕組み。『Justified』でティモシー・オリファント演じるレイランは、映画化の多いレナードにとっても一番のお気に入りだったという。おそらく管財人も、それを踏まえてこの翻案にゴーサインを出したのだろう。

ともあれ、フタを開けてみると――うーむ。正直、いまいち。微妙でした。これは自分の期待値が高過ぎたせいで、そこは差し引くべきだろうけども。前シリーズから15年後……という設定で、オリファントの「イメージの維持ぶり」は賞賛に値するし(ごま塩になった以外、ほとんど変化なし!)、彼が「レイラン立ち」のポーズを決めるだけでも『Justified』の世界に投げ込まれる。
プロダクション・ヴァリューも立派なものだし、アンジャニュー・エリスら演技派も見せ場を発揮。ストーリー展開やアクションのキレもよく、いったん見始めたら止まらないのは昔と同じ。ストーリーもスリル&どんでん返し&裏切りの連続で、レナードらしいジェットコースターな魅力が味わえる。ですが、主な舞台がレイランの生まれ故郷ハーランではなくデトロイトなのは、やはり物足りない。デトロイトの風情を楽しめるのは、それはそれでいいんですが、例の主題歌の「♪I see them long hard times to come」のカントリー味がなくなってしまったのは寂しいな、と。

それと共に、ハーランでレイランが築いてきた家族/友人/敵対関係やタッグを組んできた捜査チームとの息の合ったプレーもなくなってしまった。一癖も二癖もあるキャラが多く、暴力描写のすさまじさとコントラストを描く形で、彼らが気の利いた台詞とコミックリリーフをもたらしてくれるのが魅力だったんですけどね。時代に合わせて(?)全体的にもっとタフでシビアというか、おちゃらけ少なめなトーン。サブプロットに「白人保安官の、黒人容疑者に対する過剰暴力/ハラスメント問題」の要素が含まれたり、「早撃ち」の果たし合いで決着をつけるレイランの昔流な解決法もPCを意識してか抑え気味。モダンな西部劇という一種のファンタジーであった『Justified』が、より現実的になってよみがえった、とも言える。

そのアプローチそのものは、昔からのファンだけではなく新世代のオーディエンスにもアピールするための方策として納得できる。ですが、今シリーズに対する当方の最大の不満、それはずばり「ヴィランが役不足」だったところ。原作は読んだことがないけれども、アンチ・ヒーローであるクレメント・マンセル――アモラルな凶悪犯罪者――が、彼を追うヒーローのレイランと同じくらい重要なストーリーだ。このマンセルをボイド・ホルブルックが演じたんですが、元モデルだけにルックス&ボディはナイスながら、サイコパスの奇妙な魅力(=カリスマ)と、その裏に潜む「mad man」の異名をとるだけの冷酷非情さ(=犯罪者としての知性)を感じさせない。ので、このただのサディスティックで面白みのないキャラに対して心理的に投資する気が起きないし(「とっとと逮捕されてくれ」としか感じない)、彼の「ホワイト・ストライプスねた」もひたすら痛かった……(せっかく足されたこの「デトロイト風味」が、不発に終わって悲しい)。たとえば、チャールズ・ウィルフォードの『マイアミ・ブルース』映画版でアレック・ボールドウィンが演じたのもこういう暴走キャラだったけど、ボールドウィンはこの二重性をしっかり体現していたと思う。

もうひとつ、これはちょっと手厳しい意見かもですが、オリファントの実の娘がレイランの娘:ウィラ役で出演ってのも、なんだかなー。ファン・サーヴィスだとも言えるし、父子共演を微笑ましく感じる人もいるだろうけど、このキャラは本筋には大して関わってこないので「とってつけたネポ」な印象が拭えない。離婚家庭のティーンエイジャーと、彼女に振り回される父親という「よくある」親子ドラマも欲張って前半に含めたことで、肝心の犯罪ストーリーにエンジンがかかるまでアイドリングした感があったのも惜しい。まあ、「かっこよく悪人を倒し、女性にモテモテのスーパー保安官レイランも一児の父、老けて円くなってきた」という成長を描きたかったんでしょうけれども。

