The Chemical Brothers:Don’t Think

フィナーレ近くに踊りだすお客も出た上映会

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去年の11月22日付けのポストでケミカル•ブラザーズのコンサート映画
「Don’t Think」のティーザー映像をアップしましたが、その縁もあって、2月3日に行われたロンドン:BFIでの同作上映会に行って来た。
コンサート映画〜ロッキュメンタリーが増える一方の昨今とはいえ、「ひと味違う映像体験」として好評を博している本作、ワールド•プレミアは1月に世界各国の映画館で開催済み。自分が参加したこの上映会はロンドンにおける2回目の上映だったと思うが、トム&エドが家族連れで観に来ていたのはもちろん、スクリーニングの前には監督であるアダム•スミス(国富論ではないですよ)を迎えての「オレの映像キャリア紹介」トーク、終映後には観客も含めたQ&Aも行われ、なかなか楽しかったです。

ご存知の方も多いと思うが、この映画の概要は昨年のフジ•ロックでのケミカルのグリーン•ステージでのヘッドライン•ショウを捉えた、というもの。昨今のコンサート映画の多くはレジデンス•ショウ、すなわち同じ会場で行われる複数のライヴを収録し、音質やパフォーマンスの良さを基準に編集する…というスタイルだと思う(なんで、2日連続でメンバーが同じ衣装だった!なんて目撃体験もあります:もちろんちゃんと洗濯してるんでしょうけど)。
その意味で、1夜のイベントを丸ごと収録=いわば一発勝負〜しかもフェスという不確定要素の多いシチュエーション(天候はもちろん、場に慣れてないとカメラ•クルーも大変だろう)を選んだ「Don’t Think」のプロダクションは、良く言えばオールド•スクールでオーガニック、悪く言えばリスキーな賭けを孕んでいたと思う。

しかし、監督アダム•スミス本人による映像遍歴トーク(監督作の各種クリップもプレゼンされました)で興味深かったのが、たとえ結果である映像そのものはモダンに見えても、その背後にある手法や発想そのものは意外とアナログであるところ。ギークな童顔にだまされがちだが、この人のキャリアはAcid Jazz勢=サンダルズ(!)のライヴ•ヴィジュアル制作から始まったそうで、実は年季が入ってる。その当時のライヴ映像がちょっと披露されたのだけど、60〜70年代のリキッド•ライト•ショウ(ヴェルヴェット•アンダーグラウンド&ニコのファーストの裏ジャケ、あるいはジャニス•ジョプリンやデッドのライヴ映像をイメージください)を使ったサイケなヴィジュアルは、ぱっと見90年代の映像とは思えなかった。ダンス•ミュージック(アシッド•ハウス他)って、やっぱ当時のイギリスの若者にとっては新たなサイケデリアだったのだなあ…なんて考えたりもしたが、それはともかく、サンダルズの音をこちらで:

ケミカル•ブラザーズのライヴ•ヴィジュアルやビデオを手がける一方、アダム•スミスはザ•ストリーツのプロモ•ビデオ他を通じ、物語性のある映像にも挑戦していく。最近ではチャンネル4のドラマ「Skins」、BBC「Dr.Who」なども何話か担当しているそうで、いずれ長編映画に向かうのかもしれない。
音楽ビデオやコマーシャルから映画へのシフトってのは、もちろん今に始まった話ではない(ミシェル•ゴンドリー、ジョナサン•グレイザー、スパイク•ジョーンズ、マーク•ロマネク等)。でも、アダム•スミスのこのトークを聞いていて、プロモ上がりのクリエイターの強みというのは映像面でのテクニックの多さ•引き出しの多さ、それらをミックスするセンスにあるのだなと実感。
本人も「映像のからくりを説明しちゃうと夢がないけど」と何度か苦笑していたけど、たとえば以下のビデオの2分50秒あたりで登場するドットでできた「顔」。これをこのトーク•セッションで実演版を見せてくれたのだけど、黒ずくめ•顔も黒く塗った役者の顔に豆電球(あるいは蛍光テープ)をびっしり貼り付け、闇の中でそのダンスや表情を撮影したものがベースになっている、とのこと。単純な発想だけど、CGっぽい雰囲気はちゃんと出ている。

他にもストップ•モーション/超高速撮影、磁気に反応する液剤を利用したパターン作りなどが種明かしされたが、アイデアそのものは新しくなくてもそれらの使い方や組み合わせ次第でまだまだ面白いことはできる、ということだろう。そこに、「手で生み出すライヴ」へのこだわり〜無機質に陥らない体温を伴ったダンス•ミュージック〜親しみやすさとエッジが共存する音楽性に象徴される、ケミカル•ブラザーズの感性とのシンクロを感じもした。

肝心の映画は、ケミカル•ブラザーズの音楽とライヴの特質を活かしつつ場の雰囲気を巧みに捉え、と同時に一風変わった味わいも織り込んだ、シネマ•ヴェリテとシュールな映像詩の間に位置するような内容になっている。

サウンドと映像の融和ぶりは申し分なく、さすがケミカルのライヴ映像制作を18年担当してきた監督だけのことはあって、ライヴ•ヴィジュアルの生でのアドリブやライティングの効果も含め、ショウの魅力を遺憾なく捉えている。こういう比較も手前味噌かもしれないが、自分の書いた文章は自分で通津浦々まで承知しているように、アダム•スミスにとってもあれらのヴィジュアルはすべて彼の掌中にあるのだろう。
とはいえもっともユニークなのはカメラの視点で、トムの手元のアップとかステージ上方から捉えたふたりの様子といったプロなアングルも含まれるものの、多くはオーディエンスの目線と同じ高さに置かれている。ゆえに視界が人の頭の壁で遮られたりもするし、ライヴの盛り上がりを(ステージではなく)それを観ている観客の興奮した表情や驚き顔で代弁させる、音楽は続いているのにカメラはふらふら場外に移動…など、意外な展開も。要するに、カメラがステージ&パフォーマーに縛られていないのだ。

ケミカル•ブラザーズに対してはいささか失礼な書き方になるかもしれないけど、この思い切った演出が可能だったのは、ロック系のコンサート映画ではどうしたって無視できない「リード•シンガーの表情」とか「泣けるMC」、「ギタリスト/ドラマーの見せ場」というスター要素〜キャラ幻想が彼らには薄いからだろう(中にはそういうファンもいるかもだが、ケミカルのライヴでふたりの動きだけ最初から最後まで追ってる…なんて人は、かなり稀だと思う)。
そんないわば音楽/主体としての匿名性を逆手にとることで、この作品は通常のコンサート映画とはまた異なる「疑似体験」感覚を生み出している。他の上映会同様、このスクリーニングでもラスト近くになって最前列のお客達が立ち上がり踊り始めたんだけど、実際の拍手やかけ声なのかあるいは映画の中の音声なのか、聞き分けがつかない混沌が生まれた。
あと、これはフジ体験者だから余計そう感じるのかもしれないが、「ライヴってこうだよね〜」というリアルな感覚/臨場感が伝わってきたし、ナショナル•フィルム•シアターの快適なシートに身を沈めて観ているにも拘らず、長靴と雨合羽のフェスの肌感覚すらよみがえってきたのは面白かった(でも、立ち上がって踊りはしませんでした。後ろの席の人達に迷惑なんで)。ここまでやるんだったらいっそ3Dにしても良かったのでは?と思うが(ライヴ部はともかく、大きくフィーチャーされているヴィジュアル映像は部分的に「飛び出す」と面白い気がする)、それだと現時点ではかなり制作予算が必要になるのだろう。

オーディエンス•サイドからのマルチなショットというのは、ビースティ•ボーイズ「Awesome; I…Shot That!」等でも既に使われているアイデアだったりする。が、あちらがYouTube映像あるいはブートレグの味を基調に据えていたのに対し、「Don’t Think」はプロによるショットなので印象は異なる。
また、このライヴ体験がひとりの観客の視点に基づいたものであることも徐々に示唆されていき、そこから作品は一時的に「フェス」という異空間にさまよいこんだ女性の一夜の幻想(軽い悪夢?)とでもいうべきゆるいシークエンスにすり替わっていく。
パレス•オブ•ワンダーの模様や屋台エリアも挿入されるこのくだりには「外人の目に映る異国日本のフェスのエキゾチックさ」とでも言うべきノリもあって、正直ちょっとこそばゆくもある。そうした「わー、これ何?」的な覗き見〜好奇心主体の解釈は他にもいくつか見受けられるが、あくまでライトなユーモアのスパイスとして機能しているので、そんなに気にならなかった。

ともあれ、この作品は日本じゃないと成り立ちにくかっただろう。監督アダム•スミスも上映後のQ&Aで認めていたが、フジのオーディエンスの理解と協力ぶり(「カメラに目線を合わせないで、ノリ続けてください」のメッセージを皆がちゃんと守ってくれたそう)がまずひとつ。これがたとえばイギリスのフェスだったら、すぐにカメラにキッズが群がる/目立とうとする/かっこつけ始める/カメラマンに話しかける、あるいは「何撮ってるんだ?」とドやされる/絡まれるのが関の山だろう。
もうひとつ称えられていたのが、オーディエンスの反応の素直さ•真剣さ。これはまあ、そうした印象を強める場面をバランスよく配した編集の賜物って面も大きいとは思う。が、エピックにビルド•アップするサウンドに合わせ「ウォ〜〜〜」と盛り上がっていく若者、キメのブレイク•ダウンにがっつり揺れてみせるオーディエンス、不気味なピエロの映像に顔を引きつらせるファン…と、音に合わせてエモーショナルなアップ•ダウンをはじけさせる日本の観客のイノセンスは、自分の目にすらまぶしく映った。
ライヴ•ミュージックを体験する行為が、ややもすると「酒を飲んで友達と騒ぐための場」に陥りがちなスレたフェス客(あるいはライヴ客)に慣れっこのイギリス人にしてみたら、このフジの様子はそれこそ「アンビリーバブル!」な光景だったんじゃないだろうか。

それを、あくまでシニカルに、「ベテランでもはや英国内では定番〜〝カッティング•エッジ〟とは言えない今のケミカルだが、まだまだこんなに忠実なファンがいる」という側面を外に向けて強調するためのギミック、と捉えることも可能だろう。だが、フジ客に限らず、日本のフェス/ライヴ客の中に全般的にある(と自分は思う)、ミュージシャンと彼ら/彼女らの作る音楽に対するリスペクト〜そしてライヴを満喫し素晴らしい体験にすべく心底盛り上がろうとするピュアな姿勢というのは、美徳に他ならない。
その姿勢は、大昔には「日本のお客は礼儀正しくおとなしい」「いちいち指図しないと騒いでくれない」などといった安易な通説にもつながっていたと思う。が、盛り上がるところではバンバン暴れ、聴かせる曲ではじっくり聴き入り喝采で締めくくる昨今の日本のオーディエンスの察しのよさ/心地よさ――それは、アーティストがその曲なりショウで描こうとしているコンテクストを理解し、その状況に合わせて振る舞う「知性」が存在してるってことでもあるだろう――は、音楽をプレイする側にとっては、(たとえ最初は慣れなくて驚いても)最終的にはとても気持ちいいものじゃないだろうか。そんな美しい交感の情景を映像に残してくれたという意味でも「Don’t Think」はレアな作品だし、ケミカル好きはもちろん、フジ•ファンにも体験してほしいなと思った。

蛇足ですが:もうひとつ感じたのが、たとえばイギリスのフェスで撮影すると例の「旗」が多く、ステージ•ヴィジュアルと音の連携がキモのこの作品には大きな障害になっていただろうし、その意味でも英国外のフェスで撮影、というのはポイントだったのかもしれない。グラストンベリーなんかでおなじみであろうあの旗は、遠目には絵になるけども、実際に目の前で振られると「ぎゃーっ、バンドが見えない!」とか不快そのものだったりする(肩車ギャルも同様:どうぞ1曲で終わりにしてくださいね)。フェス•カルチャーはどんどん発展し各地に伝播するものだけど、どうか、この旗ふり慣習だけはイギリスだけに留まってほしいものです。

にしても、イギリスのメディアではいまだにフジ•ロックの開催地を正確に把握していない人が多く、ちょっとびっくり。「富士山のふもとで」ってのが一番多くて一般的な勘違いなんだけど、今回「東京のフェス」って表記を見かけたのには大いに笑いました。

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This Is England 88/The Ballad of Mott The Hoople/Talking Heads Chronology

去年の暮れが比較的雨が多く過ごしやすい暖冬だったせいか、2012年に入って「寒」がブイーンとキック•インしてきたロンドン。基本的にいちばん寒いのは1〜2月な国なので驚きではないし、澄んだ冬の大気は好きではある。が、ここ数日は夜出かけても、駅も大通りも恐ろしく人通りが少なくてびっくり。みなさん、家に閉じこもり気味みたいですね。当方も久々に暖房オールデイ全開状態だったりします。乾燥が苦手でセントラル•ヒーティングは極力避けてるんだけど、気温が氷点下&雪まで降っちゃ厳しいっす。
そんな消極的&レイジーなおこもり状態のよき友がDVD鑑賞やテレビで、今回は暮れから年始にかけて観た①This Is England 88、②The Ballad of Mott The Hoople、そして③Talking Heads Chronologyの3題について。

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「This is England 88」は、このブログ他でも過去に取り上げたことのあるシェーン•メドウズ監督(「Dead Man’s Shoes」、「Somers Town」他)原案によるTVドラマ•シリーズの最新作になる。スキンズの青春群像を中心に、80年代イギリスの社会•世相を描いたシェーン•メドウズの自伝的要素の強い映画「This Is England」(2006年)が第1弾で、その好評ぶり&ファンからのラヴ•コール――主役のショーン(=トーマス•タルグース)を筆頭に、スキンヘッズ集団のアンサンブル•キャストが素晴らしい――に応える形で、後日談としてまずは「TIE86」が2010年に発表された。
「TIE88」はその続編にあたり、英お茶の間でのオン•エアは昨年のクリスマス•シーズンだった。続く「TIE90」の制作&発表は今年を予定している…と既に発表されているが、自らの青春期という多感で波乱に満ちたピリオドと時代背景、体験に焦点を絞ってドラマ化したシリーズだけに、「大人時代」「中年時代」といった具合に引き延ばしてえんえん続けるつもりはないらしく、シェーン•メドウズ当人は「TIE90」がこのシリーズのラストだと公言してもいる。

            !!!!!!!SPOILER ALERT!!!!!!!!!
Enter at your own risk…というわけで、ストーリーを知りたくない方は、以下は飛ばしてくださいませ

今回もおおむね好評を博した本シリーズだけど、中には「憂鬱な気分にさせられるドラマ(勘弁してくれよ〜)」という批判的な評もあった。なるほど、メイン•モチーフには階級社会、マネー主義と個人の抑圧、シングル•マザーの苦しみといった普遍的で社会派な視点が多く含まれており(イコール、そのエッセンスは20年以上経った現在とシンクロしている、とも言える)、イギリスにおける伝統的な「クリスマスTV」(=クイズ、有名人を並べたトーク•ショウ、ライトなエンタメ、シットコムのクリスマス•エピソード他、ファミリーのお祭り気分を盛り上げる気楽に楽しめる内容)からはほど遠い。
とはいえ、映画「TIE」も「TIE86」もエンディングはとことん重い悲劇だったわけで、その後日談がノー•プロブレム!万事順調!から始まるはずもない。シェーン•メドウズ個人の世界観が、根底は荒涼としているってのもあるかもしれない。けど、このシリーズの基本はペシミズム&リアリズムにあると思うし、そんな灰色な背景だからこそ、蛍の燐光のようにぽっと灯るユーモアのスポットが活きてもくる。その、いわばケン•ローチあるいはマイク•リー型とも言える作劇/思想を「古くさい」「社会派ドラマのステレオタイプ」とクサすのは簡単だろうが、こぎれいに整った都会でスマートに生きてる人間がすべてではない複雑な英現代社会において、そういう物言いは、時に勝ち組側のナイーヴな高慢とも映るだろう。

