そんなわけで『DUNE part 2』を鑑賞することにしたら、月ではなく砂漠には奇妙な太陽が昇っていた。前作も素晴らしかったけど、今作も『不思議惑星キン・ザ・ザ』というか、『風の谷のナウシカ』というか、『最後の戦い』というか、実にゴージャスな「異界」感を堪能〜〜! ヴィルヌーヴの映画作りはますます「見せつつ」、でも「説明しない」体感型になっていて、大胆な編集のリズムが気持ちいい。チェックしたらこのエディターさん、ヴィルヌーヴの諸作はもちろん『The Creator』(これも、かなり面白かった)も担当したんですね。
……と書きつつ、南ロンドンのレコ屋でやっぱり外せないのが、グリニッジにある老舗のMusic and Video Exchange(通称MVE)。ここはチェーン店で、過去には関連ショップも含めてロンドン内に数店舗あった。しかしレコ屋という意味では、キャムデン店が何年か前に店じまいした後では、現在はポートベロー店とこのグリニッジ店だけになってしまった。マーケットのあるエリアは観光客も多いのでエクストラな客足を見込めるけれど、そのぶん家賃が高いのだろうなぁ。
ハストウィット監督の前作である2018年公開の長編『Rams』(商業デザイン界の重鎮、ディーター・ラムスのドキュメンタリー)はイーノがオリジナル音楽を担当。恐らくそこからこの、ソロ・デビュー作『Here Comes The Warm Jets』のリリースから50年の年にふさわしい企画にゴー・サインが出たのだろう。ちなみにハストウィット監督は、若い頃に米インディの伝説的レーベル=SSTで働き、音楽関係の優れたドキュメンタリーも多数世に送り出したPlexifilm の共同設立者という経歴の人だ。道理で、同じ音楽好きとして、自分もこの映画の視点やセンスに自然に入り込めたわけだ。
と同時に、「イーノの全仕事・作品を徹底的に網羅した」盤石な内容など――その歴史も活動の幅も、作品やコラボレーターの数も、とにかくポリマスな人なので――それこそ10話くらいのシリーズでもない限り(笑)、カバーし切れないだろう(非公認のイーノ・ドキュメンタリー『Brian Eno 1971-1977: The Man Who Fell To Earth』という作品は、150分近い)。そう考えれば、観るたびに文脈や視点、焦点の当たるポイントが推移するというこの作品のコンセプトは、イーノという変化し続ける多面体を捉える、ひとつの手法としては大いにありなのかもしれない。その意味では、上映終了後に、もう一回上映してもらい、どれくらいリミックス・ヴァージョンに「差」が生じるものなのか体験してみたいところだったが、さすがに90分の上映時間+対談30分ほどの後では会場の誰もがお尻が痛いわけで、そうもいかなかった。
① イーノのダイアリーの実物の数々。画面に映った限り、最も古いものは1972年のダイアリーだが、本人いわく14歳の頃からメモやアイディアをモールスキンみたいな手帳に書き留めてきたのだそうだ。中身は「日記=文字」とは限らず、イラストだったり、設計図だったり、はたまた買い物リストだったり、様々。イーノの言う通り、アイディアや考えを文字や図像にして書き留めると、その過程で整理され、頭に残りやすくなるのは本当だ。
⑥自然と戯れるイーノ。これは、アーカイヴ映像はもちろん本作向けの撮りおろし映像にも多く含まれていたが、大写しされる花の数々や、川に入り、庭の手入れにいそしみ、緑豊かな公園でドッグウォーカーを観察し、思索に耽る姿からは、彼が自然という「システム」にどれだけインスパイアされているかがうかがえた。このヴァージョンのラスト近くで、デイヴィッド・バーンがオブリーク・ストラテジーズをめくり、「Shut the Door. Go Outside」と指示を読み上げる場面があるが、その通り、イーノは自然との繫がりを忘れない人なのだ。
というわけで、今回は昨年末から現在にかけて観たドラマや映画の感想を一気にお届け。面白いものもあれば不発もあり、と様々な上に長いのですが、備忘録的に。映画に関しては、ジョナサン・グレイザーの『The Zone of Interest』を除き、知人が貸してくれたメモリー・スティックが大いに役立ちました。はい、要するに違法DLした映画の又借りってことです。ごめんなさ〜い……。
●●テレビ篇●●
Slow Horses: Season 3 (Apple TV)/Dave (FX)/Men Up (BBC)/Mr. Bates VS The Post Office (ITV)/True Detective: Night Country (HBO)/Grime Kids (BBC)