というわけで、「同じようでいて違う」のが、筆者にとっては裏目に出てしまった新『Justfied』というところです。かつ、ラストの落ちが――ネタバレになるので触れませんが――「それって、確かに嬉しいんだけど、でも反則じゃない!?」と感じずにいられない、アンビバレントな後味が残るものだった。もっとも、ファンの反応は良いみたいだし、それも当然なんですけど、当方にはやや安っぽいトリックだなと思えた次第で痛し痒し。犯罪ドラマが数多くひしめく中でも、『Justified』の高いエンタメ性はやはり頭一つ抜けている。けれども、この最新シリーズは一種の「外伝」として、別腹で消化した方が良いかなと思っている。

●The Gallows Pole(BBC)

お次は、シェーン・メドウズ監督の最新ドラマ『The Gallows Pole』。なんとメドウズ初のBBC登板、そして初の時代劇と、初物づくしになりました。それが果たして吉と出るのか、凶と出るのか?という面も興味津々でしたが、いやー、さすがメドウズ! 気合いの入ったオルタナ時代劇でありつつ、作家性もがっつり味わわせてくれます。イギリスでの放映は、民放に較べてお堅い(=諸規制が厳しい)BBCなので、それがどう作用するのかなとも思っていたけど、制作そのものはA24なのでメドウズも妥協せずに済んだ模様。

原作はベンジャミン・マイヤーズの同名歴史小説。当方は未読ですが、産業革命で大変動していた18世紀:英北部ヨークシャーのヘブデン・ブリッジ――過去数年、英北部のインディ・ロック・シーンのハブにもなっている――にあるクラッグ・ヴェイルというエリアに実在した「Cragg Vale Coiners」なるギャング団が主人公です。「ギャング」と言っても強盗/窃盗団ではなく、贋金作りの一種の地元協同組合に近い(英国史上に残る大犯罪のひとつだとか)。産業革命の大波を食らい失職した紡績/機織り職人(昔のイギリス人は自宅で手作業で糸を紡いでいたんですね)が多いクラッグ・ヴェイルでは貧困層が増加。彼らに紡績器具を貸し出すことで賃貸料をせしめる富裕層や地主は、貧民の苦しみなど無視している。そんなところへ、職を求めて遠隔地に出奔したまま長いこと音信不通だった「放蕩息子」デイヴィッド・ハートリーが帰ってくるところから話は始まる。

荒れた生活を送りいくつもの罪を重ね瀕死の重傷を負ったデイヴィッドは、故郷の村を目指す長旅の途中、『嵐が丘』を思わせるムーアズで行き倒れになりかけたところをペイガンな土着神(精霊? いや、悪魔かもしれない)に命を救われるという不思議なオカルト体験をする。村の名士の息子(父親が亡くなったところに、デイヴィッドが帰ってくるのも象徴的)である彼は、以降この超自然的な異教神のお告げ――マクベスの三魔女みたいにありがちにおどろおどろと重々しいだけではなく、妙に剽軽なところがナイス!――に従いつつ、村の窮乏を救う一種の「王」として再生を果たすことになる。

彼が持ち帰った秘密兵器は「クリッピング」なる贋金作りの技術と道具。今とは違い、拙く鋳金されていた当時の硬貨のハミ出したりいびつな端を丁寧に切り取り(clipping)、削り、そうやってセコセコ集めた金のクズを溶かし、硬貨に鋳造し直すというもの。ざっくり言えば、金貨を10枚集めれば、そこから贋金コインを1枚作り出せる=11枚になる仕組み。最初はビビっていた村人たちも、このままじゃお先真っ暗なシビアな状況を前に一蓮托生、子供から大人まで彼の犯罪エンタープライズに加担し協力することになる。

それこそ、森に潜んで敵の接近を見張る子供の前哨隊からカモを騙すお色気チーム、スリに鍛冶屋に時計職人に会計係りまで、コミュニティが人海戦術に取り組む様は痛快。基本的に「ハイストもの」が好きな筆者にはたまらないし、「誰もが(知力、体力など、程度の差はあれ)貢献できる」という前提により、それまで活気のなかった村にインスピレーションの電流が走るのは感動的だ。自分も何かの役に立っている、という意識=生き甲斐って、大事です。