「TIE88」において、悲愴•苦悩•葛藤のすべてを負わされるのが、ヴィッキー•マクルーア演じるロルになる。前シリーズ最終話で地獄の苦しみを味わった彼女だが、焼かれた後にも生き続ける限り、そこには火傷の長く、後を引く痛みが待ち構えている…とでもいうのだろうか。自身のアクションの結果(=妊娠&出産)、そして自身ではコントロールできない外的要因〜トラウマから発したダメージの双方を、たったひとりで担う彼女の姿が全話を通じて描かれる。
その意味で、「TIE88」の主役はロルだった、と言えると思う。もちろん、ショーンの成長ぶり〜少年から青年へ移行する通過儀礼も、随所に泣き笑いのミニ地雷を仕掛けてはいる。が、ここでのショーンは演劇学校に通い始めていて、それまで彼がつるんでいた「はみ出し者の集団/ギャング達」とは異なる世界に接したことで、内面も徐々に変化。なじみのGFであるスメル(ロザムンド•ハンソン)と早くも倦怠期カップル(笑)な関係に陥り、そのドン詰まりな状況に収まりきれないショーンは演劇学校で出会ったミドル•クラスのアート系少女との浮気に走ることになる。

シェーン•メドウズ本人の分身とも言えるだけに、トーマス•タルグースを通じて忌憚なく描かれる、ホルモンのアップダウンに左右されっぱなしのある時期の男の子の生態は、みっともない&情けない。監督との間に信頼関係がなければ、普通の役者だったらあまり歓迎しない役回りだろう。けど、そうした若い男のリアリティを低レベルなお色気ギャグに転化する、あるいはクリシェに含めてごまかすこともなくありていに提示するところは好感が持てた。
そもそも「TIE88」の実質的な主役がショーンではなかったのも、トーマス•タルグースが実年齢でもうじき20歳という半端な時期にさしかかっていたからでは?とも。この人は童顔なんでまだ見た目10代でも通じるとはいえ、子供のかわいらしさとも、あるいは成年男性の定まった顔にも達していない、今の時点での彼のどっちつかずな表情は絵になりにくくもある。その、肉体的にも精神的にも迷いがあってもやもやしている感じを、無理に取り繕うことなく描くドラマあるいは映画って、ありそうでなかなかないと思うのだ。
にしても、スメルみたいな根が素直でいい子をああいう形で裏切るショーンを観ていて、「男って奴はまったく…」と思わずにいられなかった。同性として共感するのはもちろんだけど、スメル役のロザムンド•ハンソンはなかなか稀なバイ•プレイヤー女優&天然のコメディエンヌで、このシリーズを追うごとに自分的なポイントが高まっているのも大きいだろう。今後、そのユニークな風貌と独特なシラケ声が、テレビだけではなく映画などにも伸びていくといいんだけどな。リッキー•ジャーヴェイスの「Extras」に続くシットコム「Life’s Too Short」でも彼女の個性が光っていたので、そのクリップを以下に。

んなわけでショーンは今回ほぼコミック•リリーフに終始し、話の焦点はロルの内面、そして彼女のBFのウッディに絞られている。2歳の娘をひとりで育てている彼女の状況は、まずもってタフだ。娘は混血児で、前シリーズでのミルキーとの一時的な関係から生まれた子供であるのは明らか。それがもとでロルとウッディは破局し、ウッディとミルキーの友情にも亀裂が走ったことで、ウッディはギャング達との交流から身を引いている。ミルキーは失踪。
定職もなく、政府の補助金や失業手当で食いつないでいるとおぼしきロルは、わびしいカウンシル•フラット(公団住宅)に、よちよち歩きの幼児と共にさながら「閉じ込められた」状態。まだおしゃべりもできない子供のいたずらやむずかりに対して苛立ち、と同時に我が子に多くを与えられない自分自身に自己嫌悪する――ストーリーの大きなポイントではないにせよ、その描写からは今でも割とタブーなマタニティ•ブルー、あるいは自分の子供に対して自動的に愛情/愛着を感じられない母親というモチーフ(いわゆる「母親神話」「母性本能」のアンチテーゼと言えるが、これは最近だと英映画「We Need To Talk About Kevin」でも突っ込まれていた)が浮かんでもくる。

出産できる身体機能を持っているからといって、イコールあらゆる女性が母親というメンタリティまで生まれつき備えている、というわけではないと思う。中には(父親になった男性が「お父さん」の役割を徐々に学び会得していくように)時間をかけて子供との絆を見出し育んでいく人もいるだろうし、そんな彼女達にとって「母親失格」なんて形容がもたらすネガティヴな社会的スティグマは、心理的な重圧に他ならない。それで育児や母親業がいっそう辛くなり、悪循環になるんじゃないだろうか。
もちろん虐待や子供の放任は断固反対、あってはならない。ただ、女性=母性という等式を全員にすべからく当てはめる「当然」の意識は、それはそれでゆがみのある考え方ではないか…と感じるのだ。これはまあ、子供を持たない人間の机上論なのかもしれませんけどね。
唯一の救いは、ロルとロルの母親との関係が変化したこと。前シリーズの悲劇の種を招き込んだ張本人としての罪悪感•慚愧の念がそうさせるのかもしれないけれど、祖母として孫の世話を引き受け、ロルをサポートしようとする彼女の姿に、もしかしたらこの人も若いシングル•マザーだった頃には娘達に距離を感じていて、その償いを今しようとしているのかも?と感じた。深読みしすぎかな〜。でも、親と子の見えない絆のすごさ(怖さ)って、知らず知らずのうちに過去が繰り返されることが多いって点にもあるだろう。

育児の疲れと先行きの不安に苛まれ、誰にも明かせない秘密=過去の罪という亡霊につきまとわれる苦しみとフラストレーションを内に抱えたロルは、どんどん消耗していく。クリスマスを目前にし、娘のためにプレゼントを手に帰還したミルキーすら、勝ち気な彼女はうっちゃってしまう。そんな彼女だから、ヤング•マザー向けの定期診断/育児アドバイス係の女性病院スタッフの気遣いにも、当初は「ひとりっきりで子供を世話する苦労は、乳母や夫からの助けを得られるあんた達には分からない」と突っ張って反発もする。
が、やがて行き場を失い弱り果てた子供のように「具合が悪いんです(自分の何かがおかしい)」とこの看護婦にぽつぽつと打ち明けるくだりは、本シリーズの白眉。笑われるかもしれないけど、観ててマジに泣いてしまった。

ロル役のヴィッキー•マクルーアは掃き溜めに鶴とでもいうのか、どんなにひどい状況に置かれ、いわゆる「汚れ役」を演じていても、持って生まれた気品が内側から照らすタイプの女優さんだと思う(その意味でも、顔立ちも含めてジュリー•クリスティーがだぶる)。
そのプレシャスな佇まいがあるからこそ、十字架を背負い、いばらの冠姿で引き回しされるキリストさながらの今シリーズにおけるロルの責め苦の連打も説得力がある。酷な言い方になるかもしれないけど、「こいつは簡単にくじけそうだ」と視聴者にあっさり看破されるような役者だったら、いじめや苦境をたえしのぶ姿にリアリティが伴わないですよね。

なんだか溝口健二映画めいた話になってきましたが、ロルが苦しむ一方で、彼女の元BFであるウッディも辛い立場に立たされている。無職のワル仲間達と縁を切り、町工場での出世街道に乗った彼は、これまた中流のお嬢さんと付き合っている。安定した生活、結婚、そして家庭人/真人間としての順応は前シリーズでもさりげなく示唆されていたが、反発を感じ、心の底では軽蔑しながらもその安寧から抜け出せない彼は、いよいよ袋小路に。
家族のために自らを偽り続けるのか、それとも…?この撮影の際、カメラが回っていない間もウッディ役のジョー•ギルガンはギャング達との交流を禁止されていたそうで、実生活でもマブダチな彼らから隔離された寂しさ•辛さ•苛立ちは、この複雑な役回りに更なる熱と奥行きを与えていたと思う。

主要キャラ達の心模様とタフな状況が描かれる中、ドラマはイヴ〜クリスマスの大団円に向かって進んでいく。シェーン•メドウズは「TIE88」を「キリスト降誕劇のようなもの」と評していたが、クリスマスという特別な日――イギリスにおいてのこの日は、離ればなれになっていた家族や友人達と再会する、フィジカルかつシンボリックな「帰郷」の時でもある――を契機に、再びキャラの糸が交錯していく。
ショーンが出演するお芝居に駆けつけるファミリー。久々にコンボと面会するロル。ミルキーの帰還をあたたかく迎えるギャング達。彼らと偶然出くわし、過去の絆の強さを思い知らされて男泣きするウッディ。最大の触媒としてロルの悲劇がもつれていたいくつもの糸をひとつに結びつける展開は、ドラマとしてのカタルシスに満ちている。

前作「TIE86」について、4話という半端なエピソード数、そして(スケジュールの都合とはいえ)シェーン•メドウズが全話監督しなかった点に若干の不満を覚えたものだけれど、今回は3エピソードで完結、全話をシェーン•メドウズが監督していて、プロダクションがタイトになったのは明らか。もうひとつ、前作で不満を感じた女性キャラの扱いについても、今回でロルをじっくり掘り下げてくれたことで(ヴィッキー•マクルーアの熱演も大きく貢献したとは思うが)納得がいった。
その一方で、クリスマスの神聖さ〜あるいは宗教的な「贖罪」のテーマを大きくフィーチャーした点については「ん?」とも感じた。それは自分が組織的な宗教全般に関して懐疑的な人間だからかもしれないけど、祈りや信仰が必ずしも現実における救済に至らないという点は、もうちょいあっさりした描写でも良かった気がする。ともあれ、「TIE86」でやや崩れた感のあったシリアスとギャグのバランスは今回で持ち直したし、キャラ達も新たな人生の局面を迎えている。次作「TIE90」において彼らがどんな運命をたどるのか、それを見守るのが今から楽しみだ(ちなみに「TIE88」のDVD化は延期されて、発売は現在3月を予定)。
「TIE90」はセカンド•サマー•オブ•ラヴやレイヴが時代背景になる…との前評判もあるので、サントラにはマンデーズ、ローゼズ、プライマルズあたりがフィーチャーされるのかな? ちなみに今回は、ザ•スミス曲がたっぷりフィーチャーされていてシェーン•メドウズの執念を感じもしたけど(「TIE」の時はカヴァーだったもんね)、ラストのフィオン•リーガンの曲がとても良かった。

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話はガラッと変わって、モット•ザ•フープルのロキュメンタリー:「The Ballad of Mott The Hoople」。70年代ブリティッシュ•ロック、そしてグラム•ロックの代表的なバンドのひとつとしてロック史に書き残される彼ら。そのユニークな存在感と音楽性、数奇な運命を時系列に沿ってたどる、若いファンには入門編として、また古くからのファンにも新たな発見がある、とても見応えのある内容になっている。

洋楽に目覚めたきっかけのひとつがボウイだったこともあり、モットの名前には割と早くから自覚的だったと思う。しかし、「すべての若き野郎ども」がいわゆる「ロック名盤ガイド」に載っているぐらいで自分のアンテナには「ボウイの周辺の人たち」という程度の認識だったし、(着る人間の容姿&体型を大いに選ぶ)長髪+ロンブーの時代がかったイメージも当時の自分にはちょっとトゥーマッチで、とりあえずベスト盤を聴くくらいに留まっていた。
その状況が変化したのは92 年頃。英音楽誌Selectのおまけミックス•テープ企画としてボビー•ギレスピーが選んだフェイヴァリットに含まれていた「Trudi’s Song」を聴くべく、同曲収録作「The Hoople」(74年)を購入した時。以降、少しずつモットへのパーソナルな愛情が育まれていった。
…とまあ、なんでこんな余計な昔語りをしているのかと言うと、この映画で「証言」インタヴューを受けているバンドの関係者〜ファンのひとりとして、ロジャー•テイラー、ミック•ジョーンズらと共に顔を並べているクリス•ニーズが面白かったから。DJ/リミキサーとして記憶に残っていたこの人だけど、音楽ジャーナリストとしても活躍していたという彼、そもそも音楽業界に足を踏み入れるきっかけになったのがモット•ザ•フープルのファンクラブ会長業(中学生くらいの年代で会報•運営に情熱を傾けていた:すごい!)。バンドへの愛情が発言の端々に感じられるのはもちろんのこと、後にプライマル•スクリームのショウでDJを担当〜バンドのバイオを執筆したこともある彼が、ボビーのモット開眼に一役買ったかも?と想像して、なんだか楽しくなったのだ。

映画のフォーマットはしごくまっとうな「年代記」+「メンバーと関係者の発言」+「アーカイヴ映像(プライヴェート映像も含む)」のスタイルをとっている。ブリストルとウェールズにほど近い英南西部の片田舎:ヘレフォードで活動していたローカル•バンドの郎党が集まり、前身グループ=バディーズ/ドック•トーマス•グループへと発展。レコード契約を求め彼らがロンドンに向かうことで、モット結成への礎が打たれる。
このドキュメンタリーにはイアン•ハンターを筆頭にリー•ブラック•チルダース(:NYパンクのシーン•スターと思っていたら、モットの米ツアマネをやった経験もあるそうです)など曲者キャラが多数登場するけれど、中でも一番興味深かったのがモットの父とも言えるプロデューサー:ガイ•スティーヴンスの関与〜バンドとの関係性のくだりだ。
アメリカ産R&Bに強い根っからの音楽ファン〜触媒的存在で、プロコル•ハルムを発掘し60年代末英音楽業界の中でも一目置かれる存在だった彼はアイランド•レコーズに話を持ちかける。当時はまだレゲエ•レーベルとしての認知が強かった同レーベル傘下のSue Recordsをまかされ、次なる「スター•バンド」を探していた彼はドック•トーマス•グループをリクルート。しかし非情にもシンガー交代を指揮した彼はオーディションの末にイアン•ハンターをバンドにあてがい、小説のタイトルにちなんで(薬物所持の罪状で投獄中に思いついたアイデアだったってのがすごいけど)モット•ザ•フープルという名のバンドがここに誕生する。

妻や関係者の証言から、ガイ•スティーヴンスが思い描いていたバンド像〜当てはめようとしていたコンセプトは「ディラン(「追憶のハイウェイ」期)+ストーンズ」だったことが伺える。とにかくレコード契約を求めて必死だったというメンバーはもちろん、最後に加入したイアン•ハンターも当時はそこまで深く考えてはいなかったようだし、ある意味「作られたバンド」という側面もあったのだろう。
ガイ•スティーヴンス自身ポップ•スヴェンガリ=フィル•スペクターに大きな共感を抱いており、セカンド「Mad Shadows」について、メンバーはガイの影響力の大きさを認めている。しかし、音楽性そしてケミストリーという意味で、この5人の結びつきに何かを見出したガイ•スティーヴンスの直観は間違っていなかった。
とはいえ、奇行でも知られたガイ•スティーヴンスはドラッグ禍の果てに音楽業界を離れ、ザ•クラッシュ「ロンドン•コーリング」をプロデュースするものの、81年に自殺して世を去る。ロジャー•テイラーが「たぶん、クィーンが前座を務めた唯一のバンド」「グレイトで活気に満ちた、はらわたにガツンとくるロックンロール•アクト」と評したモットの歴史もまた、スムーズではなかった。