続く2本、『Men Up』と『Mr. Bates VS The Post Office』は、一気に地味&ローカルなイギリス産。どちらも実話に基づいたドラマながら、ノリはまったく違う。前者は「魔法の青い錠剤」ことヴァイアグラ開発の臨床試験をフィクション混じりに描く。対して、後者は今も続いている、英郵便局スキャンダルの内情を明かす社会派。
あと、音楽の使い方も神経を逆撫でされた。ビリー・アイリッシュの〝bury a friend〟がイントロに使われる主題歌で、これには「え、5年後の今に、これほど使い古された曲を使うんですか?」と感じた。それだけならまあいいんですが(監督のロペスは「この曲が作品の大インスピレーションだ」と語っているので、思い入れが強いのだろう)、劇中に、唐突に「細く物悲しい声の、ムーディで今風な女性フォークトロニカ・ポップ(ポスト・ビリー・アイリッシュ調のそれ)」が何度も挿入されるのは……キツかった。挿入歌がムードを高めることは多いけど、筆者には集中力を殺ぐ結果になって、残念ながら逆効果。というか、途中からはもう、音楽が始まるたび、「やめて〜〜!」と叫びたくなるほどだった。ドラマも「プレイリスト」を作らなくちゃいけない時代なのかもしれないけど、オリジナルのスコア、もしくはいっそ音楽なしでもいいんじゃないかと。
舞台は2001年、東ロンドンのボウ地区。メインのキャラは5人の学友で、18歳で義務教育を終えた「最後の夏休み」を一緒に楽しもうとする――と書くと、ちょっと『Stand By Me』っぽい男の子の成人儀式譚ですが、彼らが発見するのは死体ではなく、海賊ラジオで幅を利かせていたグライム=ガラージ、ドラムンベース、ヒップホップのハイブリッド音楽。発見というか、彼らの日常で鳴っていた音楽だが、5人は力を合わせて「グライム・クルー」を結成し、コンテストに勝ち進むのを目指す。
ややエキセントリックな異世代間の交流、70年代の設定(ロケハンが見事。古い建物がしっかり残ってるなあ、ニュー・イングランドは!)や衣装(肘パッチ付きのツィード:笑)、そして寒そうな画面も含め、『Harold and Maude』を彷彿させる昔風のアメリカのドラマ映画が満喫できる。オーソドックスながら、こういう地味ながら安定感のある作りでじーんと来る作品も、いいものです(ちなみにこの作品、脚本に対して盗作疑惑が浮上。今後の展開を見守るしかないですが、微妙な気分ではあります……)
大まかな筋書きは、ぶっちゃけ、イヴリン・ウォーの『Brideshead Revisited』とパトリシア・ハイスミスの『The Talented Mr. Ripley』のブレンド。コーガン演じるオリヴァーは、成り上がり/寄生虫のトム・リプリーと貴族に魅せられるチャールズ・ライダーの中間的なキャラで、2006年にオックスフォードで知己を得たポッシュで美男な同級生フィーリックスと仲よしになり、彼の自宅にして超豪邸であるソルトバーンと、有閑社会に取り入っていく。しかし一見純朴そうで、上流人から「哀れな下々の子」とペット扱いされるオリヴァーは嘘をつき、策謀を仕掛ける。
とはいえ、『Barbie』をはじめ女性作家の進出は続いている。各方面から絶賛された『Anatomy of a Fall』のジュスティーヌ・トリエも、そんなひとりと言える。雪山のシャレーから男性が転落死し、検察側は、事件発生時に現場にいた唯一の人間である彼の妻サンドラを殺人犯として起訴する――というプロットの『Anatomy』も、女性/男性の(一般的な)力関係を逆転させている意味で「タブー破り」だ(しかもサンドラは母親でもある)。だがこの作品、「これみよがし」な暴力やセックスの画面描写はないし(音声、あるいはニュアンスで示唆されるが)、説明的なフラッシュバック場面も一回しか登場しない。ミヒャエル・ハネケ的な欧州映画のストイックな伝統が心地好い。
映画のタイトルや宣伝スチルからも、プレミンジャーの『Anatomy of a Murder』が浮かぶ。また、ドイツ人(=外国人)で人気作家で、オープン&雄弁な「人間」であるサンドラが、法廷やメディア/世相の考える「女性」像にそぐわず勘ぐられる面はワイルダーの『Witness for the Prosecution』も彷彿する。無実を訴える彼女に様々な角度から疑惑がぶつけられる様は残酷だ(かつ、勝訴のためには陪審員の「エモーション」をいかに味方につけるかが大事、というプロセスも描かれる)。プロシージュアル/法廷劇としても楽しめるわけだが、この心理スリラーのキモは、もっと身近で(そのぶん)もっと分かりにくく白黒つかない「ナゾ」である家族や夫婦関係のあやだ。ゆえに観る人によってオチの理解は異なるだろうし、余韻も残る。フランス人のトリエの感性の方が、フェネルよりも好きです(音楽面でも、50セントの〝PIMP〟の使い方は『Saltburn』のフロー・ライダーよりはるかに効果的。あと、元サヴェージズのベスも脇役で出演してます)。