このメイン・プロットも充分面白いが、それを起点にメドウズ味が通津浦々に行き渡っている。まず愉快なのは、時代劇なのに「歴史物」っぽさをあっさりうっちゃっている点。時代考証はなされているとはいえ台詞回しは今風で、「大昔のヨークシャー訛り」にあまりこだわっていない。演技もキャラ造型も現代的にナチュラルで時代がかっていない。「メドウズ組」である主演のマイケル・ソシャとトーマス・ターグース(どちらも生まれはミッドランズ圏)も、昔の言葉(theeとかね)は混じるもののアクセント他の足枷が無いぶんのびのび役柄に没入し、なり切っている印象。村民のやりとりやドタバタ、ユーモラスな丁々発止に耳を傾けていると、時代こそ違え、これも一種の『This Is England』、すなわち弱者や貧者やはみだし者のトライブ/ギャング/クルーを描くドラマであるのが分かる。本シリーズ――現時点で放映された3話はプリクエル/前篇に当たる――のラストのパーティ場面のカタルシスも、その念を強くさせてくれるものだった。

『This Is England』はターグース演じるシェーン少年のビルドゥングスロマンがスレッドになっていたが、ここではソシャ演じるデイヴィッドの男としての変容・転生がそれに当たる。無骨さと繊細さ、ドライでひきずるような英北部らしいユーモアと怪物の陰りが入り混じる力演で全体を引っ張っていて、メドウズの薫陶を受けた良い役者に成長しましたね! 一度は捨てられたことを恨みつつもやはり彼を忘れられない恋人グレイス(勝ち気で姉御肌で、これまたメドウズ的女性)とのこじれ(腐れ縁とも言う)が、シャイに少しずつほどかれていく描写も実に健気で愛らしい。

コスチューム・ドラマに現代風なひねりを加える――というトレンドは、『Peaky Blinders』の成功が大きかったと思う。時代劇と言っても19〜20世紀初頭のドラマなのでそんなに古くはないけれど、ダイナミックなアクション・シーンや臆面ないスタイリッシュな絵作り、アナクロな音楽の使い方(ガレージ・パンクやネオ・ゴス。何せ主題歌がニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズの名曲ですからね)は――好き嫌いも分かれるが――斬新ではあった。『Peaky Blinders』の作者スティーヴン・ナイトは、ミュージック・ヴィデオを思わせるこの華麗かつロックンロールでゴシック・ノワールでシニカルなノリを『Taboo』にも継承し、最近ではチャールズ・ディケンズ翻案も2本手がけている。例えばエミリー・ブラント主演の『The English』も、完全にこのノリだった(お話は凝っていてとても面白かったんですが、レイフ・スポール演じる悪役が、ナイト作品でのトム・ハーディのバロックなヴィランの二流パロディに見えて仕方なかったのはキツかった……)。

ただ、もういい加減このトレンドも食傷気味(実際、筆者は第4シリーズまで付き合って『Peaky Blinders』とキリアン・マーフィの美しいほお骨にはさよならしました)。『The Gallows Pole』も、タイトルロールだけ観ると「メドウズも『時代劇ロックンロール』の潮流に便乗しちゃったの?」とつい感じるが、ドラマ冒頭の原野を彷徨うデイヴィッドの姿には『Dead Man’s Shoes』が重なるし、いざドラマが回転し始めるとメドウズ作品の「魂/髄」がちゃんと伝わってくるので安心&満足。その『Dead Man’s Shoes』は一種サイケデリックなスリラーだったが、その英国的なダークさはここにも流れている。ちなみに、かのGOATが音楽担当ってのも、フォーク・ホラーの要素として超ボーナス点だな。後編はどうなるのかしら(そもそも「絞首台」ってタイトルですから、たぶん悲惨な結末でしょうね:嗚呼!)。

●Boiling Pint(BBC)

シェーン・メドウズと言えば、盟友/名優スティーヴン・グレアムとのコラボもつとに知られるところ。グレアムは一般的な意味での「イケメン」ではないものの、愛嬌が一瞬にして狂気に切り替わる目の離せない存在感(北野武を彷彿させる)と演技力を買われ、味出し脇役/助演としてドラマや映画界にどんどん躍進、今や主役級にまで成長しています。こういう下克上、最高だなぁ。

そのグレアムが主役を張ったのが、短編をベースに劇場映画に発展した『Boiling Point』。「沸点」というタイトルが示唆するように、予約で満席なある晩のサービス時のレストランの厨房&フロアのストレス状況を描いた内容で、公私で様々なトラブルを抱えたヘッド・シェフ:アンディがメンタルの「ギリギリ」に追い込まれていく。映画版はワン・ショット撮影のリアルタイムな作りを用いていたので、そのぶん余計に緊張感が半端無かった。その映画版の好評を受け、ドラマ化と相成った。『The Bear』の大ブレイクも、この決定にポジに作用したのではないかと思う。