英国の津々浦々をハイオクな勢いと共に行脚ツアーした彼らは、混じりっけなしのロックンロール•エナジーで若い草の根ファン達を増やしていく。この頃からモットの追っかけだったというミック•ジョーンズ、そしてクリス•ニーズにとって、既にビッグ•スター=遠い星になっていたロック•バンド達(ストーンズ他)とは異なり、血気盛んなキッズ•ファンをケアするモットは手の届く「兄貴」な存在であり、かつロックンロールの狂熱の権化だった。
4th「Brain Capers」(71年)を「プロト•パンク」と評する識者がいるように、RAWでプリミティヴなロックンロールへの欲求は水面下で泡立っていたことになる。また、この時期のモットのライヴ映像や音•イメージに、セカンドからサードにかけての長髪•革ジャンのロケンローラーだったプライマル•スクリーム(ストゥージズやMC5といったデトロイト勢も混じっていたけど)の姿がだぶるのは筆者だけではないと思う。

爆音&熱気でロイヤル•アルバート•ホールの天井にヒビを入れたという伝説(以後、RAHでのロック•バンドのライヴはしばらく禁止になった)に象徴されるライヴ•シーンでの人気/評価に反してレコード•セールスはふるわず、ヒット•シングルの欠如によるプレッシャー、無期のツアー•サイクルに疲労したバンドは解散を決意する。
新たなキャリアとしてオーディションに出向いたモットのメンバーから事情を聞き、救いの手を差し伸べたのがボウイとメインマンで、そこから先――ボウイはまず「サフラジェット•シティ」を提案、それが却下されて新曲「すべての若き野郎ども」を提供し、このレコーディングでモットにとってコロンビア移籍第1弾&初のスマッシュ•ヒット•シングルが生まれた――はよく知られた話だと思う。

この状況をミック•ジョーンズは「ああ、これ(=すべての若き野郎ども)はヒット曲だ!とすぐ分かったけど、(モットの人気が高じることで)同時に何かが失われる気がした」と形容しているが、念願のヒットを手にしたバンドはその波にみごとに乗じ、クリエイティヴ面でのピーク作と言える「Mott」をリリース、英米を股にかけてのスター街道を進んでいく。
その間にはオリジナル•メンバーの脱退劇もあり、イアン•ハンターの醒めた視線がグラマラスな「セックス、ドラッグ、アンド•ロックンロール」神話を打ち破る内幕本「Diary of a Rock’n Roll Star」も執筆された(イアン•ハンターはいまだに独特なカリスマを放っており、ドライな口調と自嘲気味なユーモアは健在)。そんな乱気流の中にあってもバンドとファミリー(何せ、クビになった前身バンドのシンガーがバンド運営に携わっていたりもする結束の固さである)を維持しようとする彼らは、新メンバーの加入で息を吹き返す。
「ニュー•ブラッド」として導入されたのがアイランド•レコーズ所属のスプーキー•トゥース時代からメンバーと交流があったというルーサー•グロヴナー(AKAアリエル•ベンダー)、そしてモーガン•フィッシャーなわけだが、バンドのキャリア末期に加入〜レコーディングも1枚だけで終わったにも関わらず、両者のネガティヴ度皆無な受け答えはモット•ザ•フープルでの経験が彼らにとっても「よき思い出」であったことを感じさせる。

しかし、ルーサー•グロヴナーもモーガン•フィッシャーもおっちゃんなのにキャラが立っていて、こんな人達をふたりもしょいこんでツアーを続けたモットってすごいなあ…と妙なところで感心。ルーサーは日焼けからして今はLAにでも住んでいそうだけど、オープンで豪放なノリはアメリカ人っぽい。彼の早弾き&アクロバティックなステージ•アクションは、もしかしたらヴァン•ヘイレン他後続のハード•ロック勢に影響を与えたかも? モーガンは当時のステージ衣装について「リベラーチを参考にした」と語るキャンプさがナイス。彼だけ、うっかり間違ってスパークスから紛れ込んだみたいなのも笑える。

ルーサーが脱退〜ボウイのコネでミック•ロンソン加入がアナウンスされるも、「Slaughter on 10th Avenue」を出したばかりのミックはソロ•スターとしても始動しており、バンドとしてのドライヴを失いつつあったモットは遂に解散(とはいえイアン•ハンターとミック•ロンソンはその後もコラボを続ける仲だった)。長い話に思えるかもしれないが、ファースト•アルバムからたった5年の間でこれだけの紆余曲折とアップ•ダウンを経たバンドは――1年にアルバム2枚なんてザラだった時代もあるとはいえ――なかなかいないだろう。
2009年には35年ぶりにオリジナル•メンバーが結集、ロンドンで再結成レジデンス•ショウが行われ、その模様も本編およびボーナス映像でチェックすることができる。自分もこのライヴには行ったけれど、英国流R&Bとも言えるユニークな音楽性を痛感したし、何よりファン(特に中年男性)のピュアな熱気と愛情には思いっきりアテられたもの。それを「やぼったい/感傷的」「情でベタベタしてる」と感じる向きもあるかもしれないが、本DVDにソウルフルなライナー•ノーツを寄せたモリッシーもよく知っている通り、ロックンロールは時に、心の中に隠れている子供やピュアネスを引き出すマジックを備えているのだ。というわけで、皆さんご一緒に――♪All the young dudes,carry the news…!

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今ポストのラストは、年末に英リリースされたトーキング•ヘッズのライヴ•パフォーマンス集「Talking Heads:Chronology」。日本版も発表されているので、そちらをご覧になった方も多いかもしれません。

内容は初期=75年のCBGBでの白黒ライヴ映像(ジェリー•ハリスン加入前のトリオ編成期も含む)から、2002年=「ロックンロールの殿堂」入りを果たした際の再結成ショウの模様まで、実に四半世紀以上のスパン/米欧におけるライヴをまたいでいる――とはいえ不朽の名作「Stop Making Sense」の存在もあるからだろう、古い映像は83年までに留まっているため、ツアーをやめてビデオ•クリップを主要メディア•アウトレットに移した「Little Creatures」以降の楽曲はオミットされている。
楽屋裏の風景(ちらっとアンディ•ウォーホルの後ろ姿も見える)、ファンのコメント、サイアー•レコーズのシーモア•スタインの談話といった要素も含まれるものの、基本的には時代を追いながらのパフォーマンス•アンソロジー。その中にはYouTubeにアップされているおなじみなアーカイヴ映像も含まれているだろうし、逆に言えば収録されなかった映像もあると思う。メンバーの音声コメンタリーを除けば「歴史を検証する」型のストーリー性はないし、ひとつの映像作品としてのオリジナリティは薄いとも言える。

が、そのぶっきらぼうさというか、たとえば当時のメディアのセンセーショナルな見出しやバンドへの評価(キャッチ•フレーズ)のコラージュ…といった常套手段を一切使わず、バンドの発展•成長を淡々とライヴという実録だけで綴る本作のストイックかつ簡潔なアプローチは、雑音をシャットアウトすることで、いわば「無菌状態」で観る者をトーキング•ヘッズの音楽に向き合わせてくれる。このバンドのユニークでブッキッシュな感性にぴったりなのはもちろん、退屈するどころか、最初から最後まで興奮して観てしまった。
しかし、その前に観たモット•ザ•フープルのDVDが1974年でひとつの区切りを刻んだことを考えると、その1年後には(海を越えて、の話ですが)トーキング•ヘッズみたいな新たな感性のユニットが活動を開始していたわけで、すごいギャップである。

NYダウンタウンの伝説:ザ•キッチンの様子が観れるのも嬉しいし、初期から一貫してポロ•シャツ&スラックスの「普通なルックス」だったトーキング•ヘッズのスター性の排除というアイディアは、本DVDのカヴァー•パッケージ(=バンドではなくライヴ観衆の写真)にも反映されている。選曲がナイスなのはもちろん、できれば遠慮せずに大音量で観てほしい!音質もすごく良い。
でも、いちばん興味深いのはやはりバンドの変遷。そのもっとも分かりやすい指標になるのがデイヴィッド•バーンなわけだが、リチャード•ヘル〜テレヴィジョンの影響を感じさせるインテリジェントなNYパンク•サウンド、そしてシャイでオッドな彼のキャラが妙な緊張感をもたらす初期を経て、78年頃には確信に満ちたパフォーマーへと成長を遂げているのは手に取るように分かる。いわゆる「バーン踊り」(白人男性は全般的に踊りがサマにならないものだけど、そのかっこ悪さを享受しギクシャク•カクカクした動きを取り入れることでひとつの芸風に持ち込んだと思う)もこの時期に始まっていて、82年には例のビッグ•スーツの前哨戦が敷かれているのが見て取れるのも興味深い。
もうひとつ指摘しておきたいのが、現在の一部のアメリカン•バンドへの影響。サウンドの指向性といいバンドの佇まいといい、ダーティ•プロジェクターズ、ヴァンパイア•ウィークエンド、ヒア•ウィ•ゴー•マジックといったアクトの原点はここにあった…と改めて感じてしまった。

しかし、自分がこのDVDに強く感銘を受けたのは、トーキング•ヘッズが「観たかったけどついぞ観れなかったバンド」だったから、という面も大きいかもしれない。MTVは日本版放映の第1回=84年から観たくらいプロモ•ビデオっ子だったが(地方に暮らしていたんで東京在住者のようにライヴには行けませんでした)、自分の記憶に間違いがなければ「Stop Making〜」ヴァージョンの「Once In A Lifetime」の衝撃的でヒプノティックなクリップはヘビロされていて、かつ、映画そのものも(当時ミニ•シアター熱が勃興していた)日本のメディアでかなり話題になっていた。

その刷り込みが功を奏し(?)トーキング•ヘッズはお気に入りバンドになり、「Little Creatures」期のビデオ•プレミアもすべてチェックしたくらいだった…が、ライヴは結局未体験。来日公演は81年だったというから自分は遅すぎたファンだったわけだけど、このDVDを観ていると彼らのパフォーマー集団としての素晴らしさがグングン伝わってきて、特にエイドリアン•ブリューとバーニー•ウォレルが参加した「Crosseyed and Painless」の素晴らしさには「くぅ〜〜、あと10年早く生まれていれば」と、無駄なあがきに悶絶してしまう。
ボーナス映像の英テレビ文化番組:「South Bank Show」(79年)のドキュメンタリーはバンドの内的メカニズムや素顔、思想を知る上でファン必見だと思うし、ちぐはぐさがいちいち笑えるデイヴィッド•バーンの78年インタヴュー映像、そしてライナー代わりの故レスター•バングスによるエッセイの全文掲載など、丁寧なプロダクションも光る。先にも書いたように、動画サイト他を通じてトーキング•ヘッズのライヴ映像はもっと観れるのかもしれない。が、本DVDにまとめられたドキュメントを通して観ることで、この唯一無二で奇妙なバンドへの興味•好奇心はもっともっと掻き立てられるはずだ。

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I’ll Be Your Mirror Japan:第一弾ラインナップ発表だよ〜

というわけで、クリエイティブマンさんから告知を。ジムの「ユリイカ」、コデインは観たいですなぁ。

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I’ll Be Your Mirror JAPAN 4月14•15日

ジム・オルークが名盤『ユリイカ』再現ライヴ、 そしてジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンがヘッドライナーに決定!
本日 I’ll Be Your Mirror 2012 の待望のラインナップを発表します。 初日のキュレーターは ATP、そして 2 日目はジム・オルークがキュレーターを務めます。ジムはあの名盤 『ユリイカ』を 12 人編成でスペシャルパフォーマンスを披露してくれる予定です。さらに追加アーティスト、 DJ なども発表されますのでご期待ください。

4.14 sat curated by ATP
THE JON SPENCER BLUES EXPLOSION
CODEINE
THE MAGIC BAND
THE DRONES
FACTORY FLOOR
NISENNENMONDAI + more to be confirmed

4.15 sun curated by JIM O’ROURKE
JIM O’ROURKE performing Eureka
MICHAEL ROTHER plays the music of NEU!, HARMONIA & other works
THE NECKS
BORBETOMAGUS + more to be confirmed

4/14(土)15(日)新木場スタジオコースト
Open 13:00/Start 14:00 Ticket:1day ticket ¥8,300(税込) 2day ticket(限定枚数) ¥15,000(税込) ※別途 1 ドリンク
www.illbeyourmirror.com www.creativeman.co.jp
www.twitter.com/atpibym www.atpfestival.com
チケット発売日:2/11(土)~
INFO:クリエイティブマン 03-3462-6969
※出演アーティストの変更・キャンセルによる払い戻しは致しません。
※未就学児の入場はお断り致します。

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Sherlock-Series2 (BBC)

ほぼ何もせずダラダラしたクリスマス〜年明けでしたが(例年通り、とも言う)、そんな寝ぼけた頭に期待&興奮の電流をガツンと走らせてくれたのが元旦からスタートしたBBC「Sherlock」シリーズ2(計3話)!今さら説明するまでもない&過去の映画化/テレビ•ドラマ化は数知れず(最近だとガイ•リッチーとロバート•ダウニー•ジュニア版もありますね)なコナン•ドイルの探偵小説の古典を、舞台を現代のロンドンに移し替えてハイパーにモダナイズした人気ドラマであります。

日本でもシリーズ1はNHKで昨年放映されたそうですが、その第1弾が最終的には英アカデミー(BAFTA)で最優秀テレビ•ドラマ部門を受賞するなど好評を博したこともあり、テレビ/ラジオ番組表雑誌「Radio Times」表紙を飾るなど、今回は前宣伝も打ち出しもかなり派手だった。
さすがにクリスマス•プレミアの特等席を射止めるには至らなかったけど、1月1日から3週連続でゴールデン枠放映決定というのは期待感と評判の高さの現れだろう。イギリスはもちろんアメリカ他英語圏国でも話題になっていて、この第2シリーズは1話ごとにネット•メディアやブログの各所にレヴューが飛び交うプチ•フィーヴァーぶり。シリーズ2最終話放映の翌朝、軽くネットをさらっただけでも関連ニュース/トピックが既に300本近くアップされていて、シャーロック•ラヴはますます募っているようです。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::!!!!!! SPOILER ALERT !!!!!!!:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

と、ここまで書いたところで「ネタバレ警報」発しておきま〜す。いずれ日本でも放映されるでしょうし、それまでドキドキワクワクを完全にキープしておきたい/我慢強く待ちたいとお考えの方は――そうやって「寝かせて待つ」だけの価値のあるシリーズであることは保証します――ここから先は禁区かと。読むかどうかはAt your own riskということで、ご了承ください。楽しみを台無しにされたくないという向きには「第1シリーズを上回る内容:おみごとモファット&ゲイティス」という感想結論だけで留めておきます。