『Anatomy』を観て、パク・チャヌクの『Decision To Leave』を思い出した。あれも男性の転落死事件がきっかけで、中国人の妻に容疑がかかるところから始まる映画だった(とはいえあちらは、ヒッチコック風のオブセッションの物語なのだが)……なんて考えていたら、ヨルゴス・ランティモスの『Poor Things』でも男たちがよくぶっ倒れる。死にはしないが、主人公ベラ・バクスターを「所有」しようとする男たちは階段でこけ、麻酔薬や酒でつぶれ、殴り倒され、気絶してひっくり返る。作品序盤のモノクロ+魚眼レンズ使用と相まって古いスラップスティック喜劇やサイレント映画を思い起こすし、ベラに振り回される彼らは滑稽な小道具のようだ。
ウェス・アンダーソンばりに緻密にデザインされたスチームパンクな幻想世界を舞台にしたこのファンタジー作品は、自殺した女性の屍体に彼女の胎児の脳を移植し生き返らされたベラ(エマ・ストーン)のビルドゥングスロマン。「子供の無垢な魂を宿した麗しい肉体の女性」を創造した外科医「ゴッド」ウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)の伴侶となることが前提だったので、いわば『Bride of Frankenstein』であり、かつ助手の医学生マックス(ラミー・ユセフ)が彼女に恋するあたりはバーナード・ショウの『Pygmalion』的と言える。しかしこの人体実験=研究対象を独占すべく屋敷に閉じ込める両者の思惑は、ベラがみるみるうちに成長し、自我とセックスに目覚めることで瓦解。プレイボーイのダンカン(マーク・ラファロ)に誘惑/誘拐されて彼女は屋敷から出奔し、リスボン、アレキサンドリア、パリを周遊し世界を味わい(牡蠣からエッグタルトから酒まで)、見聞を広げていく。そのあれこれは、観ていただくのが一番でしょう。
『The Zone of Interest』も、パレスチナ・イスラエル戦争で奇しくもタイムリーになってしまった映画と言える。「ホロコースト映画」ということになるが、アウシュヴィッツ強制収容所所長だったルドルフ・フェルディナンド・へスと彼の家族が中心になるこの映画は、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」を痛感させられる強烈な作品だ。恐怖はじりじり迫ってくるものの、目には見えない――というか、メインのキャラたちは、自主的に目隠ししている。
この映画には『Anatomy of a Fall』で主演のサンドラ・ヒュラーも出演しているが、2作での彼女の演技の音階の変えぶりは見事で、個人的にはエマ・ストーンよりも「女優賞」がふさわしいと思う。
今回取りあげた映画の中で、これだけは劇場で観た1本だった。一般公開の前に、場末のマルチプレックス館で一回限りの先行上映があって飛びついた次第(大音量で観れたのも含め、大正解だった)。高らかに宣伝されていたわけでもなく、夜の空きの時間に「こっそり」忍び込んだ興行っぽかったが、フタを開けるとなんとほぼ満員。小さい会場での上演だったのでお客は200人強だったとはいえ、寡作なグレイザーのカルト人気を感じて嬉しかった――というのもこの人、約四半世紀の間に4本しか長編を撮っていない。だが、その4本のどれも、ジャンルもテーマも異なる――『Sexy Beast』は英ギャングスター映画、『Birth』はニューヨーク上流社会を舞台に愛の怖さを超自然的に描き、『Under the Skin』の主人公はグラスゴーにやってきたエイリアン――ものの、毎回「ジャンル」を越えた映像表現や実験、ストーリーテリング、演技を引き出している。本作も、その唯一無二&駄作なしなキャリアの素晴らしい最新章だ。ノーランはキューブリックを崇拝しているが、彼とは別のレベルで、グレイザーもそこに迫っている気がする。
スコセッシの『Killers of Flower Moon』も絶対に観たいので、チャンスを待ちます。