設定は映画版の出来事の6ヶ月後。アンディのスー・シェフだったカーリー(を演じるヴィネット・ロビンソンは、先述の『クリスマス・キャロル』でグレアムと共演済み)は独立し、スタッフも引き連れて自身のコンセプトに基づくレストランを開店。コロナ後の逆境の中でマイ・ビジネスを軌道に乗せようと必死だ。この「劣勢挽回」の構図は『The Bear』と同様で、基本的に冷静でストイックなキャラであるカーリーも、仕入れ・資金繰り・スタッフの抱えるトラブルに絶え間なく巻き込まれグラグラ揺れっ放し。一方、リハビリ中のアンディの葛藤もサブ・スレッドとして並行展開する。

テンポの良い筋運びでストーリーは進行し、トピックやドラマも盛りだくさんなのだが、個人的に残念なのはそのせいで各キャラの発展・成長が促成栽培気味に思えたところ。カーリーの私的な苦悩が徐々に明らかになっていくプロセスは良いのだが、いかんせんこうしたドラマはアンサンブル・キャストとの和音や余韻がモノを言う。厨房のスタッフから接客チームまで年齢もバックグラウンドも幅広いキャラが登場するので、彼らの内面に光の当たるパートやエピソードが短めで、消化不足になってしまうのだ。

『The Bear』と比較するのはフェアではないかもしれないが、敢えて書くと:『The Bear』は家族経営のレストランが舞台であり、ゆえにファミリー・ドラマとしての力学が大きいぶん、公私のブレンドがしやすい。しかもこのレストランは元々はシカゴの下町の老舗サンドイッチ食堂であり、雇われた人間も縁故〜腐れ縁な面々が多く、いわば「疑似家族」。関係性が密でコアになるキャラが絞られているぶん、主人公カーミーの「ハイプマン」とも言える従兄弟リッチーのようなトンデモキャラにスポットが当たり陰影を細かく重ねていく余裕がある。

対して、『Boiling Point』が描くのは一般的なレストラン。もちろん、サービスを日々こなす「チーム」としての連帯感/友情はあるものの、ある家族の複雑なファミリー史という強力なバックボーンには欠ける。その分を補うためなのか(?)、ドラマにはモダンでリアルな「問題」が盛り込まれている。経営難、働き過ぎからくるストレス、アルコール/ドラッグ関連のトラブル、若者のメンタルヘルス、恋愛の危機、同性愛者のジレンマ、職場におけるハラスメント(キッチン内だけではなく、接客係がお客から浴びるそれもある)、貧困/失業の現実……。

心理的重圧に焦点を当てるのは、タイトルに見合う「沸点」を描くためのひとつの制作決断なのだろうし、それ自体にケチをつける気はない。ただ、それら「取り上げるべき」社会問題を一気に詰め込んだ結果、世話物ソープ・オペラっぽくなってしまったのは否めない。ここまでタイトにしなくても、もうちょっとユーモアを足して(良いキャラはいるので、ユーモアはちゃんとあります)、些細でも良いから個々の人間の達成する勝利や充足感も配合して欲しかったな〜と感じる。だが、このドラマの第2シリーズが制作されるか否かはOA時点では不明だっただろうし、打ち切りの可能性も視野に入れて、「やれる時にやれるだけやっておこう」心理も働いたのかも? かつまあ、個人的に『The Bear』の魅力はあれがおとぎ話=ファンタジーであるところに大きく依っていると思っているし、そういう作劇に向かわない/向かえない世知辛さが、ある意味、今のイギリスなのかもしれないと思った。

●Blue Box, Planet Earth 3(BBC)

最後にドキュメンタリー2作。ぶっちゃけ、近頃は映画もドラマもハマれるものとの出会いが決して多くない。と言っても、そもそも自分の利用できるプラットフォームの数が少ないので、見逃しは山ほどあるんだろうけれども。そういう場合は大抵音楽を聴くか読書に切り替えるのだが、もっと気楽で惰性な娯楽である映画/ドラマを疲れた頭が欲している場合は、大抵BBCiPlayerのドキュメンタリー部門を漁ることにしている。セレブとの他愛のないインタヴュー等も含まれるとはいえ、ちゃんと掘れば最新のオリジナル番組から過去のアーカイヴ作品、世界各国で製作されたドキュメンタリー映画も含む豊富なラインナップで、内容も人物伝からアート作、ネイチャーに社会派まで多彩だ。