ただ、自分自身は映画やドラマの「ネタバレ」にそれほど過敏ではなかったりする。先回りして筋の展開をチェックしたり(特にテレビ•ドラマのDVDボックス•セットとか)、事前レヴューを読むのは好きだったりする。知人には「なんで先に結末を知りたがるの? バカじゃない?!」と不思議がられるんだけど、面白い何かに出くわすと基本的に待ちきれないタイプの人間みたいですな。今の時代に市井のノイズ〜人々の声(トウィートやブログのコメントといったレベルも含む)を完全にシャットアウトするのは楽ではないし、どこかで偶然筋書きを知ってしまう‥‥なんてことはままある。
それにレヴューというのはしょせん「書き言葉」であって、その文章を書いた人間の感性=すなわちフィルター次第で表現や解釈は違ってもくる。そもそも言葉にしたって、ひとつの単語=概念が読み手に与えるイメージや連想は、完全に「同じ」ってことはありえない。普遍的な単語、たとえば「青」をとっても、人々がとっさに脳内にイメージする「青」のトーンはコバルト•ブルーから群青まで、十人十色なわけで。

言い換えれば、自分以外の人間が書いた/感じた何かを鵜吞みにするのは無理、ということ。そう考えれば、たとえドラマや映画のあらすじを前もって知ったからといって「楽しみが台無しにされた、バカヤロー」と怒り狂う必要もないんじゃないかと思っている‥…でもまあ、これまたたぶん強引な持論であって、誰もが賛同する考え方ではないだろう。故に警報を発するわけです(ネットのマナーって言うのでしょうかね)。
ただ、実際に観てみないと映像や演出、監督/脚本家の意図を自分なりに咀嚼•解釈することはできないだろうし、白とも黒ともつかない微妙な場面やキャラのインタラクションをどう捉えるかも、受け手の読み方は案外違うもの。見返すことで台詞やニュアンス他の細部のひねりやダブル•ミーニングに「ああ!」と気づかされることだってあるわけで。
その意味で、「Sherlock」というシリーズは①古典的なドラマの魅力&力学(演技、脚本、役者力)をベースに据えつつ、②ネット世代の重箱の隅をつつきたがる感覚やゲーム族にも対応できる細かいトラップをたっぷり配置と、とても周到に考え抜かれ、制作された実にモダンなTVドラマでもある。それにまあ、自分がブログで何か喚いたくらいで面白さが半減するような、濃い鑑賞に耐えないようなちゃちな作品だったら、そもそも取り上げないっすよ。

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さてさて。今回のシャーロック3話のベースになったのは、それぞれ「ボヘミアの醜聞」(「A Scandal in Belgravia」)、「バスカヴィル家の犬」(「The Hounds of Baskerville」)、そして「最後の事件」(「The Reichenbach Fall」)。いずれも知名度の高い大関〜横綱級のホームズ譚ばかりで、原作のエッセンスを残しつついかに「現代」に翻案し直すか?という点だけでも興味をそそられる。
シャーロッキアンではないので、細かい蘊蓄•分析(このシリーズには、メインの原作以外にも色んなホームズ•ネタがちりばめられていたりする)はそちらにお任せする。が、それぞれのストーリーのアイコニックな要素、すなわち「ボヘミア」の女傑アイリーン•アドラー、「バスカヴィル」の魔犬の謎&イギリスの田舎の不気味さ、「最後の事件」のホームズ対モリアーティの図式といった大骨子こそ守っているものの、ストーリーの大胆な飛躍や思い切った変奏、現代風の翻案やひねりがこれでもかと盛り込まれていて今回も実に痛快。
シリーズの共同制作者/プロデューサーであり脚本も手がけ、シャーロックの兄:マイクロフトを演じる俳優/作家マーク•ゲイティスは大のホームズ狂だそうで、彼のマニアならではの造詣の深さとディテールへのこだわり、過去のホームズ映画&テレビの知識〜ファン達の諸説への目配せなど、愛情がひしひし伝わってくる。

ご存知の方も多いと思うが、そのマーク•ゲイティスともうひとりの原案&制作者:スティーヴン•モファット(この人もホームズの熱狂的ファン)は、共にBBCの人気カルト•ドラマ「Dr. Who」でも活躍中のクリエイター。「Dr. Who」は1963年からスタートしたSFシリーズで、オタッキーなイギリス人達に支持されてきた。UKポップ•ミュージック界ともまんざら無縁ではなくて、たとえばマンサンのポール•ドレイパーがファンを自認したり、KLFことタイム•ローズがテーマ音楽をパロッたりもしております。

あと、これも忘れちゃいけませんね。

その「Dr. Who」が、16年ぶりにぐっと若返ったドクターとギャル系アシスタントとを従えて大々的にお色直しを果たし、お茶の間に戻って来たのは2005年。これだけギャップの空いたTVリメイク〜ブランド復活もなかなか多くないと思うが、マニア内だけにとどまらないワイドなアピールの原動力になったのが、10代目ドクターを演じたデイヴィッド•テナントのチャームだろう(その前に9代目:クリストファー•エクルストンも一瞬存在しますが、生真面目すぎて演技を見ているのが辛くなる俳優なのであまり好みではありません)。
このスコットランド人俳優は過去のドクター達に較べて遥かに若く線が細く、一般的に考えても今風の甘い美男(でも、この人は自他共に認めるフー•マニアだそうで、その意味でもまさに「当たり役」)。コンバースで走り回るADHD気味のギークな姿には「コドモ男」の無邪気さがいっぱいで、「Dr. Who」にはさほど興味のない自分ですら――特撮がチャチで興ざめしちゃうのと、子供ファン層への配慮か、ストーリーや描写がお手柔らかなのがネック――テナント観たさの一心でチャンネルを合わせたもんです。

で、「Sherlock」のスタッフ達がやってるのも、根本のところでは「Dr. Who」の再興と同じ。そのエッセンスが何かと言えば、①過去のアイデア/フォーマットを現代社会に巧妙に移し替えること、そして②主役に(おたく男を「かっこいい」と納得させ、それと同時に女性にも同じくらいアピールするハンサムで演技の上手い)カリスマ役者を持ってくること。いまや音楽にしてもそうだと思うけど、360°マーケティング、すなわちアクセス•ポイント/切り口トピックが多ければ多いほどマス•アピールも強まるわけで、その意味で②における逸材ベネディクト•カンバーバッチの抜擢は、そもそもカルトな対象に新たなファンを開拓する=門戸を広げるという意味で効果大だったと思う。

ものすご〜く大雑把な意見と思われるのは承知な上で書くと、SFやアクション、ホラーといったジャンルはロック•ミュージックに少し似ていて、伝統的に男性が(作り手/受け手の双方で)大多数を占めている。自分はそうしたジャンルが好きなので矛盾した話かもしれないが、たとえば映画デートで「〝エクスペンダブルズ〟観ようよ!」と提案する女性はおそらくあまり多くない、というのが現実ではないかと(愛好家同士のカップルは別ですが)。
ともあれ、今のようなエンタメ受難な時代、昔ながらの男ロジックだけに偏った劇作だと現代女性からは総スカンを食う訳で、それは視聴率あるいは興行というシビアな観点からすれば多大なロス。頭の切れる作り手なら、そこで「じゃあ、(伝統的に男が好きな)SF、冒険、アクションといったジャンルの魅力をそのままに、いかに女性客を引き込むか?」を考えるはず。モダナイズされた「Dr. Who」そして「Sherlock」の成功の要因は、もちろん他にも色々あるとはいえ、女性が抵抗なく番組をエンジョイできる環境を作ったことじゃないだろうか。

「Sherlock」シリーズ1のアングルが「シャーロックが21世紀のロンドンに存在したら、彼はどんなキャラで、どんな事件にぶつかり、どんな捜査法で解決するか?」のアップデートの面白さとスリル――パイプはニコチン•パッチに、ベイカー街遊撃隊はホームレスの地下組織に移し替えられ、馬車はロンドン•タクシーになり、衣装ももちろんトラッド&スマート。推理には法医学、ネットや携帯などモダン•テクノロジーが大活躍――に依っていたとしたら、シリーズ2の力点はシャーロックの人間性=内面探求にシフト。その意味でも、第1話「A Scandal in Belgravia」でシャーロックの(筋にはさして関係ない)ヌード•シーンが登場するのは、カンバーバッチ好きへのファン•サービスであると同時に、シリーズの「裸のシャーロック」な方向性を示唆する鍵でもあった気がする。

現代版シャーロックの警察をあっさり出し抜く洞察と頭脳明晰ぶり〜無意識の尊大さ&辛辣さ、エキセントリックさから生じる笑い、鮮やかな推理描写は健在なのでご安心あれ。しかし、連続殺人事件を追う構成で謎解きを畳み掛けた前シリーズに較べると、今回は基本的にひとつのエピソードを通じてひとつの大きな謎(プチ事件も絡むけど)に迫るスタイルをとっている。「スーパーヒーローさながらに白星続きの天才」というシャーロックのアンタッチャブルでクールな表層を維持することも可能だったわけだが、そこからストーリーを広げ、主要キャラ達との絡みを膨らませることで、シリーズ2には新たな魅力の層が付け加わっている。

んなわけでシリーズ2の各エピソードの見所は自分的には役者達の演技と息の合い方だったし、カンバーバッチとマーティン•フリーマンのあうんの呼吸が素晴らしいのはもちろん(レストラード役のルパート•グレイヴスも今シリーズでやっと活きてきました。「V For Vendetta」といい、この人って刑事役が似合いますね)、「Belgravia」、「Reichenbach」の2本はその意味で甲乙つけがたいクオリティだと思った。前者は、スキャンダル写真をネタに英政府をひれ伏させるアイリーン•アドラーと、シャーロックの頭脳戦が主筋。
どんな犯罪も看破し、知性と機知では無敵を自負するシャーロックの傲慢をくじく、何枚か上手の華麗なるゲーム•プレイヤーが美女アイリーン•アドラーなのだが、彼女をSMの女王様〜文字通りのFemme Fataleに仕立てたことでセクシー度はおのずとアップ。シャーロックが唯一認める「女性」であり、ゆえに彼にとってもっとも恋愛に近いやりとり――といっても「Brainy is the new sexy(これからは頭のいいのがセクシー)」とのたまうふたりであり、シャーロックは恋愛を始めとする情動を「邪魔だ」と軽蔑している節すらあるので、どこまでも頭脳/心理の駆け引きに留まるわけですが――が展開される筋書きにロマンチックで色っぽい彩りを添えている。
そこに国際的なコンスピラシー•セオリーも絡みながら話は進んでいくんだけど、たとえばシャーロックとアイリーンにそれぞれヌード•シーンが与えられるなど、両者がどこまでも対等(=シャーロックは秘密を打ち破るものの、最終的に両者は貸し借りなしの関係になる)であることをシンメトリカルに描き出したバランスのいい脚本は、優雅な振り付けのバレエ、あるいは完成されたクラシック音楽を聴くような満足感を与えてくれる。

「Belgravia」でシャーロックの内面に波風を立てた(と同時に、いわば強力な「愛人」の登場にやきもきしつつも、シャーロックへの思いやりを忘れない良妻ぶりをワトソンから引き出した)アイリーンに続き、「Reichenbach」では最大のライバル:モリアーティが復活。タイトルの「ライヘンバッハの滝」は、「最後の事件(The Final Problem)」でホームズとモリアーティが雌雄を決する舞台となるスイスの滝であり、シャーロックをマジな破滅に追い込むべく、モリアーティが周到な仕掛ける周到な罠のインパクトは、かなりでかい。
モリアーティ役のアンドリュー•スコットは、ベネディクト•カンバーバッチ&マーティン•フリーマンの名コンビを筆頭にキャスティングを絶賛されている本シリーズの中で、もっとも賛否両論分かれる俳優じゃないかと思う。若くて童顔、声も高く、演技もいちいち芝居がかっていて(アイルランド訛りもかなり独特)、原作の老獪な怪紳士〜怪物的な犯罪王という重々しいイメージはゼロ。鷲鼻も鹿撃ち帽もうっちゃった(とはいえ、今シリーズで鹿打ち帽はナイスなコミック•リリーフを提供してますが)「ニュー•シャーロック」において、もっとも思い切ったキャラクターの翻案/トラディショナルなイメージから激しく飛躍したのがモリアーティ教授ということになる。
ゆえに、前シリーズのモリアーティがシャーロック&ワトソンの前に姿を現した時には、正直「えー?」と拍子抜けしたもの。若すぎ、軽すぎ、キャンプすぎ。しかし、前エピソードのクリフハンガー=「これからどうなるるるるぅ?」な手に汗握らされたままの結末からきっちり再開するシリーズ2第1話(たまに緊迫した場面をフラッシュバックで片付けるドラマもあるけど、それをやらなかったのは偉い)のオープニングは、モリアーティのねじれた性格/サイコパスぶりを短いシークエンス(携帯着信音がポイント)でみごとに描いていて、やっとこのキャスティングに納得がいき始めた。

そんなモリアーティのサイコならではのシャーロック壊滅へのオブセッション〜真綿で首を絞める型のビルド•アップ、そして犯罪も殺人もゲームを構成するコマとしか見ていない「プレイヤー」ぶりは、第3話の冒頭=ロンドン塔他の警備突破シークエンスにもよく出ている。その歌劇を観るようなリズムは、じわじわ悲劇へと転じていくストーリーの、いわば優雅な序曲。見た目も年齢も肉体的にもまったく違う設定なので、アンドリュー•スコットは過去のモリアーティ像はまったく参考にしなかったと語っているが、ヒース•レジャーの演じたジョーカー(こちらも「若すぎでは?」と当初は疑問視されたキャスティングでしたけど)が近いかな。ストーリーそのものも、フランク•ミラーの「Dark Knight Returns」と多少オーバーラップするところがあるし。

自分自身では手を下さない/汚さないタイプのモリアーティが、メディア操作と大衆心理を利用してシャーロックを追いつめていくあたりは今の時代とても説得力がある。山場となる両者の対決場面も、いずれも2俳優の熱演が光る出来。しかし、ストーリーを引っ張る「謎(モリアーティの仕掛けた秘密)」そのものは案外あっさり解明するので「ん〜??」と思っていたら、最大の謎は他にあった――このエピソード自体が、大きな「謎解き」を観る側に提示しているんですね。う〜ん、憎いっ! このエピソード放映終了の数日後には「Sherlock」第3シリーズ制作決定も正式にアナウンスされており、「早ければ今年中」とも言われるS3放映まで、ファン達は様々な持論を戦わせることになりそうです。

先述したように、このシリーズは「思考機械」とも称されるシャーロックの強化ガラスのごとき表層に穴を穿ち、人間としての内面を描くのに成功している。アイリーン•アドラーにもてあそばれ、「Baskerville」では自己不信に襲われ、モリアーティに裏をかかれっぱなしの「Reichenbach」‥‥と、実はこの3話を通じてシャーロックは揺れている。スーパーヒーローではないのだ。そうした手強い「敵」達とのやりとりを派手に繰り広げつつ、彼を影で支えている友人達(ワトソン、ハドソン夫人、レストラード、モリー、マイクロフト)の重要性と存在感、人間関係とを回を重ねるごとにさりげなくクローズ•アップしていく、シリーズ全体のペース配分も素晴らしいと思う。
その意味で、マーティン•フリーマンの最終話での演技は秀逸だった。いい俳優ですなぁ。カンバーバッチの尊顔を拝しているだけでもじゅうぶん幸せな自分ではあるし、彼のかっこよさは前シリーズ以上にアピールされてもいるけれど、いちばん美味しいところはワトソンが持っていった感じ。このシリーズの大きな魅力であるシャーロック&ワトソンのでこぼこな、しかしパーフェクトな関係=ブローマンス(ノンケな男同士の友情。現実の例としては、ブラッド•ピットとジョージ•クルーニーとか)が、やっぱり最終的にはポイントなのだろう。