んなわけで『Justified』再び!の報に触れた時は小躍りしたものの、同時に「どうドラマを延命させるのだろう?」とも思った。というのも、このシリーズは単に「無惨な尻切れとんぼの打ち切り」なわけではなく、5シーズンにわたってエキセントリックなキャラとややこしい人間関係を育て、因縁やストーリー曲線も良い感じにふくらんだところで、それなりの「落ち」がついて終了した。しかも原作者エルモア・レナードは、『Justified』の主人公:レイラン・ギヴンスものは多く書いていない(他の小説にカメオで登場するケースはある)。レイランが主役を張る長編『Riding the Rap』すら、なんとシーズン1の1話で翻案・消化されてしまったくらいで……いやはやもったいない。
ともあれ、フタを開けてみると――うーむ。正直、いまいち。微妙でした。これは自分の期待値が高過ぎたせいで、そこは差し引くべきだろうけども。前シリーズから15年後……という設定で、オリファントの「イメージの維持ぶり」は賞賛に値するし(ごま塩になった以外、ほとんど変化なし!)、彼が「レイラン立ち」のポーズを決めるだけでも『Justified』の世界に投げ込まれる。 プロダクション・ヴァリューも立派なものだし、アンジャニュー・エリスら演技派も見せ場を発揮。ストーリー展開やアクションのキレもよく、いったん見始めたら止まらないのは昔と同じ。ストーリーもスリル&どんでん返し&裏切りの連続で、レナードらしいジェットコースターな魅力が味わえる。ですが、主な舞台がレイランの生まれ故郷ハーランではなくデトロイトなのは、やはり物足りない。デトロイトの風情を楽しめるのは、それはそれでいいんですが、例の主題歌の「♪I see them long hard times to come」のカントリー味がなくなってしまったのは寂しいな、と。
このメイン・プロットも充分面白いが、それを起点にメドウズ味が通津浦々に行き渡っている。まず愉快なのは、時代劇なのに「歴史物」っぽさをあっさりうっちゃっている点。時代考証はなされているとはいえ台詞回しは今風で、「大昔のヨークシャー訛り」にあまりこだわっていない。演技もキャラ造型も現代的にナチュラルで時代がかっていない。「メドウズ組」である主演のマイケル・ソシャとトーマス・ターグース(どちらも生まれはミッドランズ圏)も、昔の言葉(theeとかね)は混じるもののアクセント他の足枷が無いぶんのびのび役柄に没入し、なり切っている印象。村民のやりとりやドタバタ、ユーモラスな丁々発止に耳を傾けていると、時代こそ違え、これも一種の『This Is England』、すなわち弱者や貧者やはみだし者のトライブ/ギャング/クルーを描くドラマであるのが分かる。本シリーズ――現時点で放映された3話はプリクエル/前篇に当たる――のラストのパーティ場面のカタルシスも、その念を強くさせてくれるものだった。
『This Is England』はターグース演じるシェーン少年のビルドゥングスロマンがスレッドになっていたが、ここではソシャ演じるデイヴィッドの男としての変容・転生がそれに当たる。無骨さと繊細さ、ドライでひきずるような英北部らしいユーモアと怪物の陰りが入り混じる力演で全体を引っ張っていて、メドウズの薫陶を受けた良い役者に成長しましたね! 一度は捨てられたことを恨みつつもやはり彼を忘れられない恋人グレイス(勝ち気で姉御肌で、これまたメドウズ的女性)とのこじれ(腐れ縁とも言う)が、シャイに少しずつほどかれていく描写も実に健気で愛らしい。
ちなみに、そんな状況に合わせてか(?)BBCiPlayerではジョン・ル・カレ原作のドラマ化『The Little Drummer Girl』(2018)も再放送。これは確か、『The Night Manager』(2016)の好評を受けてのテレビ・シリーズ化だったが、その『The Night Manager』が自分的にはコケたので、スルーしていた。とはいえ『Lady Macbeth』で惚れたフローレンス・ピューが主演、しかもパク・チャヌクのドラマ監督デビュー作品なので、いつか観たいな〜と思っていたので、これを機にビンジ・ウォッチしました。残念ながら、原作は未読です。
とはいえ、うーむ、やっぱり華やか過ぎ&セクシー過ぎ? 舞台は70年代末なので、ファッションから髪型から車からインテリアまでレトロ・ポルノが楽しめるし、煙草とウィスキーは頻繁に登場。ギリシャや中欧、レバノン、イギリスのカントリー・サイド等々ロケーションも多彩だ。この「国際エスピオナージ」なノリは『The Night Manager』の影響なんでしょうが、スパイたちの任務の危険さと隠密ぶりと重圧を考えると、「こんなにかっこいいはずがないだろ!」と突っ込みたくなってしまう。まあ、主役のチャーリーが若く美人な女優なので、そうしたグラマラスな面も混ぜないと、若いヴューワーは「カビ臭い」と敬遠するのかもしれません。でも、チャーリーの機転や色仕掛けがこんなに成功するって、マジかよ?と感じてしまうのも事実。