『Blue Box』はそんな風にして出会った1本で、「イスラエルの森の父」と呼ばれ讃えられる公務員ヨセフ・ワイツの人生と彼の業績に光を当てた内容。タイトルはユダヤ民族基金の用いた「青い募金箱」(ダビデの星の青がシンボル)を指す。

1930年代から同基金の土地・植林局責任者として植樹計画やユダヤ人居住地確保を進め、「建国」の夢実現にはげんだワイツ。映画は、彼の曾孫であり本作の監督のミハル・ワイツが、曾祖父の残した日記を読むことでひもとかれていく。家族の蔵書や写真へのアクセスはもちろん、監督は記録映像やニュースリールや公文書等もふんだんに用いつつ、基金に対する国際的な反響、シオニズム運動、ホロコースト、パレスチナ分割〜イスラエル建国、パレスチナ難民問題……と長い歳月と諸相を立体的にトレースしていく。

「約束の地」を実現すべく、子供たちと共に荒れ地に樹を植え開墾にいそしみ、迫害されたヨーロッパのユダヤ人の入植を進めるかたわら、並行して貧しいパレスチナ人地主から土地を買収し住民を追放していったヨセフは自らの行為や政策に苦悩し葛藤も抱えていた。とりわけ心を掴むのは、この日記を読み曾祖父の活動をリサーチする中で、ミハルにも新たな「気づき」が生じるくだりだ。子供の頃に、学校の窓から見えた朽ち果てた住居跡や植樹によって埋もれた名も無い廃墟は、かつてパレスチナ人たちの「村」だった――学校で教わらなかったその事実に、彼女は衝撃を受ける。林業や経済基盤を築くシンボルとも言える植樹事業は、アラブの痕跡を抹消し、追放された村人たちが戻ってくる場所を消し去る戦略でもあった、と。

「迫害されたものたちによる迫害」?――ここで、彼女は自らの父や親戚にカメラを向け、曾祖父のレガシーをどう思うか?と訊ねる。この一種の「内部告発」に、彼らのほとんどは「時代が違った」「今の視点で過去を判断するのは、あまりに近視眼的だ」と言葉を濁し、中には怒って撮影を打ち切る者もいる。長年の戦争やテロリズムで多くの命が落とされてきた背景を思えば、彼らにも彼らなりの悲痛な体験と遺恨、観点や主張があるだろう。「建国の父」のひとりと尊敬される祖先に対し、「何も分かっちゃいない」今時の若僧にケチをつけられたくない、と感じてもおかしくない。そこを、「自分の家族だから」と繕うことなく、監督がありのままに見せているのも良い。と同時に、彼ら――インタヴューを受けたのは、中年〜年配の男性がほとんど――の対応ぶり=いわばシャットダウンぶりが、たとえばMeTooで糾弾された者たちの弁解に似ているのは、印象的だった。「時代が違った」から仕方ない、と。

偉そうにあれこれ書いているが、そんな筆者もこうした背景はまったく知らなかったので、目ウロコだった。たとえば60〜70年代に社会主義者のイギリス人がキブツにヴォランティア労働しに行ったり、「イスラエル建国」はかつて一種のコミュナルなユートピア的な夢の光を放っていたのだと思う。しかし、現実はどうだったのだろう? 作品そのものは2021年公開とはいえ、現在のガザ状況を踏まえても、一見の価値ありな作品だと思う。

ちなみに、そんな状況に合わせてか(?)BBCiPlayerではジョン・ル・カレ原作のドラマ化『The Little Drummer Girl』(2018)も再放送。これは確か、『The Night Manager』(2016)の好評を受けてのテレビ・シリーズ化だったが、その『The Night Manager』が自分的にはコケたので、スルーしていた。とはいえ『Lady Macbeth』で惚れたフローレンス・ピューが主演、しかもパク・チャヌクのドラマ監督デビュー作品なので、いつか観たいな〜と思っていたので、これを機にビンジ・ウォッチしました。残念ながら、原作は未読です。