その意味で、「Baskerville」は本シリーズで自分にとってはもっとも「いまひとつ」なエピソードだった――といってもアベレージ値が高いので、他のドラマに較べれば全然「優良」の部類ですが。
全体的に監督&演出がイマイチだったのもあるけど、最大の理由は「Baskerville」の翻案が突飛なコンスピラシー話を利用していた点。個人的な好き嫌いだとは思うけど、ややSFが入ってきて、クリエイター達の「Dr. Who」趣味が強く出すぎかな?と。これはまあ、このシリーズはたとえば変装や特撮といった「トリック」にほとんど頼らない科学/実証主義なアプローチをとっているため、バスカヴィルの猟犬というある種霊的でフォークロアな存在や、舞台となるダートムーアの先史的な風土など、「説明のつかない何か」との食い合わせが悪かったからなのかもしれない。
いわば「モダン」と「オールド」の食い合わせの悪さというわけだが、それはこのエピソードのゲイねたにも感じた。シャーロック&ワトソンのブローマンスは多くの人間に「ふたりはゲイ•カップルだ」と誤解されていて、その気はまったくないワトソンが必死に打ち消す(シャーロックはハナからロマンスを意に介していないので、周囲の誤解を感知すらしていない)くだりはシリーズの随所でギャグの種になってはいる。しかし「Baskerville」ではその「いじり」がやや度を超す場面があって、「リベラルなロンドンが舞台ならまだしも、イギリスの保守的な田舎でこれはないだろう‥…」と感じてしまう瞬間があり、そのディテールにちょっとギクシャクしちゃったわけです。
シャーロックの最後の台詞も含め、このエピソードはユーモアがポイントだとは思う。他の2話とのバランスという意味でも、軽さを挟むのはまあ納得。ただ、3話の中でもっともおっかないアクション•サスペンスになるポテンシャルのあったストーリーなだけに、浮きがちなジョークをちりばめるよりもそっちにじっくり重点を置いても良かった気がするのだ。まあ、そもそも重要なキャラであるヘンリー役の俳優ラッセル•トヴィが、BBCの他のドラマ(「Being Human」)でオオカミ男:ジョージ役を演じていたってのが、いちばんの冗談でもあるかもしれないけど。

ともあれ、これからしばらく楽しみがなくなってしまい、心にぽっかり「シャーロック」という名の穴があいた気分でもある(大げさか?)‥‥。「War Horse」や「The Hobbit」を追ってもこの欠乏感が満たされることはないだろうし、辛抱強く第3シリーズを待つしかないようです。それにまあ、1話につき90分と映画とさして変わらないヴォリュームなわけで、脚本も含めじっくり練ってもらい、過去2シリーズに恥じないクオリティ•ドラマを作り出してくれることを何よりも期待しようと思う。

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My Favourites-2011 edition

●●●Favourite records 2011●●●

いつもポストが迷宮のようにぐねぐね長いので、今回はトウィッター風の簡潔な「一口レヴュー」にトライしてみようかと‥‥トウィッターやったことないですが。

その前に前口上:
今年も色んな音楽がリリースされ、多くの新人がデビューし、様々な音に出会うことができた。メニーサンクス。けれど、選択肢やアウトレットの増加に比例して自分の趣味•興味が広がってもいいはずなのに、現実は案外そうでもない気がする。むしろ、自分のもともと好きなタイプの音楽/構えずとも「入ってくる」音に強く反応=ルーツに逆行する傾向に振れている、という。
耳が老化した証拠だろうし、リスナーとして保守化しているのかな‥‥と不安にもなる(2012年はとりあえず「マジー•スター再結成とダーティ•スリーの久々の新作が楽しみ」なんて考えてるのも、我ながら古いっすよねえ〜)。が、あくせくとトレンドやニュー•ハイプに飛びつくよりも――そのオン•タイムなスリルは、それはそれで楽しいものですが――、繰り返し聴けて長く付き合える作品との出会いを丁寧に言祝ぎたい、というのが昨今の率直な心情でもある。

ランキングはもともと得意ではないので基本はアルファベット順のリストで、最初にあげる3枚以外は、それぞれ異なる魅力と引きがあって甲乙つけがたい好作品群。計37枚、「ベスト40あるいは50」といった具合に切りのいい数になっていないのはみっともないが、それは聴いた新作の数=分母が決して大きくないからなので悪しからず。未聴の過去の作品にもまだいくらでも発見の余地がある脇の甘いリスナーなので、新作にばかりかまけてはいられない、ということで。
ともあれ。トップにあげた3枚は、自分にとっての今年のダントツ作品にして、これからもえんえんと立ち戻り、聴き返すレコードになると信じている(去年のこの3枚に当たるのがギル•スコット—ヘロン、ビーチ•ハウス、 ジョアンナ•ニューサム。次点はスフィアン•スティーヴンス、スワンズ、フライング•ロータス、 エイヴィ•バッファロー 、ヒア•ウィー•ゴー•マジック、イェーセイヤー、 ヴァンパイア•ウィークエンド)。ケイト•ブッシュ、ポール•サイモンやトム•ウェイツら、高い評価を集めているベテラン達の作品を聴く余裕がなかったのは、心残りでもある。

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PJ Harvey/Let England Shake(Island)
年頭リリースながら多くの英メディアが年間ベストに選出、胸を撫で下ろした。彼らもまんざら腐ってないらしい。戦争を多彩なアングルと話法を援用して描いているが、大局的には繰り返される人災と悠久な自然の対比が残る。「英国」に限定されない普遍性を音楽と言葉の双方で達成した名作。

Bill Callahan/Apocalypse(Drag City)
近年のビルの作品はいずれもビタースウィートな生の機微にふれる名人芸の域に達しているけれど、本作の枯淡な味わいは格別。しみる1枚とは、まさにこのアルバムだろう。「Letters To Emma Bowlcut」も抜群。

Gillian Welch/The Harrow&The Harvest(Acony)
久しぶりに帰還した天才による、待った甲斐のある力作。ストイックな音数にかかわらず、音楽として孕む豊かさと完成度は他の追随を許さない。「もっと!」とねだりたくもなるが、時間をかけて一滴一滴落ちてきた音楽をこうして待つのもまた喜びなのだ‥‥と感じさせる1枚。

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Ryan Adams/Ashes and Fire(Pax Am)
多作なこの人の「名曲」は色んな作品にちらばり気味でもあるのだが、シンガー•ソングライターとしての原点を再確認するごとき本「カムバック」作は、フォーカスの絞れた楽曲揃い。洗練されたバックのスタイリングと秀逸なレコーディングにもうならされる。

Arbouretum/The Gathering(Thrill Jockey)
米産ながら、70年代英プログレ〜ヘヴィ•サイケ(たとえばサバス、ホークウィンド、クリムゾン、ロキシー)のキモをがっちり掴んでいる素晴らしいバンド。1枚の世界の中に聴き手がずっぽり埋没できる、古典的な作りのレコードでもある。

Atlas Sound/Parallax(4AD)
「さ迷える少年」の夢想をたどるごときファジィで流動的な音作りの中に、この人のどうしようもなくリリカルではかないメロディが絶え間なく浮かんでは消える。

Battles/Gloss Drop(Warp)
タイヨンダイ脱退の大波を乗り越え、アヴァン•プログレ•ポップの雄としての立場を固めた力作。ハンデもなんのその、ユーモアと攻めの空気に満ちていたライヴの良さも、ポイント高し。

Bill Wells and Aidan Moffat/Everything’s Getting Older(Chemikal Underground)
名コラボレーターであるビル•ウェルズが、街角の吟遊詩人:エイダン•モファットと組んだ1枚。エイダンの味出しな声が言葉に生命と詩情とを吹き込み、ビルが画家のようにその情景を淡い水彩の音で描き出す。あつらえたような小津安二郎を思わせるスコッツ•タッグは、いつかまた実現してほしいと祈らずにいられない。

Bon Iver/S.T.(4AD)
腰の重いグラミーに2作目で認知されてしまったボンちゃん(カニエ作用?)。美しく内に閉じた前作に対し、本作は窓を開けて今の風や動きを取り込んでいる。量産コピー•浪費されかねない(テレビ•ドラマとか、使いたがりそう)ほど個性と磁力が強い声なので、その力だけに依らず音楽面で刷新を図ったのは正解。

Anna Calvi/S.T.(Domino)
トータルな流れという意味では突っ込みどころもある作品ながら(人によってはそのギャップが魅力でもあるだろう)、ネオ•ノワールやゴス•パワー•バラッド(なのにボニー•タイラーにならない「品」があります)といった玄人好きする世界に果敢に飛び込み、彼女色に染めてみせる才気は大いに買う。

Mikal Cronin/S.T.(Trouble In Mind)
さらっと聴いただけではフリーキーにかっ飛んだネオ•ガレージなんだけど(③はモロにJAMC)、サーフ、サイケのアクセント等々、ポップな快に満ちたフックをあちこちに仕込むクレバーさがなんともご機嫌な人。仲良しバディのタイ•セガール、ジョン•ドワイヤー先生などSFガレージ族もむんむん参加。

Crystal Stilts/In Love With Oblivion(Slumberland)
オーソドックスな構成のギター•バンドという意味では、今もっとも好きな人達。本セカンドも、へなちょこでモノクロームに無愛想なVUチルドレンとしての面目躍如。最新EPではブルー•オーキッズの隠れ名曲をカヴァーするなど、「分かってる」センスの良さはお墨付き。

Destroyer/Kaputt(Merge)
ニュー•ポルノグラファーズの一員として知られる人だが、ソロ名義:デストロイヤーの方が長い。近いところではツイン•シャドウ、カーントなど、ここ数年続いている「80年代FMメロウ•ポップ(エレで欧州寄り)」リヴァイヴァル•トレンドの到達点と言える作品かもしれない。

Dragging An Ox Through Water/The Tropic of Phenomenon(Sweet Dreams)
昨年リリースながら、聴いたのは今年なので強引に(SDの福田さん、ありがとうございます)。ジャッキー•オー•マザーファッカーにも参加しているブライアン•マムフォードのソロは、宅録ポップの美と不思議でいっぱい。こんな音を出している人は他にいない&パッケージも素晴らしいので、見かけたらぜひ。

Earth/Angels of Darkness,Demons of Light 1(Southern Lord)
瞑想系ミニマル•ミュージックとシアトルのドゥームな感性の連携を感じさせる1枚‥‥と書くと何やら仰々しいが、彼らの作品中でも入りやすい内容じゃないかと感じる、才人カール•ブラウ参加も嬉しい1枚。来年発表予定の続編にも期待が募る。

●Fleet Foxes/Helplessness Blues(Sub Pop)
ボン•イヴァーと並ぶ「難しいセカンド」だったと思うが、バンドの本質と良心を損なうことなく、スケールの大きいサウンド•スケープをみごと実現。着実なネクスト•ステップだと思う。

Fucked Up/David Comes To Life(Matador)
ハスカー•ドゥ「Zen Arcade」以来のハードコア•パンク•オペラとも言えるし、70年代末〜80年代初頭のイギリスに設定されたコンセプトにザ•フーを思い起こしもする。とはいえ、このバンドの「パンク」に限定されない旺盛な消化力、ストーリーへの愛、音楽的好奇心が結実した見事な作品。熱いぜ!

Gang Gang Dance/Eye Contact(4AD)
過去の作品群と比較しても、格段に「抜けた」感がある。しかし、文句なしに酩酊させられるオープニングを経て、アーティな人達ならではの中盤のモタつきだけが残念。そこをいかに解消してくれるかが、次の課題かも。

Hiss Golden Messenger/Poor Moon(Paradise of Bachelors)
カントリー/ブルーグラス/フォークの伝統と良さとを、麗しく「今」に再解釈し次代へつなげていく伝道師M.C.テイラー。ルーツ音楽に興味を抱く若いファンが、手始めの教科書として聴いてくれたらいいなあと思う。

Hype Williams/Untitled(Carnivals)
ヒプナゴギッグ系ではワンオートリックス•ポイント•ネヴァーの「Returnal」に続き、ここ最近で一番ハマった作品。レトロとフューチャーの間に蜃気楼のようにたゆたう、不思議な空間を生み出す音だと思う。

Pat Jordache/Future Songs(Constallation)
80年代UKのどっかで似た声を聴いたことがあると長らく気になっているこの人の声、いまだ特定できない(苛)。ケヴィン•ローランドの抑揚をかすかに想起させるその声、ハイライフでプラスティックな音作りに素晴らしくマッチ。「モダン•ポップ」を今年強く感じさせてくれた1枚(追記:チューンヤーズのメリルとも交流のある人でした)

Low/C’mon(Sub Pop)
リリース期よりも、むしろクリスマスや年末=冬の情景にぴったりなホーリーな音‥‥というか、このバンドはもうクリスマス•レコードも出してますね。音楽ユニットとしての総合力が再び高まっているのも、心強い限りです。

John Maus/We Must Become The Pitiless Censors of Ourselves(Upset The Rhythm)
アリエル•ピンクのマブダチ。ジョン•カーペンターばりにチープなシンセ音とドラマチック&エピックな楽曲の混交は、サイボーグ•ディスコとでも言うべきねじれた次元にトリップさせてくれる。

Thurston Moore/Demolished Thoughts(Matador)
ソニック•ユ―スの今後はさておき――サーストンのもっとも「裸」なアコースティック•アルバムで、スピリチュアルなモチーフが多いのもその内省的な印象を強めている。まんま放り投げても美しい楽曲集だが、ベックが「Sea Change」そのものなルミナスでラッシュなプロデュースで好サポート。

Panda Bear/Tomboy(Pawtracks)
聴いているうちに音がささやき、うごめき、飛び回り、光を反射しうねる様が目に浮かぶような、マジカルなミクロコスム。テレくささを克服し(?)、ヴォーカルに真摯な情感が宿る瞬間がたまりません。

Peaking Lights/936(Not Not Fun)
ウィスコンシンを拠点とする夫婦デュオによる、ウォーペイント系なダビーで煙たく、トランシーな音像がなんとも素敵。エレクトリックでサイケ寄りなビーチ•ハウスと言えるかも?

Josh T. Pearson/Last of The Country Gentlemen(Mute)
バチあたりロッカーズ:リフト•トゥ•エクスペリエンスを経て、ジョッシュTが描き出したジャーニーマンの憂愁。ひなびたニック•ケイヴとも言えるが、本作の長い尺に付き合うだけの集中力を維持させる、サウンド面/トーンの変化に乏しいのだけは残念。

Real Estate/Days(Domino)
フィーリーズとフェルトという、マイ大好き!な連中のエッセンス〜青い硬さを備えたバンド。ゆえに、あっけなく陥落。

The Skull Defekts/Peer Amid(Thrill Jockey)
スウェーデンのオルタナ番とも称されるこの硬派なバンド、元ラングフィッシュのダニエル•ヒッグスとの顔合わせも納得。古さを否めないサウンドながら、ツボをついたプロダクションでびっちり聴かせる。

The Strokes/Angles(RCA)
紆余曲折を経ての新作完成にまずほっとしたが、前2作におけるトライアルを消化した、真の意味での進化が結実していて溜飲が下がった。地味に愛されるカルトな存在になることをキャリア初期に想定していたという、このバンドのマニアックで因習にとらわれない本性がよく出ている。

Tune-Yards/Whokill(4AD)
激DIYな前作を経て、スタジオ•レコーディングのツヤをまとったセカンド。しかし、アフリカとアメリカをつなぐメリルの民族学的な視点、才気走ったミクスチャー志向は相変わらず奔放で、個性的なポップ•クリエイターとしてますます目が離せない存在に。

Unknown Mortal Orchestra/S.T.(True Panther Sounds)
先述のパット•ジョーダーシュと並び、今年もっとも「ヤられた!」ご機嫌なモダン•ポップ•レコード。エレファント6ばりにやんちゃでメロディックなチャームを、サニー&サーフ&ロボット•ファンクな音作りで軽やかに味付け。聴くだけで気が晴れる。

Kurt Vile/Smoke Ring For My Halo(Matador)
The War on Drugs/Slave Ambient(Secretly Canadian)
この2枚はフィリー•セットで。アメリカン•ロック/ブルー•カラーな男気をインディ音響系センシビリティで濾過したTWODは、前作のトム•ペティ味から音のレンジを更に広げていて◎。元メンバーであるカート•ヴァイルは、ディラン〜初期ボウイなボヘミアン•フォーク•メロディで泣かせる。

White Hills/H-p1(Thrill Jockey)
ウッデン•シップス、ブラック•エンジェルズなどスペース•ロックは今年も好調だったけど、インダストリアルなヘヴィネスで蹂躙するこのアルバムは頭ひとつ抜けた感。次作はロリ•モシマンと組むとか。にしても、近年のスリル•ジョッキーの割り切りぶりというか、大胆なリリースには目を見張らされる。

Wilco/The Whole Love(dBpm)
音楽集団としての充実があるからこそ可能な自由や実験はそのままに、「Summer Teeth」期を彷彿させるハッピーとサッドが入り混じるポップから心がむき出しのフォークまで、ソング•ブックの趣きが強い1枚。⑫のような曲は、今のこのバンドにしか作れない曲だろう。

Wild Beasts/Smother(Domino)
昨今の英バンドの多くが「手に負えない」と避けている(というか存在に気づいてもいない)、女性的な観察眼とエレガントな閨房描写を会得した、あっぱれに大人なバンド。過去の露骨な役者ノリを排した洗練サウンドも含め、トーク•トーク「Spirit of Eden」のようにカルト•クラシック化していくアート•ロック作だと思う。

●●●Best Live●●●

●Animal Collective/Coachella Festival(April)
●Sufjan Stevens/Royal Festival Hall(May)
●Ryan Adams/Union Chapel(October)
●Gillian Welch/Hammersmith Apollo(November)

*偶然ながら、「久々/復活」がキーワードになるライヴが多かった。休息&充電はミュージシャンにも大事みたいです。にしてもギリアンのライヴ初体験は、軽くショックを受けたくらいすごかった。死ぬ前に、一度は観ていただきたいパフォーマー。

●●●Reissues●●●

CAN/Tago Mago—40th Anniversary Edition(Mute)
Jim Ford/Harlan County(Light in the Attic)
Jean-Claude Vannier/Electro Rapide(Finders Keepers)

*カンは、続くオクラ缶こと「Ege Bamyashi」に並ぶ、一家に一枚の絶品な名盤。ボーナス•ディスクのライヴ(72年)も、48分の名曲三連打とルーズ•フィットな生グルーヴで期待を裏切られなかった。にしても、このタイトルは日本語の「タマゴ」から来ているのだろうか?と考え込まされた。ニック•ロウも惚れたジム•フォードは、スワンプ〜カントリー•ソウル名盤(69年)のアナログ再発。JCヴァニエは未発表〜レア•インスト集なので「再発」ではないけど、60年代末〜70年代のヴィンテージ•ヴァニエ•サウンドが堪能できます。

それでは、皆様に穏やかな新年を祈りつつ。Happy good music hunting&discovories in 2012.

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週刊琴線12月23日号

去年はアップし損ねた年間の「My Favourite Records」は次回のポストに回すとして、今回は今年最後の雑感をもろもろ。

郵便配達人が来ても、もうクリスマス・カードは混じらなくなってきた。イギリス人は気が早いというのか、12月の第1週くらいからカードを発送し始める。元旦に年賀状の束をチェックする感覚がしみついている日本人からすると「フライングし過ぎ?」と指差し注意したくもなるが、クリスマス期の郵送ラッシュはすごいので、そこに巻き込まれて遅れる・・・という間抜けな展開よりはマシということなのだろう。
カードと言えば、近所にカード&ギフト雑貨のお店が新しくオープンして、今年はそこでクリスマス・カードを買った(と言っても、送る相手は数えるほどしかいませんが)。店構えは小さく商品も厳選されたものしか置かれていないが、バイヤーのセンスはレトロとポップがいい感じに混じっていて悪くない。高価すぎて買うのは到底無理だが、ちょっとだけ扱っているアンティーク家具も60年代の事務机やステンレスのファイル・キャビネットなど、シンプルなフォルムがかなり素敵である。

文房具や雑貨に対する愛情/こだわりという点で、日本人の感覚は世界的に見てもかなり上位に位置するのではないか?と思う。別に自分の趣味がいいと言うつもりはないし、基本的には消費財なので安いありきたりなアイテムでOKなのだが、ノートやペン、メモ帳、封筒といった程度の品物ですら、デザインや使い心地、色調が自分のクライテリアにマッチしないと使えない。その基準も歳月を重ねるごとにゆるゆる変化しているのだが、昨今で言えばノートやメモ帳は基本的にリング・バインド/切り取りのミシン目がついているものが優先。インクが裏写りする薄い紙も、あるいは無骨に厚過ぎるのもNG(罫線の幅も重要ポイントです)。ペン先はフェルト・ティップがベスト・・・とかなんとか、自分以外は誰もまったく気にしない些細なディテールにいちいちつまづいてしまうのは、国産から輸入品まで異様に雑貨類が豊富なモノ天国の日本に生まれ、東急ハンズやロフト、ソニー・プラザetcにスポイルされてきた呪いなのかもしれない。
そもそも、イギリスには「街角の文房具店」みたいな存在が少ない。ClairefontaineやRhodia、Europaあたりを普通に扱ってるレベルの文具チェーン(Paperchase、Rymans)は大きい町や繁華街にしか出店していないので、普段使いとしては①ニュース・エージェント(こっちで言う、まあコンビニ)、②スーパー・マーケット、③WHSmith(基本は雑誌・新聞のキオスク・チェーンだが、書籍、タバコ、菓子、文具なども販売)が主なオプション。いずれも、BICといった定番メーカーの定番品を除くとロクなものは見つからないOR大雑把で粗雑な作りの安物ばかりで、アンテナはピクリとも反応しない。カード類にしても気が遠くなるくらいNaffでファンシーなものが多く、200種くらい並んだ中で1枚「かろうじて及第」に出くわせば御の字である。

んなわけで近頃はノートやペン類は通販のバルク買い傾向なのだが(=使い終わるごとにいちいち新しいのを買うのが好きなのでまとめ買いは基本的に苦手ではあるが、そこは我慢)、だからと言ってイギリス人が文具や雑貨にこだわらないのか?と言えば、もちろんそんなことはないだろう。高級文具や雑貨には興味がないのでまったく知りませんが、「英王室御用達のペン・メーカー」「老舗紙問屋のこだわりの一品」だのは、掘ればいくらでもあるのだと思う。古い国だもんね~。ただ、先にも書いたように、自分にとっての文房具や雑貨はステータス・シンボルでも、あるいは見せびらかすためのファッション・アイテムでもなんでもないので、学生仕様あるいは事務使いの実用性がある安価なマス・プロ商品で、かつ出しゃばり過ぎない個性がちょっとある~ついニコッとしてしまうユーモアがさりげなく漂っている、というのが理想。

こう書いていて、先だって我慢できずに買った「Saul Bass:A Life in Film&Design」が頭に浮かんだ。むちゃ重くてむちゃデカい、いわゆるコーヒー・テーブル本なんだけど、ソール・バスの多岐にわたる仕事をまとめた美しい内容、ページを繰っているだけでもかな~り幸せな気分になれるのは保証します。ソール・バスは映画仕事を通じてその名前を意識したクチだが(ヒッチコックとのコラボがもっとも有名かと)、この本を通じて、商業デザインも素晴らしいのを再確認。それはまあ、マス・プロ商品のパワー=デザインのメディア・パワーと普及力を無意識のうちに吸収して育った世代ならではの感覚なのかもしれないけど、ハイ・ブロウで占有的な何かよりも、普遍的にアピールする/でも何かエッジも備えたポップが自分は好きらしい。アンディ・ウォーホルの子供なのか、要は。

アメリカやドイツ製の安い文房具や北欧系の洗練が基本的に好きなのも、商業デザインの「機能と美の融合」が根底にあるからかもしれない。かと言って、MUJIこと無印良品は「日本的」に気を回し過ぎたミニマリズムがエソスとしてあるだけに、ダイナミズムや遊び心・アホさが欠如していて、使い勝手や素材感はともかく、そんなに好みではない(でも、今年フジ・ロックで取材した際に質問表を書きつけた当方の無印製メモ帳を見とめたジェフ・トゥーディーに「MUJI、俺も好きだよ」と誉められた時は、心の奥底で「ありがとう無印良品~~~!」と叫びました)。要は、高級でシックなハイ・エンドとベタベタごてごてした大衆性の間をいく、ニッチな「ナイスに洗練されたデザイン&リーズナブルな」文房具・雑貨が少ないってことなのかもしれない、イギリス。

故にクリスマス・カードやプレゼント、来年の手帳といったアイテムを買う年末のこの時期は毎年あちこち動き回ることになって面倒なのだが(Libertyは大好きなんだけど、あそこで何もかも買い揃えられるほど裕福ではありません)、徒歩の距離にちょっと気の利いたカード&ギフト店が登場したのは助かった――とはいえ、開店からまだ2、3ヶ月しか経っていないのに、早くもこのお店の先行きを危ぶんでもいる。
自分の暮らすエリアは、若いファミリーがまだ手を出せる地価なだけに徐々に中流ノリの波が押し寄せているとはいえ、基本的にはラフで庶民的な町。北ロンドン、たとえばイズリントンあたりならまだしも、3ポンドも出して手作りプリントのスマートなカードだのを買う人はあまり多くなさそうである。この界隈で最近オープンしたお店で、しかしこじゃれたデリやカフェといった飲食系はしっかり繁盛しているのを考えるに、開店のタイミングも悪かったのだろうな(不況になると、衣食住の優先順位は食>住>衣になるものなので)。志と感性は好きなお店だし、他にこういうショップもないエリアなのでがんばってほしいが、正直あまり賑わってはいない。デンホルム・エリオットにちょい似の店長さんの表情に、心なしか苦悩の陰りがにじむ気もする今日この頃でございます。

ローカル・ネタが長くなったので、以下は思いついたまま、ここ最近で心に残った日常の情景をランダムにピック&サクサク進めます:

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●来英していた友達のリピート・リクエストで、久々にランチしに行ったSt John Wine&Bread。んー、相変わらずどれも美味しかったですぅぅ。自分的なハイライトは、コールラビのサラダ(薄切りカブみたいなコールラビとセリっぽい香味野菜:Chervilをレモン・ドレッシング&ケイパーで和えたさっぱり感がナイス)、ニシン系の小魚(Sprat)の燻製と紫キャベツのピクルス。大好きなデザートのシャーベット(この日は林檎。でもレモンが一番美味)とウォッカもナイスだったし、パンも、もちろん最高。

●「ルパン三世:カリオストロの城」。英語吹き替え版を友達がゲットしたので久々に観たんだけど、ストーリー・演出・作画、そのどれをとっても自分の頭の中に保存されていたイメージ――普遍的なアクション・アニメのひとつの頂点――との認識を壊されることがなくて、思わず感涙。っていうか、ほんとルパン好きなんですよね~。緑スーツ&第1シリーズは、夕方の再放送を何度も観たクチなのです。イギリスってホームズの国だからなのか、アルセーヌ・ルパンは知名度がゼロに等しいのも発見だった。ホームズ、ルパン、少年探偵団を読み漁った人間としては、ちょっと意外。
ともあれ。「お姫様救済」の古典にひねりを加えたストーリー、無声映画やマルクス兄弟のスラップスティックで「動きとスピード」に満ちたギャグ、ホームズ+ルパンな探偵小説味、007に代表される60~70年代のスパイ映画あるいはカー・アクション映画のムード(車や銃のディテールもナイス)といったカリオストロの無国籍ぶりと高いクオリティは、宮崎駿と言えば「My Neighbor Totoro(となりのトトロ)」、「Spirited Away(千と千尋の神隠し)」あたりがもっとも知られているイギリス人達の間でも絶賛だった。
その反応はとても嬉しかったんだけど、アメリカ人声優の吹き替えはルパンと切っても切れない存在である山田康雄の絶妙な軽さ&ユーモアを再現できてなくて(次元や銭形、クラリスはまあまあだった)、そこだけは切なかった。「この声優はクリント・イーストウッドも当たり役」と説明しようと思ったけど、そもそもクリントと山田康雄の声って全然似てないので、かえって話がややこしくなりそうなので諦めた。「コナン」と言いたいところだけど、次はやっぱり「ナウシカ」かな?