大筋は、モサドにリクルートされ、欧州各地で爆弾テロをおこなうパレスチナのテロ組織壊滅のためにスパイとして潜入する英国人女性の物語。『Blue Box』を観た後だったので、イスラエル/パレスチナ双方の「道理」の矛盾も感じた。とはいえ結局のところ、ル・カレの描きたいのはスパイの虚偽の構築というメカニズムと諜報テクニック、そこで板挟みになる愛と忠誠心、そしてイデオロギーのチェスの「歩」の駒に過ぎない彼らの悲しみ・虚しさであり、そこはこのドラマでもきっちり描かれている。

とはいえ、うーむ、やっぱり華やか過ぎ&セクシー過ぎ? 舞台は70年代末なので、ファッションから髪型から車からインテリアまでレトロ・ポルノが楽しめるし、煙草とウィスキーは頻繁に登場。ギリシャや中欧、レバノン、イギリスのカントリー・サイド等々ロケーションも多彩だ。この「国際エスピオナージ」なノリは『The Night Manager』の影響なんでしょうが、スパイたちの任務の危険さと隠密ぶりと重圧を考えると、「こんなにかっこいいはずがないだろ!」と突っ込みたくなってしまう。まあ、主役のチャーリーが若く美人な女優なので、そうしたグラマラスな面も混ぜないと、若いヴューワーは「カビ臭い」と敬遠するのかもしれません。でも、チャーリーの機転や色仕掛けがこんなに成功するって、マジかよ?と感じてしまうのも事実。

あと、やっぱり相手役がアレックス・スカルスガルドってのが自分的にはNGだし(表面が整っているだけで内面が感じられないんですよ、この人は)、いつもなら確実な役者であるマイケル・シャノンも、妙な訛りと「私はモサドのジョージ・スマイリー」的に気負った演技で、観ていてやや可哀想になったくらい。一番ハマっていたのは、イヤミでいけすかない英シークレット・サーヴィス長官を「上級役人の尊大さ」で演じたチャールズ・ダンス。でも、「ドラマ」という枠に縛られないチャヌクの映画的な絵作りや編集・監督ぶりはばっちり堪能しました!

最後は、デイヴィッド・アッテンボローのネイチャー・ドキュメンタリー作の最新作『Planet Earth 3』。アッテンボローものは大体フォローしているんですが、いやはや、今回も北極から南極、密林から砂漠から海の底まで巡ってカメラマンたちの捉えた貴重な映像&喜怒哀楽に満ちた名場面満載。彼のドキュ・シリーズは全話一気に公開ではなく週一放映が多く、毎回待ち遠しいアポイント・ウォッチでした、ありがとう。

アッテンボロー作品も、ドローンやタイムラプスを始めとする撮影技術の進化に合わせ、よりHDでディープになっている。そこから明かされる生命のドラマは、繁殖・誕生・子育て・捕食・共同体・生存競争・死まで様々だが、本作ももちろんのこと、近年の彼の作品のキモにあるメッセージは気象変動が生態系に及ぼす影響の数々に対する警告、そして人間以外の動植物・環境へのリスペクトと愛情の念だ。アッテンボロー作品は日本でも観れると思うので詳細を綴るのは野暮なので控えますが(観てみてください!)、COP28が終了する直前の週末に放映された本シリーズ最終回では、政治家たちの地球温暖化に対するアクション/取り組みを問う声も発された。BBCは「政治的な中立」を重んずる公共メディアなので、これはなかなかスリリングだった――と書きつつ、受信料でまかなわれるBBCはこの不況&テレビ離れでピンチに立たされているそうで、アッテンボロー作品のように時間とお金のかかる番組の制作は、今後危険視されている。御大も97歳の高齢。いつ勇退しても誰も文句を言わない「国宝」にして英テレビ界の巨人ですが、それでもまだ伝えたいことが彼にはある、というのを強く感じた感動的なシリーズだった(涙)。


というわけで、ここしばらく観てきて、良きにつけ悪しきにつけ、心に残ったテレビ番組の好き勝手な感想でした。ここから先のイギリスのテレビはクリスマスねたがダーーーーッと続いてつまらないので、『Slow Horses』の最新シリーズを観れたら、それで打ち止めにしようかと思います。

Mariko Sakamoto について

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