●日本語版の名吹き替えと言えば、モンティ・パイソン。YouTubeに多数のスケッチがアップされているのでヒマな時に見返していまだに笑ってるんですが(スペイン異端審問やデニス・ムーアと、登場スケッチをまとめて観れるのは便利)、パイソン後にエリック・アイドルが作ったRutland Weekend Televisionもアップされていて感動。RWTは、いまだ権利関係がややこしいらしく(?)DVD化されていないのです。中でも一番ウケた、「ナンセンス早口(Gibberish)」を。逆回転しゃべりとか、エリック・アイドルって言葉芸の超人だね。

●パイソンズ~RTWを観たくなったのは、RWTでも活躍したニール・イネスがいたボンゾ・ドッグ・バンドのヴィヴィアン・スタンシャルの伝記「Ginger Geezer」を読んでいたせいでもある。ヒットはそれほど多くないボンゾズながら、大衆音楽やジャズ、ロックンロールを混ぜこぜにし、ダダやシュルレアリズム(メンバーはアート学生)をぶち込んだ爆発的なライヴは、当時のイギリスにおいては異色中の異色。そのぶっ飛んだセンスとアナーキーさは、ヒッピー・ジェネレーションを通り越して、むしろパンク~アート・ロック世代と共鳴していたのかもしれない(後にダムドのシングルに客演したことも)。
エリック・クラプトン、ビートルズ、キース・ムーン、スティーヴ・ウィンウッドと言った面々からも愛されたヴィヴィアンの、60~70年代ブリティッシュ・ロック・シーンに残した唯一無二な彩りと影響とがよく分かる本なので、英ロック好きはチェックしていただきたいです。にしても、ヴィヴィアン・スタンシャルが最後まで格闘し続けた、内なる陰と陽=壮絶な自己破壊志向(アルコール&ドラッグ依存)と等身大以上の知性とキャラ(彼のエキセントリックでキャンプな英国味は、現在スティーヴン・フライやジャーヴィス・コッカーに引き継がれております)とは、読んでいて辛くなります。

●RWTと言えば、RWTにゲスト出演したことがあり、パイソンズ「Life of Brian」のプロデューサーでもあったジョージ・ハリスンのバイオ映画「Living in The Material World」も観た。ディラン、ストーンズと音楽映画づいているスコセッシが、いよいよビートルズを取り上げた作品です。ジョージの未亡人オリヴィアが全面的に協力、レアなアーカイヴ映像やプライヴェート・フィルム、ポール、リンゴ他関係者インタヴューも多数盛り込まれているのでビートルズ・ファンは必見だと思う・・・が、3時間30分近い大ヴォリュームのほぼ半分がビートルズ時代のジョージに割かれていたために、ソロ期の描写が駆け足気味だったのには若干不満が残った。お世辞にもビートルズの「マニアックなファン」とは言えない自分ですら、前半のストーリーや逸話は本、映画他、色んな形で何度も触れてきた。それくらい、ファブ・フォーは幾度も語られ、論じられ、描かれてきたとも言える。そうした要素を丁寧に浚い直すことで、ジョージのスターダムや現代的な物質文化の否定~精神世界への傾倒という背景/過程を浮き立たせるのが狙いだったのかもしれないが、個人的にはもっと後半を充実させてほしかったなあ、と。

●スコセッシと言えば、最新作「HUGO」。彼にとって初の子供向け映画なんだけど、大人もばっちり楽しめる抜群な内容だった――というか、子供映画というジャンルを隠れ蓑に、フィルムや本といった現デジタル・カルチャーの氾濫の中で刻々と失われつつある「黄昏」のメディア(ひいては、1930年代のパリに暮らす時計職人の息子というヒューゴのキャラクター設定に象徴される「手作りの工芸/技術」)とその歴史に、スコセッシがバシバシとオマージュを捧げている感じである。
キーになるのは映画史に残るパイオニアのひとり:ジョルジュ・メリエス(「月世界旅行」他)と彼の作り出した自動人形で、主人公の孤児ヒューゴとイザベルのコンビがその謎を探ることで黎明期映画の魅力が浮き彫りにされていく。リュミエール兄弟、ヴァレンチノ、ルイーズ・ブルックス、「国民の創生」、チャップリン、バスター・キートンといった無声映画期アイコンの数々がモンタージュされるシークエンスはスコセッシ本人の「映画という夢とその可能性の発見」を辿り直すよう。また、第一次大戦の勃発で映画を諦めたメリエスが身をもがれる思いで可燃性のプリント(自然発火することもあるくらい、映画初期のフィルムは不安定な素材だった)を焼却するくだりで、「Fantomas」のポスターが壁から剥がれ落ちる・・・etcといったディテールなど、スコセッシの映画愛&情熱――この人はFilm Foundation会長として、古い映画の修復作業にも関わってきた――が伝わってきてウルウル。メリエスのスタジオの前で記念撮影が行われる場面でスコセッシがカメラマンとしてカメオ出演する場面は、映画という「幻影」の中でなら可能な「メリエスと同時代人になれる夢」をスコセッシがかなえたようで、なんともチャーミングだった。
メリエスを演じたベン・キングスレーの役者熱の高さ、クリストファー・リーの加えた素敵な重み、「Borat」でおなじみのサシャ・バロン・コーエンが素顔(でもこの人、基本的に漫画顔)で健闘・・・と大人達も随所でスパイスを利かせていて、近年の子供映画の甘ったるさ&派手なアクションとギャグへの依存&安直なモラルに与することなく、リッチなディテールとニュアンスは見終わっても様々な感慨を引き起こしてくれる。とはいえ、スクリーンでもっとも輝いていたのは主役:ヒューゴを演じたエイサ・バターフィールド君。時に少女かと見まごう中性的な顔立ちとイノセンスと意志が混じった青い目はカメラが自然に追い回す磁力を放っていて、さすが俳優発掘が上手いスコセッシが選んだだけある。そのぶん、当世名子役として引っ張りだこなクロエ・モレッツ(スコセッシは英国人をイザベル役にキャストしようとしていたらしいが、出自を伏せてオーディエションに臨んだとか)はちょっと損したかも? ヒューゴとのコンビネーションは悪くないけど、演技に早くもかすかなハリウッド臭が漂っていて、スコセッシがこの役に求めていたというオードリー・ヘップバーンのピュアネスと洗練のバランスはあまり感じなかったです。
この映画は自分にとって初の3D体験でもあった。眼鏡、かけましたよ~。でまあ、なるほど奥行きのあるショット、花火・雪・スモークといった効果を使った場面はその威力を十全に感じたし、面白く観たけど、ジェームズ・キャメロンのように「3Dこそ映画の未来」=これからの映画体験にエッセンシャルなもの、とまでは思わなかった。というのも、3Dが活きる/映えるシーン設計っていったん目が慣れるとすぐに察しがつくものなので、製作者側の演出やフレーミングの意図が見えてしまいがち。この「HUGO」にしても、編集のテンポにモタつきが多く感じられたのは(筋の展開に子供オーディエンスがついていきやすくするための配慮もあったのかもしれないが)、3D撮影が前提にある以上不可欠な「見せ場」シークエンスが追加されたからじゃないかと思う。
そのロジックは許容できるにしても、たとえば花屋の場面で花達の美しいディテールがボヤけていたり、視覚トリックや面白さの犠牲になるショットもあった。この作品は通常の2D版も同時公開されていて、ゆえに「過渡期」と考えれば、たとえばデジカメ写真の華やかさと深みのなさに慣れない自分のオールド・スクールな感性――CDやMP3よりもアナログ派というロートルですからね、何せ――も邪魔になっているのだとは思う。
ただ、グレッグ・トーランド、スタンリー・コルテス、ハスケル・ウェクスラー、ロバート・バークス、ジャック・カーディフ、スヴェン・ニクヴィスト、ラウル・クタール、ヴィットリオ・ストラーロ、ニコラス・ローグ、ヴィルモス・スィグモンド、ティモ・サルミネン・・・等々、監督の「目」を代弁し「ルック」を規定する存在である撮影カメラマンにひとかたならぬ愛情を感じる身としては、彼らの緻密な光と影のアートが3Dブームの大波にさらわれないことを、つい祈ってしまうわけです。
にしても、予告編で3D版「Star Wars Episode1:The Phantom Menace」を見せられたのには驚いた。この調子だと、いずれかつての大ヒット作が次々に3Dリメイク&再上映されることになるのだろう。お父さんお母さん世代が、子供と一緒に過去を追体験できるってところ? 音楽のリマスターやリパッケージ商売に続き、映画もまた、レトロの永遠輪廻にハマっていくのでしょうか・・・

●クリスマス&元旦は、何もやることがないので「寝て食って飲んでDVD観て」なグータラが基本の自分。TVにに関しては、アッテンボローの「Frozen Planet」、デンマーク産刑事ドラマ「Forbrydelsen」こと「The KillingⅡ」のオンエアが終了したところで、元旦スタートの「Sherlock」第2シーズンまで、ぶっちゃけ持て余しております。
ForbrydelsenⅡ」は、第1シリーズが秀逸だっただけにフォローは大変だったと思うけど、手に汗握る展開とストーリーの面白さは相変わらず秀逸だった。前シリーズが20話だったのに対し、今回は10話完結。ゆえにストーリーのテンポもアクション重視でずいぶん速まって、第1シリーズの難点だった「え~っ、この時点で未知の新キャラが容疑者で浮上?」という反則スレスレなレッド・へリング問題は減ったものの、人間ドラマや各キャラの造形&突っ込みはそのぶん多少薄まったかもしれない(そもそも冷静に考えても、事件発生から10日間で5人殺害/主人公サラ・ルンドは復職→解雇→復職/政局は二転三転と、1日が36時間くらいないとあり得なさそうな展開は多い)。
とはいえ連続殺人事件の捜査を軸に、政治ドラマ、人種問題、戦争の傷跡、家族の絆・・・と何層にも重なったプロットはお見事で、最終回までがっちり見守りました。が、唯一残念だったのは、この英オン・エアに際した前プロモーションで、「ForbrydelsenⅢ」が制作進行中であることが伝えられてしまった点。なんで残念なのか?という説明をここでしてしまうと、第2シーズンの面白さが台無しになるのでコメントは自粛。できれば、ご自分の目で確かめてくださいませ。ネットを浚えばネタはすぐに割れるでしょうが、そこをグッと我慢してでも、このドラマ・シリーズは観る価値あると思います。
Sherlock」は、日本でも放映されたようですが、コナン・ドイルの名作のモダナイズ版。「緋色の研究」をもじった「A Study in Pink」から始まり、現代ロンドンを舞台に、ネットや携帯で武装したホームズ&ワトソン組が大活躍するわけです。古典作品の現代アップデート/翻案というのは、頭で考える以上に案外難しいもの。たとえば、ガイ・リッチーの「Sherlock Holmes」にしても、(好き好き~)ロバート・ダウニー・Jrの「Iron Man」流れな派手味を楽しめたとしても、設定をヴィクトリア朝から現代に移していたら、ガイ・リッチーの根本的な感性のダサさが露呈していたのではないかと思う。
ともあれ、このシリーズは①ホームズ役のベネディクト・カンバーバッチ(最高。彼の鶴のように優雅な姿を眺め、推察力と知性を裏打ちするような声を聴くためだけでも、観る価値は充分)、そして②ワトソン博士にマーティン・フリーマン(ジェイソン・ベイトマンと並ぶ、「脇役もこなせる普通さなのに、ナイスな後味がちゃんと残る」イイ役者。「The Office」以降快進撃で、「The Hobbit」シリーズのビルボ・バギンズで一気に盛り上がるかと)というハマったキャスティングを敷いた時点で勝利。お正月スタートの新シリーズ第1話は「A Scandal in Belgravia」、すなわち「ボヘミアの醜聞」がベースになっている回なので、ホームズを頭脳戦で打ち負かしてみせた女傑:アイリーン・アドラーがどう描かれるのか、楽しみであります。

お~~っと忘れちゃいけない! シェーン・メドウズ新作「This Is England ‘88」もありました・・・が、今回はクリスマス特番という性格もあり、オリジナル放映は12月13日~(3夜連続の3話完結)。C4は観れないので、1月のDVDリリース待ちです。観れた時点でこのブログでレポりたいなとは思ってますが、これまでざっとチェックした英レヴュー(細かくリサーチすると楽しみが減るので、うーん我慢の子)はおおむね高評価なので、ショーン&ザ・ギャングは元気みたいですよ!
ちなみにこのシリーズ、既に次作=「TIE ‘90」企画にもゴー・サインが出ている。シェーン・メドウズ当人のパーソナル&若気の至りな思い出が詰まった、いわば半自伝的とも言われるこのシリーズ、たぶん当時のレイヴ・カルチャーを背景にした作品になるだろうとされているその「’90」が最後じゃないかと思う。それは、確定してはいないみたいなんですけど、もしかしたら・・・シェーン・メドウズがストーン・ローゼズの再結成ドキュメンタリーを撮影するかも、という話があるから。シェーンは当日アシッドを食いすぎてスパイク・アイランド・ギグ(1990年)を見逃したらしく、その慙愧の念にペイバックする/落とし前とつけるためにも、この恐らく1回きり(と思いたい)のリユニオン、そして90年の自分を描くのは、彼にとっては相当でかいだろう。自分にとってもローゼズってそういう存在だったんで、ここでひとつのピリオドを打ちたいという気持ち、なんとなく分かるのです。

なんだかんだで長くなりましたが、年内にギリアンのライヴ話、そして年間お気に入りアルバムはアップするつもりです(ほんと〜?)。と言いつつ、今年のクリスマス商戦でびっくりした広告を最後に‥‥。

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Lawrence of Belgravia/25October2011@LFF:NFT2

久々に映画の話です。秋以降観たい映画が相次いで公開されているのだけど、自宅DVD鑑賞の楽さがチラつき、テレンス・マリックの「The Tree Of Life」(最高!)を除くと、ほとんど逃している。
と言いつつ、London Film Festival=ロンドン映画祭だけはなんとかキープした。出品作の多くが一般公開前~来年公開予定作品なので、一足早く話題作を体験するにはいい機会だし(と言っても、既に他国映画祭でプレミア済みの作品も多いけど)、毎年ラインナップが発表されるたびリスティングをチェックしている。
今年は絞りに絞って――外国映画や短編など、観たい上映に全部通ったらかなり懐に痛いので――マイケル・ファスベンダーとスティーヴ・マックイーンが「Hunger」に続き再び顔を合わせた「Shame」、パオロ・ソレンティーノの新作にして初の英語作品「This Must Be The Place」を狙った・・・んだけど、どっちも人気でチケットはすぐに完売! もっとも、どちらも確実に一般公開されるレベルの作品なので、あまり拘泥はしなかった。そこらへんはライヴのチケットとはちょっと訳が違います。

「Shame」は、ここ何年かで「病気」としての認識が定着した感もあるセックス中毒の男性が主人公の作品。エロやサイコロジー、病理ネタなど、そもそも窃視者のメディアである映画とは切っても切れないエクスプロイテーションが全般的に好きというのもあるけど、ポイントとしてはぶっちゃけ、マイケル・ファスベンダーが大きい。このドイツ/アイルランド系の俳優、画面を通して無責任に鑑賞し、何も考えずに愛でる対象――ペットやアイドルに近い?――と言う意味では、ここ最近でもっともグッとくる人。
様々な賞を受けているし、作家系の監督とも幅広く仕事しているので、演技力もお墨付きなのだろう。が、自分にしてみればこの人の顔と身体と動きとを見れれば満足なので、どんな内容の作品でも、実は構わなかったりする。
彼を認知した「Hunger」では、すさまじい減量といわゆる「役者冥利につきる」型の熱演、歴史と実在人物を描くストーリーの重さとが煙幕になって見えにくかったものの、現代劇「Fish Tank」で演じてみせたまったく異なるキャラ――モラルに欠ける、根本的に弱く、身勝手でシンパシーを抱きづらい、しかしだからこそリアルな男――に、彼のセックス・シンボルとしてのポテンシャルを感じた。女性監督アンドレア・アーノルドの作品だけあって、ヘテロ女性の欲望やファンタジーが、マイケル・ファスベンダーを通してストレートに画面に焼き付けられていた、とも言えるかな? 川で魚を捕まえるシークエンスとか、頻繁に登場するマイケルの上腕とその筋肉とか、ツボをつかれる瞬間は多数。男性監督の撮った作品とは、やはり視線や美学がちょっと違う気がする。

・・・なーんて書くと、男性諸氏は「女の執着、暑苦しそ~!」と引くかもしれない。けど、ゲイ監督のカメラが少年/青年/男性を追う時のネトッとしたエロさやフェティシズムに較べれば、女性の目線なんてまだサバサバしたもの。結局のところ女性というのは、「あるがまま」よりも「理想」を追いかける生き物だと思うので、映像もちょっとファッション雑誌のフォトシュートっぽい(と言っても、「Fish Tank」のストーリーそのものは激辛いですが)。とはいえ、伝統的に数が少ない商業系の女性映画監督の少なさ、プロデューサーから脚本から何から男性陣に牛耳られた(音楽業界以上にコンサバな)映画界の現状を考えれば、こういう視線が存在するのは大事だと思う。
ファスベンダーは、以降タランティーノ(「Inglourious Basterds」)、「Sin Nombre」が素晴らしかったキャリー・フクナガによる古典「Jane Eyre」への挑戦、来年公開のフロイトとユング絡みの話題作「A Dangerous Method」ではクローネンバーグ・・・と、各所から引っ張りだこだったりする。メジャーとアート・ハウス・シネマのギャップを埋められる存在という意味でも、コスチュームも現代もこなせる意味でも、また文句なしの美丈夫という意味でも、この人に80~90年代のダニエル・デイ-ルイス、あるいはジェレミー・アイアンズの後継者、との任を負わせたくもなるわけです。

そのあくまで個人的で過剰な期待は、「(彼が出ているなら)どんな内容の作品でも構わない」という点にも露わかもしれない(ダニエルもジェレミーも、彼らがキャスティングされてるだけで「その映画、観たい!」と思わされたもの)。何だかんだ言って観ちゃったもんな、「X-Men:First Class」。SFは昔から好きなジャンルで、近年再興されたDCやマーヴェルのアメコミ映画はひいきな俳優(クリスチャン・ベール、ロバート・ダウニー・ジュニア、エドワード・ノートンetc)も混じるので結構マメに観てる方だけど、「~First Class」、その手の映画の中では自分的なランキングは三流だった。
それでも、マイケル・ファスベンダー(マグネト)とジェームス・マケヴォイ(プロフェッサー・エックス)のホモエロティックすれすれの友情を眺めるだけでも2時間以上の尺を耐えられたし(エックスが車椅子生活を強いられる負傷を負う、ラスト近くの浜辺のシーンの会話とか、もー爆笑しっぱなし)、成長株:ニコラス・ホルトのフリーク混じった美貌も堪能。タイプキャストをばっくり打ち破ってケヴィン・ベーコンが悪役だったのも、「Iron Man」でのジェフ・ブリッジスばりにナイスなひねりだった。

「~First Class」は既に公開済みの「X Men」シリーズの序章という設定。続編が頭打ちなら、その前(=ヒーロー/アンチ・ヒーローのオリジンを探る)を・・・という、ハリウッドの悪あがきとも受け取れるけど、ウォルヴァリン:ヒュー・ジャックマンの顔が基本的に苦手なので(でも、「The Prestige」での彼は悪くなかった)、実は「X Men」フランチャイズの前作群は観ていない。でも、パトリック・スチュワートとイアン・マッケレンが脳裏にチラつかずに済んだのは、逆に良かったかも?
そういや、ちょっと前に英メディアで「どっちがホット?対決」としてマイケル・ファスベンダーとライアン・ゴズリングが俎上に上がっていた(その結果は僅差でゴズリング勝ち)。どちらもここ数年でめきめき頭角を現してきた、2010~2012年にかけて出演作も多数の主役級俳優なので、なるほど納得。ライアン・ゴズリングは「Half Nelson」、「Blue Valentine」までしか観ていなくて、「Drive」未見なんですけど、この人も出演作のチョイスがナイスで気になるアクターです・・・もっとも、彼の顔そのものはあまり好みではなかったりする。ニコラス・ケイジばりに長すぎ&唇が薄すぎで、要素が顔の中心に集中しているのも、うーん。この系統の顔なら、エドワード・ノートンの方が好き。
ただ、全体としてスタイリッシュで「雰囲気」のある人ではあると思うし、ピンナップ/フォトジェニックというより、自分にとっては画面で動き、喋るところを観る方が遥かに魅力的な人なので、実は映画俳優の王道なのかも?? 声がイマイチなマイケル・ファスベンダー(アイルランド訛りの役柄とか、聞いてて苦笑してしまう)に較べて、ライアンの方が耳にいい質感で響きが心地いいのは確かなので、自分にとっての両者の対決はまだ様子見。ライアンが肉体派のアクション映画で主役を張り、マイケルがヒップスターなインディ映画あるいはコメディで才能を証明するまで待ちます――どっちも、別にオブセッシヴに追っているぞっこん好きな俳優ではないので、あくまで余興ですけども。

「This Must Be The Place」は、ショーン・ペンが主演。その役柄は、隠遁気味で干上がったロック・スターで、見た目はロバート・スミスそのもの(笑)の根暗なゴスながら、亡き父親のルーツを探るべく、アメリカに潜むナチを追っていく・・・という筋書きだ。

観てもいないのにあれこれ書くべきじゃないかもしれない。けど、音楽(「Speaking In Tongues」収録曲にちなんだ映画のタイトルに恥じることなく、デイヴィッド・バーンもカメオ出演)とロード・ムーヴィが混じった内容、ナイスなキャスティング(フランセス・マクドーマンド他)に、軽い興奮を覚えるのは自分だけではないだろう。また、監督のパオロ・ソレンティーノは、汎モダン・ヨーロピアンな感性と洗練された視覚センスにうならされてきた人なので(「The Consequence of Love」、「Il Divo」は必見)、彼の初アメリカ映画というだけでも、見る価値は十分ではないかと思う。

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とまあ、観れなかった作品についてあーだこーだと長く書きましたが、やっとこ本題に移って:ロンドン映画祭の一環で観れた「Lawrence of Belgravia」。「アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia)」に引っ掛けたこのタイトルだけでピン!と来る人はあまり多くないだろうが、フェルト~デニム~ゴー・カート・モーツァルトで知られるカルト・スター:ローレンスを扱った音楽ドキュメンタリーです。
場内は、ラフトレ・トートを提げた若者やベル&セバスチャンTシャツのおっさんなど、さすがにインディ・ファン風情が多い。お客の9割が男性というのも、音楽ギークの実情を物語っていて興味深い光景でしたね(レコード屋の内部とちょっと似てる)。ちなみに、この上映は人気が高く、急遽追加日程も発表されたとか。
監督である元イースト・ヴィレッジのポール・ケリーも出席し、上映前に挨拶が行われた。現在はグラフィック・デザイン他で活躍している彼だが、昔の面影がちゃんと残ってる(髪型おんなじ!)のは、ちょっと泣けました。「~Belgravia」の撮影そのものは2005年からスタートしていて、企画者サイドにその都度映像をショウケースしつつオン/オフで製作を継続(2008年に一部が公開済み)、6年後の完成〜公開にこぎつけたという。

音楽やバンドはもはやドキュメンタリー映画の定番テーマで、最近だけでもスプリングスティーン、フー・ファイターズ、パール・ジャム、ジョージ・ハリスンらの作品が思い浮かぶ。しかし、ポール・ケリーは音楽ドキュメンタリーの常套手段であるトーキング・ヘッズ形式(家族、友人、関係者らの証言や述懐が多数挿入される)ではなく、ローレンス•ヘイワード当人の言葉でライフ・ストーリーを語らせ、彼の日常を追うスタイルを選んだ。
主役が既に世を去っている場合は、オーラル・ドキュメンタリーにならざるを得ないだろう。でも、アーティストが健在であってもいわゆる「TVインタヴュー」然とした様式的な語り場面を使うマンネリ気味な作品は多いので、この作品の、よりシネマ・ヴェリテ的なアプローチはなかなか新鮮。その意味で、(題材も音楽性もまったく違うとはいえ)対象へのリスペクトとシンパシー、そして友情が動機になっていた、キャメロン・クロウのパール・ジャム作品にあるインティメイトさに案外通じるものがあった。

作品は、ゴー・カート・モーツァルトの新作「On The Hotdog Streets」のレコーディング・プロセス~スタジオの模様~アルバム完成までを軸に、ライヴ活動、立ち退きに伴う引っ越し〜フラットの改装作業といった日常のスナップショットをカオティック&ランダムに交えつつ、折に触れて過去30年のローレンスの足跡を浮かび上がらせる・・・という展開だ。
子供時代の話(「自分の家族に何のコネクションも感じなかった。血が繋がってないんじゃないか?と思っていた」と言い切るほど、両親や生まれ故郷に違和感を抱いてた根っからのアウトサイダーだった)やバーミンガムのパンク・キッズだった頃の様子、過去のバンドのエピソードも時代を追って登場するが、たとえばフェルトのライヴなど、当時の映像やインタヴューは使われていない(それでも、当時の手コピなギグ・フライヤーやポスター、マーチャンの数々が映される場面は「おー」と思わされますが)。
それは、アーカイヴ映像の権利のクリアランスが困難といった実際的な障壁のせいかもしれない。が、作品の主眼は「ローレンスの現在」ということだろう。ポール・ケリー自身「ローレンスは常に前を見ている人」とコメントしていたように、80年代のカルトなギター・バンドへのノスタルジーではなく、現在進行形のストーリーということになる。映画の感想と共にその点を伝えたところ、過去の貴重な映像、あるいはレア映像を期待していたフェルト・マニアの友人は非常にがっかりしていたけれど・・・まあ、あの頃のローレンスのフラジャイルを絵に書いたような美青年ぶりとフェルトのメランコリーは、男であっても胸動かされる何かがあるから仕方ないよね。

たとえば「10年間に10枚のアルバムとシングルを出して解散した」フェルト、ナンバー・ワン・バンドを真剣に目指していたデニム、名高い潔癖症ぶり、メンバーから独裁者呼ばわりされるエゴなど、ローレンスにはいくつもの神話が付きまとってきた。というか、ミステリーや神話に包まれた過去のポップ・スター像への執着/憧れ、ポップ・カルチャーへの心酔が、アンディ・ウォーホル的な自己神話の創造にも繋がっているのだろう(「究極のヒーロー」として、ルー・リードの名前をあげていた)。
その、天然と作為とが長年の習慣の中で無意識に入り混じったと思しきエキセントリックぶりは、作品に強い磁場を生んでいる。たとえば、ローレンスのドライなユーモア&ちぐはぐさと相まって素晴らしいコミック・リリーフになっているフランス人ジャーナリストとの取材シーン。取材者側が「カルト伝説」を前に緊張し、近寄りがたさを感じているのが伝わってきて、自己神話の効力が伺える。マーク・E・スミスなんかもそうじゃないかと思うけど、「変人」との風評が先に立つ人というのは、その伝説性でメディアのくだらない矛先や生半可な分析を手玉にとり、ミステリーを維持しているのかもしれない。

地下鉄での移動を嫌う世俗の否定、「パトロンがつけばポップ・ヒットを出すのに」など、随所に顔を出すポップ・スター願望はオブセッション~誇大妄想のレベル。それに伴うのは強力なナルシシズムで、「イメージは大事。高価な服云々じゃなく、ボタンの位置とか、デザインにこだわる」とコメントしつつ、基本はシャビー・シックながら、なにげにYSLやヴィヴィアン・ウェストウッドを着ているのはプライドを感じます。
フラットに堆積した一見「ジャンクの山」には、しかし8歳の時に書いた創作劇のシナリオから、スポーツ・カードのコレクション(ジョージ・ベストのファンだったそう)、薬物のパラフェネリア、写真集、雑誌の切り抜き、ホームレス申請/ドラッグ検挙といった各種の法廷記録、古本、ノートブック他(先述のギグ・フライヤー等も、恐らくここから出てきたのだろう)、彼の歴史とインスピレーション、アイデンティティが詰まっている――と書くとロマンチックだが、それをポップ・スターになることだけを夢見て30年間生きてきた(浪費してきた?)人間の記録~夢の藻屑として捉えれば、うすら寒くもなる。
レコードやCDに関してはすべて賃貸保管庫に保存されていて、「フェルトのファースト・シングル以外は、別に高値で取引されてないよ」と、アーカイヴ管理者としての冷静な表情も見える。まんざら、幻想のバブルの中でだけ生きているわけではないのだ。レコードと言えば、「I’m against the 80’s」と歌い、70年代ポップを称揚してみせたローレンスはアナログ派。1枚のレコードを通して聴いてそこに没頭すること~別世界に連れて行かれる点を強調しつつ、イズリントンの中古レコード屋でスリーヴを繰り、「4000曲持ってる? だから何だってんだ」と、剣もほろろなのはナイスだった。

そんな彼の徹底した「俺様」ぶりと独自のロジック、美学への献身は、レアだからこそ熱心なファンを惹き付けもする。ベル&セバスチャン(=スチュアート・マードックはフェルトの大ファン)やセイント・エティエンヌといったシンパがゴー・カート・モーツァルトをライヴの前座に迎え、若手では(ドラムスやガールズではなく)秀逸な英トリオ:レッツ・レッスルと交流があるのもナイス。英音楽ライターの中で自分も一目置いているウィル・ホジキンソン、ピート・アスターとの語らい、ドミノ・ラジオ収録の光景フェルト・ファンジン出版記念イベントの模様など、ローレンスを信じるサポーター達の存在には少し胸が軽くなった。

しかし、フェルトが成功しなかった原因として「ジョン・ピールに嫌われたから」と自己分析してみせるくだりはかなり大胆だ。この上映日はたまたまジョン・ピールの命日でもあったんだけど、インディの守護聖人として神格化され、無条件に敬われている感すらある彼を悪く言う英音楽人、自分は初めて観たかも(笑)? しかも、JPの番組に送ったデビュー・シングル(オンエアはされた)を、「ケナすんだったら返してくれ」と手紙を書き、送り返してもらったというから驚異的である。普通は、「彼の番組で自分の曲をプレイしてもらえただけでも満足、マイ・バンド人生の頂点」ってもんですからね~。
それが本当にサクセスの妨げになったか否かは別として、ドラッグの爪痕が残る佇まいはもちろん、ギターを売り払い、さびれた公団に暮らしながらもレコーディングを続け、「ポップ・スターを目指す」ローレンスの決して楽でなさそうな日々は、ビター・スウィートな後味を残していく。いみじくも「自分は最初の〝ポップ・スター年金生活者〟になるかも」とジョークを飛ばしていたように――言うまでもなく、本物の成功したポップ・スターであれば年金に頼らずとも悠々生きていけるわけで、矛盾なんだけど――この人の場合、スターになるためにすべてを犠牲にする=夢をいつまでも追うのが生業であり、職業という感すらある。
と同時に、タイミングを逸する等々の不運続きで「IF?」の思いを抱かずにいられない、またファンからすれば不遇の天才であるローレンスのキャリアには、若干のセルフ・サボタージュも含まれているのではないか?なんて感じもする。もちろん、当人はマジで自らの正当性そしてスター性とを信じて音楽活動を続けているのだろうし、サボタージュなんて冗談じゃない、という話かもしれない。しかし、その夢がもしも本当に現実のものになってしまったら、彼は生きがいを失ってしまう――ローレンスがローレンスではなくなってしまう気がするのだ。うがち過ぎの見方かもしれないけど。
映画は、そんな風にある意味自らの作り出した檻に居残り続けてきた/そしてこれからも居残り続けるであろう、彼の姿をロンドンの冬空のもと、象徴的に捉えたシーンで幕を下ろす。なぜか悲壮感が漂ってこないのは、たとえ傍目には不幸で滑稽ですらあり、凡人の理解を超えた彼の生き様に、少なくとも妥協はないからだろう。エッジーとされるミュージシャンですら、それなりの成功や名声を手にすると、モデルか何かと結婚し、円満な家庭という名の炬燵の中にぬくぬく収まって(それが悪いとは思いませんが)いっちょ上がり・・・な今の世の中、ローレンスは孤軍奮闘を続けるのだ。

ちなみに、来年フェルトの写真集が出版されるそうなので、興味のある方はそちらもチェックください。

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